Life is Beautiful

主に進化生物学の理論のブログです。不定期更新予定。

知っておきたい誤謬3: Naturalistic Fallacy(自然主義の誤謬)

定義

事実命題(X is Y)が真であることから、規範命題(X should be Y)が真である、と結論づけること。 あるいは事実判断から、価値判断を引き出すこと。

論理形式

X is (or is not) Y. Hence, X should (or should not) be Y.

XはYである(ではない)。ゆえに、XはYであるべきなのである(べきではないのである)

分類

形式的誤謬。

説明

みんな大好き自然主義の誤謬*1。Is-ought fallacy、Hume’s guillotine(ヒュームのギロチン)とも。 姿形をかえて、この誤謬はそこかしこに姿を現わす。 形式的には、命題はXとYのみからなるものだが、より一般的には、X is Y. Hence, Z should be Wと表される。

具体的に、次のような主張を検討してみよう。

実はこうした「性別役割分担」は、哺乳動物の一員である人間にとって、きわめて自然なものなのです。妊娠、出産、育児は圧倒的に女性の方に負担がかかりますから、生活の糧をかせぐ仕事は男性が主役となるのが合理的です。ことに人間の女性は出産可能期間が限られていますから、その時期の女性を家庭外の仕事にかり出してしまうと、出生率は激減するのが当然です。そして、昭和47年のいわゆる「男女雇用機会均等法」以来、政府、行政は一貫してその方向へと「個人の生き方」に干渉してきたのです。政府も行政も今こそ、その誤りを反省して方向を転ずべきでしょう。それなしには日本は確実にほろぶのです。

news.yahoo.co.jp

ヒュームのギロチンにかかる恰好の例文だ。 「自然なもの」がいつのまにか「べき」文にすり替えられている。 「方向を転ずべき」という根拠が「自然だから」になっている。*2

用例

  • 「誰しもいつ死ぬのだから、重罪を犯した者に対する死刑は正当化されるべきだ」(ヒトがいつしかは亡くなるという事実は、死刑を規範として正当化する根拠にはなり得ない)

  • 「ライオンではオスが子殺し*3をすることがある。ゆえに、ヒトも子殺しをすべきだ」

  • 「動物園にきた。ああ、ゴリラは可愛いな…おや、メスが子育てをしてそれに専念しているようだね。ほら、ヒトもメスが子育てに専念すべきなのだ」 *4

  • 「オスが浮気するのは本能。ゆえにこれは仕方ない…法で認めるべきだ(法で規制すべきではない)」:オスは、多くのメスと交尾することで繁殖成功を高めることができる。これが前者の主張。いっぽう後者では、法という規範的な命題に言及している。前者は後者の主張を正当化するための根拠になり得ない。

  • 「日本には多くの外来種が侵入して分布を拡大させているが、これは自然の性だ。よって、それらを法で以って制限し、拡大するのを防ごうとするのは、自然の理に逆らっていることに他ならない。やめるべきだ」

  • 体外受精は、本来ならば(高度医療が発達する前は)有り得なかった。よって、そのような治療をすべきではない(法で規制すべきである)」

分析

これを簡単に見抜く方法がある。「どうして前者の主張が、後者をサポートする根拠になりうるのですか?」と問うてみることである。 これは一見すると単純なようで、非常に強力で(詭弁に対して)汎用的な、分析手段である。

ヒュームのギロチンといういささか物騒な暗喩表現は、『人間本性論』で彼が展開した、isからoughtへのjumpが困難であるという主張に由来しているらしい(ギロチンでは首が落ちますからね…)…が、あまり直感的によく理解できない暗喩である。 ヒュームは、道徳は理性から導かれないが「道徳は感情に由来する」と述べているとのことだ(要出典…Wikipediaさん…。)

ヒュームの法則 - Wikipedia

ここではっきり断っておきたいが、導かれる結論が誤りとは限らない、ということだ(誤謬の定義参照)。そうではなく、仮定した命題(X is Y)を、得られる命題(X should be Y)の根拠とすることができないので、得られた命題の真偽は不明なままということである。 ゆえに、"is"命題から"ought"命題が導かれることがあるからといってヒュームのギロチンを批判するのは、「誤った一般化」という別の誤謬に相当する*5

なお、Ought-is fallacyという、規範から事実を引き出そうとする、さらにヤバい誤謬も存在する。

雑感:怠慢である

非常に多くの例では、野外の動物での現象をヒトの社会問題に当てはめようとすることで誤謬が生ずる。 ヒトの社会問題は人間のやりかたで解決すべきであって、これを自然がどうだと言及することで解決案とするのは、怠慢である。

サッカーをしている人たちへのアドバイスボールは疲れない。よってパスをしてボールを動かすべきである。(ヨハン・クライフの名言)

派生的誤謬:「誤った類推、誤った比喩」

定義

命題Aを根拠に、それとは関係ない命題Bを主張すること。

説明

「具体例をあげる」ことと「アナロジーを述べる」こととを混同しているのが理由のように思う。 これまた、多くの文脈で見受けられる。

  • 太郎と次郎は、別々の車で、スピード違反を犯した。警察は(たまたま)太郎だけを検挙することに成功した。そこで太郎は「次郎も違反してたのにあいつを検挙せずに俺だけ検挙するのは不公平だ」と主張した。

太郎が違反したことと次郎が違反したことが、同一の基準で裁かれるべきではあるのは、真っ当である。 しかし、次郎が免れたからといって、太郎がそれによって制裁を喰らうべきではない、と主張するのは、詭弁である。 次郎の事例から太郎の事例を「類推」していることが誤謬である。 「次郎は検挙されなかった。よって、太郎も検挙されるべきではなかった」と書き換えると、Is-ought fallacyになる。

教訓

根拠に対する批判的精神がないのならば、 それを養うべきである。

*1:ちなみにムーアはその著書"Principia Ethica"の中で、「自然主義的誤謬」という言葉で自然主義を(より一般的に)批判している。

*2:ちなみに、進化生態学者の細将貴さんのご指摘:

なるほど。僕はいずれしかし、群淘汰を全面的に否定するのではなく、群淘汰がいつ誤りか・いつ誤りでないか、を考察してここにまとめたいと思う。

*3:オスは、繁殖中のメスの子どもを殺すことで、そのメスを繁殖可能・交尾可能な状態にしてしまうことがある。これは利己的な遺伝子の観点でいえば、異常な行動ではなく、「子殺しを司る遺伝子」がいかに繁殖成功を高めて広まり得たか、を説明する好例である

*4:友人が実際に、元カレに言われた実例だそうな。ぼくならそれを聞いたら「ならテメーもゴリラのオスのように真っ裸になればええやん」と言ってしまいかねないが、それはセクハラである

*5:一般的にoughtをisから導こうとする論文もあるようだ…

http://www.collier.sts.vt.edu/5424/pdfs/searle_1964.pdf

ここでbrute factという、「説明のない事実」という概念を提唱している Brute fact - Wikipedia

知っておきたい誤謬2:Amphibology (曖昧さに基づく論証)

定義

曖昧な定義に基づいた概念に基づいた推論のこと。Fallacy of ambiguityやamphibolyといった言い方もある。

分類

形式的誤謬の一つ。

論理形式

Claim X is made. Y is concluded based on an ambiguous understanding of X.

https://www.logicallyfallacious.com/tools/lp/Bo/LogicalFallacies/17/Ambiguity_Fallacy

説明

曖昧に定義された概念に基いて推論を行なうこと…というと抽象的であるが、実は日常的に非常に多く散見されるものである。具体例を見てみると早い。なお、抽象的であること(具体性を欠くこと)と、曖昧であること(明確性を欠くこと)とは、全く異なる概念である。

用法・具体例

  • 「この盾を貫ける矛は存在しない。この矛で貫けない盾は存在しない」(「貫く」という現象が明確に定義されていない*1
  • 「砂山から砂粒を一つ取り去っても、砂山のままである。よって、すべての砂粒を一つずつ取り去っても、砂山のままである」(砂山の何たるか、が明確に定義されていない)
  • 「頭が禿げ上がった人に一本の髪の毛を付け加えたところで、禿げ上がったままである。故に、1000億本の髪の毛を付け加えても、禿げたままである」(禿げ上がっている、という状態が明確に定義されていない)
  • 「1次会に僕は参加した。 \( n \)次会に参加したと仮定する。このとき、そのノリで\(n+1\)次会にも参加できる。よって数学的帰納法により、飲み会を永遠にはしごすることが出来る」(アルコールに対するキャパシティや時間が有限であるという前提を曖昧にしてしまっている)

分析

曖昧な仮定や結論に基づいた推論をすること自体が無茶であり、多くの誤謬やパラドックスを派生的に導く。

  1. 「多義性の誤謬」: 単一の言葉が複数の意味で用いて推論する(派生的誤謬も参照)
  2. 「誤った二値化」: たとえば量的な概念を、質的な概念とすり替えて推論することもこれにあたる*2
  3. 「誤った類推」: 誤った類推を導く(おおむね類推の過程で、曖昧さが発生する)
  4. 「誤った多元主義: 両立するが異なる複数のメカニズムを、その共通部分を明確にせずに、排他的なものとして扱ってしまうこと*3
  5. テセウスの船」: ロボットAがある。それを構成するあらゆるパーツを別の(同じ機能の)パーツに置き換えられて、メジャー・チェンジを遂げたロボットBは、その同一性*4をAに有するか(BはAとは別物と言えるか)?(同一であるという概念が明確に定義されていない) より卑近な例では、「脳みそを交換されたヒト2個体は、誰が誰なのか?」。

といった誤謬やパラドックスはその代表であると言える。

雑感:Among the commonest fallacies?

  • こうして書いていると、「自由な考え方」がもたらす功罪の一つであるような気がしてくる。 様々な考え方が両立してしかるべきであるが、 考え方(価値観)を共有しようとするのであれば、概念の定義も共有せねばならない。 これはむしろ議論の出発点だ。議論の前に、前提の設定が必要ということである。

  • 科学者としても非常に身につまされる思いである。 明確な定義を与えられていない概念について、ジャーナル上で論争が起こるのは、誌面・資源・時間の無駄である。 だからきちんと定義して、論理的に議論を展開せねばならない。 だが定義を明確にしたら、定義そのものにイチャモンをつける研究者がいるのも事実である。実に悲しい限りではないであろうか?

  • Plularism という概念がある。多元主義と呼ばれる(上にも書きましたが)。「単一の現象を複数のメカニズムで説明することを受け入れる立場のこと」である。これは、理論的研究の根幹を担う立場である。 具体的には、ある現象を説明するための2つの理論があった時、どちらかのみを採用するか、両方を採用するか、という問題である。このPlularismのProsとCons(いいところと、わるいところ)がある。まず良いところは、多様な価値観を受容する体系は、科学の意義を全うしている。なぜなら科学の意義の一つは価値観の創出であるからだ。ただこれは諸刃の剣だ。いろいろな人が、単一の現象を説明する理論に対して、「車輪の再発見的」に名前をつけ、そうした「理論」が乱立することは、誤解やそれに基づく無駄な論争を容易に招くからである。 最もフェアな方法は、「理論」に名前をつけることではない。根本的な理論(たとえばNewtonの法則、自然選択の法則、etc)に立ち返ってみるという、レトロスペクティブ(懐古主義的)な立場である。

派生的誤謬: 多義性の誤謬

定義

単一の文脈で、1つの言葉を多義的に用いて、推論を行なうこと。

分類・性質

形式的誤謬。曖昧さ(明確に特定されていない仮定や結論)に起因する。これは「同じ漢字」「同じ音」が用いられている、異なる2つの言葉を混同することで起こる。

説明

明確な定義を、ひとつの議論に関する文脈で与えないことは、 二枚舌な結論をもたらす。 詐欺師がよく用いる手の一つと言えよう。

具体例

  • 叙述的な例:「四川料理は辛い。辛いというのは、心の傷を負うことである。従って、四川料理を食べると、心の傷を負うことになる」
  • 概念的な例:「(生物)進化とは、遺伝子頻度が、世代を経て変化することである。宇宙の形成過程というのは、(宇宙)進化である。ゆえに、宇宙の形成過程は、遺伝子頻度が世代を経て変化することである」

*1:貫くという現象を具体的に定義したところで、おそらくこの文字通りの矛盾は解消されない。

*2:ただ、2つの非網羅的な選択肢に基いて推論をおこなうこと、というのがより一般的な定義だろう

*3:宗教における信仰が一般的に「誤った多元主義」であるとする、厳格な立場もあるようだ: http://www.marketfaith.org/2016/02/the-five-fallacies-of-religious-pluralism/

*4:AとBとが「同一である」というのを、A~Bと書くとすると、関係「~」が同値関係であるための必要十分条件は、(1)反射律:A~Aである;(2) 対称律:A~BならばB~Aである;(3)推移律:A~BかつB~Cならば、A~Cである、と定義される。ロボット間に同値関係を導入するためには、「同一であること」を表現するためのルールを定義せねばならない。これがここでは明確ではない、ということである

誤謬のカテゴリ

誤謬とは、論理的な推論上の誤りのことを指しますが、大雑把に言って、2つのカテゴリに別けられます:

  • 論理的 誤謬
  • 非形式的 誤謬

このカテゴリ分けは、形式的な記述が可能かどうかで分けただけなので、誤謬(に基づく論証=詭弁)を理解する上で本質的というわけでもありません。ただし学問上は、きちんと形式的に(つまりモデルで)記述できることには、「普遍性」を保証するというメリットがあると思います。

論理的誤謬(ないし、形式的誤謬)

Formal fallacy, logical fallacy,ないしdeductive fallacyとも。

Formal fallacy - Wikipedia

論理的な誤りです。数理論理学的な表現が可能です。

論理的誤謬の例

いくつか例を挙げます。詳しい解説は今後の記事で。

  • トートロジー(P implies P. Hence, P is true)
  • 後件肯定(P implies Q. Now, Q is true. Hence, P is true)
  • 前件否定(P implies Q. Now, P is not true. Hence, Q is neither true)
  • 自然主義的誤謬(P is Q. Hence, P should be Q)
  • 前後即因果の誤謬: Post hoc ergo propter hoc (P preceded Q. Hence, P causes Q)

非形式的誤謬

論理的な誤謬ではないが、論証における推論そのものに誤りが含まれていることを指す。

Informal fallacy

Informal fallacy - Wikipedia

非形式的誤謬の例

形式的な記述ができないので、具体的な例を挙げるに留めます。

  • ギャンブラーの誤謬(例:「イカサマのないサイコロで6以外の目が10回連続で出た。よって次に6が出る確率は高いだろう」)

  • コンコルドの誤謬(例:「いままでギャンブルに100万円も投資したのだから、これからも投資を続けるべきである」。「いままでヒドイ彼氏と5年も付き合ってきた。だからこれからも彼と付き合い続けるほうがよいだろう」)

  • 未知論証 ないし 悪魔の証明(例:「神が存在しないという証拠はない。よって神が存在するという結論は妥当である」)

知っておきたい誤謬1: Argument from Hearsay (伝聞に基づく論証)

定義

他者からの伝え聞きのみを根拠として、命題の真偽の判断を行なうこと

論理形式

Person X said A is true. Therefore, (one should conclude or accept that) A is true.

X氏が、命題Aは真だと述べた。故に、命題Aは真である(と結論づけるべきである)。

説明

他者からの伝聞が何かの主張を支持する根拠になる、と考えるのは、実務的には有り得たとしても、 論理的には誤りである。 「風評」もこのカテゴリに属する誤謬であり、徹底的に否定されるべきである。

日本の法律(日本法)では、刑事訴訟法320条1項に明記されており、 「[ある例外を除いては、] 公判期日における供述に代えて書面を証拠とし、又は公判期日外における他の者の供述を内容とする供述を証拠とすることはできない」。

刑事訴訟法第320条 - Wikibooks

ただこの「供述に対して限定的な根拠しか認めない」のは、日本法においては刑法に限られる。 米法ではもうすこし幅広く適用されるようではある。

Hearsay in United States law - Wikipedia

  • 「外国人集団が、我々の共有井戸に毒を投げ込んだらしい。とっ捕まえなくては」 *1

  • B「AさんがあなたのことをXXXって言っていましたよ」  自分「なんやて!?許せぬ」*2

教訓

「人の噂も七十五日」とは言うが、人の噂を流すのはやめよう。 「火のない所に煙が立たぬ」ということわざは論理的形式では「煙があるならば、そこには火がある」というものである。 「煙」が「噂」に相当し、「火」が「真実」に相当するのであれば、この諺は悪しきものとして、棄却されて然るべきである。 *3

噂ではなく根拠を示すべきなのである。

分析

究極的には…あるいは日常的には、「"友人の友人"の主張」を信じるすべが絶たれる。 たとえば、パソコンの購入をあなたが検討しているときに、 友人Aが「"MacWindowsよりも直感的に扱いやすい"と太郎は言っていた」と主張し、 それをあなた自身が信頼したとする。 それを誤謬として扱うべきだろうか? もし太郎がAの、あるいはあなた自身の親友であったり親族であった場合はどうか?これは信頼関係依存的である。

信頼関係への依存性に加え、分析的かつ現実的なアプローチはおそらく、3つ挙げられる。

  • 太郎の主張は再現可能か?(→お店で実際に確かめること)
  • 友人Aの主張は検証可能か?(→太郎に意見を求めること)
  • 利害は発生するか?(→たとえば太郎や友人Aが、MicrosoftAppleの関係者かどうかという背景の確認)

雑感:科学者の立場

「根拠ベースドな体系である(とされている)科学的いとなみ」が、 いかに市民的な信頼に基づいているかを認識せねばならない。 なぜならば、「第三者から査読された論文だから、根拠として信頼たりうる」ということを担保に、我々は科学者の科学的貢献を見ることになるためである。 *4 だからこそ、「再現が可能」ということが、(おそらく査読と同じくらいに重要な)保険になる。

科学者は、決して信頼を裏切ってはならない。 欺瞞・ズル・卑怯な真似をすることは、科学の価値や意義そのものを貶める、最低最悪の行為であると断罪すべきだ。

派生的な誤謬

権威に訴える論証(Appeal to Authority)

公的に権威をもった何かが正当化している命題は正しい、という論調のこと。 特にA氏に権威が備わっている場合でも、その人の主張(論文含む)を無批判に正当化してしまうことは、 論理的に誤りである。 日常会話で、権威を持ちだして何か説明するのは、ある意味ではとてもラクだ。 でも、議論に権威を持ち込むならば、自動的にその立場には自由が保証されるべきで、たとえば信奉・信仰問題として扱われるほうが適切である。

悲しいかな、権威の大先生と論文を書いたほうが、論文は雑誌掲載が容易になる。

なお、この「大先生と論文を書いていたときにはいとも簡単に論文が通っていた」という経験談を、山中伸弥教授は、バークレーでの講演会(2017年5月16日、開催)にて話されていた………が、この僕の主張は、伝聞に基づく論証か。。

脳科学者Mが主張しているから、仮説Qは正しい」

その他:伝統に訴える論証、多数派に訴える論証

例を挙げて説明せずともわかるだろうが:

  • 「チームAのサポーターがチームBに対して、不適切な野次を飛ばしているが、みんなやっているし、何よりこれがこのスポーツの伝統なのだから、やってもいいのだ」

教訓

関西人なら「〜やで。知らんけど

*1:これは決して不謹慎な例ではなく、『関東大震災朝鮮人虐殺事件』として知られている事例であり、今なお史的事実が研究されているようである 関東大震災 - Wikipedia

*2:僕はむしろ、こういう主張をするBに対してこそ、並々ならぬ不信感を抱く。

*3:この諺の起源はおそらくマーフィーの法則の一種なのではないだろうか:つまり、煙が観察されたときに火を発見したという事例が、(火が発見されなかった事例よりも)優先的に印象に残ってしまうということはあり得るだろう。

*4:これは直接的な伝聞による論証ではないが、査読者はふつう、編集者に対して「レポート」を送り、それに基づき、編集者は価値の判断を行なう。

知っておきたい誤謬集

「知っておきたい誤謬集」概要とその目的

誤謬とは、推論の過程に誤りがあるために、推論そのものが正しくないことを言います。 推論とは、仮定から 結論を導くことです。 誤謬があるかぎり、仮定が正しいかどうかに関係なく、その推論は常に正当化されません。 しかし同時に、「その推論で得られた結論が誤りである」という判断もまた、正当化されません。 つまり誤謬とは、仮定や結論そのものに対する概念ではなく、それらを結ぶプロセス(推論過程)に、適用される概念です。

このシリーズでは、代表的なものを分類・列挙するとともに、卑近な具体例や、(思いついた場合は) 応用例・用法を挙げ、詭弁にだまされない、詭弁を用いないための手助けを行ないたいと考えています。

「なぜここで展開される推論が誤謬と考えられてしかるべきか」を考えることも有用です (そしてそれは時として答の出ないものでもあるでしょう)。 なお、「用法」で挙げられているように、(時に科学的思考とは離れた)日常生活で相手の誤謬を指摘する際に、 このリストで用いられた小難しい言葉遣いをすれば、煙たがれること請け合いです

論文の謝辞で気をつけること:無難な書き方

論文の最後のパートでは『謝辞』を表明します。論文に対して実質的に貢献は無いが、個人的な補助や、資金面のサポートを助成金によって受けた場合には、謝辞に表明します。

でも案外、謝辞を書くのって難しいです。こんなサービスすらあります。

謝辞ジェネレータ

*1

さて、論文の謝辞を表明するにあたって、すこし注意せねばならない点があります。これってどこまでアカデミアで共有された概念なのかは分からないのですが、(存在しない)利益相反などを匂わせないためにも、すこし慎重になる必要があります。

以下は、僕が「しないことリスト」でもありますが、それを「しない」「目的」を明確にするような書き方を心がけたいと思います。

1. 同列に並べるのであれば、アルファベット順で。

日本語なが五十音順。たとえば「えらいひと」を先に書いてはいけません。たとえば

The authors are grateful to G, B, C, F, D, E, and A for comments on the previous versions of the manuscript.

などとはしない。たとえ、Gさんが一番立場が上の人で、ソレ以外が学生であっても。同列なのですから。論文の謝辞において、(存在しない)背後の関係を匂わせる書き方をしてはなりません。 ステレオタイプを生み出す可能性があります。したがって、

The authors are grateful to A, B, C, D, E, F, and G for comments on the previous versions of the manuscript.

としましょう。無難ですね。

2. エディターへの謝辞は…?

ジャーナルによっては、エディターの名前を明記した謝辞を禁止しています*2。エディターはあくまで中立的な立場ということを鑑みてでしょうか。いずれにせよ、(記名つき)レフェリーにしろエディターにしろ、名前を出さないほうが無難かもしれません。

3. 承諾を得る

過去に僕もやってしまっていたのですが、このエントリを読み、心を入れ替えました。

https://sociobiology.wordpress.com/2015/02/10/no-you-cant-acknowledge-me-in-your-paper-without-asking/

No unauthorized acknowledgements!

I don’t understand why anyone would do this, but it is a really bad idea. Check with the people you acknowledge and be sure they are all right with it. Only acknowledge people who actually have helped with the work.

Grrr.

事の経緯は2年前にとある群淘汰主義者たちから出版されたNature論文の謝辞なんですが…どうもStrassmannさんは、了承もなく謝辞で名前を使われ、あたかもその論文に対して好意的であるかのような印象操作を行われた

ということで、謝辞で名前に言及するのであれば、事前に了承を得ておくのが無難です。メールでコメントをもらったなら“Please let me show my gratitude in Acknowledgement”などと添えて返事するのがよいでしょう。

僕はいま書いている論文の謝辞では、

  • どのような補助を得たか(コメント、解釈についての議論、などなど)ということを明確に
  • 了承を得ているか

などを表明することにしています。こんな感じ(個人情報につき、ここでは名前は伏せます)。

The author is grateful to A and B for discussion, and to C and D for comments that enriched the interpretation of the results as well as for suggestions to improve the clarity. The author declares that I am expressing my gratitude here in pre-agreement with all the colleagues above. The comments provided by Associate Editor and two annonymous reviewers greatly improved the clarity of the manuscript.

無難ですね。

*1:これでジェネレートされた感謝の文が、本当に謝意の表明たるものなのかはさておき

*2:British Ecological Society系のジャーナルは軒並みそうであったような気がする。たとえばJournal of Animal Ecology

Author Guidelines Page - Journal of Animal Ecology

アメリカでの銀行口座の開設

結局、アメリカでも銀行口座を開設しました。開設したのは年明け前なんですけど、とてもカンタンだったので、方法をご紹介します。

まずは社会保障番号を手に入れよう

通称Social Security Number、 SSN。日本でいうマイナンバーです。これを獲得するためには、

  • 居住証明(レンタルの契約書)
  • オファーレター(財源証明)
  • DS2019

という三種の神器が必要です。大学最寄りのSSNオフィスで申請しましょう。申請から獲得にはだいたい10日ほどかかりました。

銀行を決めよう

メガバンクの優勢関係にはかなり地域差があるようです。

  • Wells Fargo
  • Chase
  • Bank of America

メガバンクですが、ぼくは友人たちからのオススメもあり、ATMが目立つWells Fargoに決めました。

銀行へ赴く

銀行に行ったら、案内の人に「新しく口座を開設する」旨を伝えましょう:I’d like to create a new bank account

しばらくするとプライベートゾーンに案内されるので、Checking accountを作りたい旨を伝えます。これは当座預金口座と日本では呼ばれますが、ここアメリカでは家賃の支払いは小切手を用いるのが主流なので、当座預金口座を作ります。

そして他愛のない話をすすめるうちに住所やSSNを要求されます。僕はiPhoneにSSNの画像を保存しておいて、それを見せただけで済ませられました。持ち歩くものではないので*1

あとはwebアカウントを作ったりして、終了。1時間ほどで口座ができて、一時的なカードをもらえました。そして1週間後には、家にdebitカードが届けられていました。

さてここアメリカはdebitカードがあればだいたいの店で支払いを行なうことができるので本当に便利です。現金は基本的に持ち歩かないようになってしまいました。もちろん、クレジットカードを持ち歩く必要が出て来るわけですが、日本でもそれは同じ。現金は持ち歩かなくても良いシステムに移行してほしいですね。

さて、Wells FargoはiOSアプリも提供されていて、それで常にBalance(残高)がチェックできます。ATMでお金を降ろしたらメールが届く設定にもできるので、安心ですね。

*1:日本ではマイナンバー原本を持ち歩く必要があるのではないか。もしそうなら本当に狂気の沙汰としか思えない。ここアメリカでは「絶対にSSNを持ち歩かないように」と厳しく教育されている。