Life is Beautiful

主に進化生物学の理論のブログです。不定期更新予定。

「チカラ」に依存しない生き方

女子力。

思考力。

判断力。

想像力。

世間は「チカラ」で溢れています。孫悟空フリーザを倒せたのもこのおかげです。でも僕は、何にでも「チカラ」を添える言葉遣いは、あまり好きではありません。

「◯◯力」は、曖昧で、乱暴たりうる。

たとえば「思考力」という言葉を拾ってみましょう。思考+力です。「思考」とは、スーパー大辞林によると:

意志・感覚・感情・直観などと区別される人間の知的作用の総称。物事の表象を分析して整理し,あるいはこれを結合して新たな表象を得ること。狭義には概念判断推理の作用による合理的抽象的な形式の把握をさす。思惟。〔明治期につくられた語〕

さもありなん。しかし、この"知的作用の総称"の「力」とは一体、何を指すのでしょうか。定義できますか。

もちろん、他者の個性に定義が必ず要求されるとは思いませんが、こうした曖昧な概念の言葉を、あたかも具体的で共通認識があるかのごとく社会的に用いるのは、果たしてどれほど意義があることでしょうか。

そして、個人に力を、外から付随させることって、実は危険で乱暴なことではありませんか?

多義的で誤解を生む可能性がある

曖昧さに基づく詭弁は、多義性に基づく詭弁と切っても切り離せない関係にあります。たとえば「判断力」という言葉。判断する力とはどういうこと?即決する傾向のこと?合理的な判断をする傾向のこと?

こうした正確な定義なしに、その言葉を用いてなにかを理解することは、真の理解へは繋がりません。

 力がないわけではない

もちろん人にはそれぞれ、得意不得意があります。それは個性の一部です。その意味では、力の存在を否定することはできません。たとえば人によって筋力や体力は違います。病気になったときの治癒力も違います。アルコール分解力、とかもそう。

しかしそれらは、原理的には定量評価できるものです。抽象性がありません。我々はしっかり認識できます。

また、「馬力」や「馬鹿力」は比喩表現です。筋力や体力の瞬間的な増幅を表す言葉、と理解すればよいでしょうか。

権力

政治力。統率力。こうした概念のチカラは、権力によって決まります。つまり、肩書き抜きにした個人・個性から生まれる力ではありません。Powerです。

他の言葉で置き換える

力という言葉に支配されていた我々を解放し得るのは、その言葉を別の言葉に置き換えてみるという、批判的な作業です。

たとえば例によって「判断力」という言葉。これを定義する言葉はどんなもの?あるいは、どういう性質が、判断力を形作るのか?

これは、判断力という言葉にマスクされていた部分をより深く理解するための、思考トレーニングになります。

安易にチカラを受け入れてはならない

「想像力の欠如」という言葉はよく耳にします。たとえば、誰かとのコミュニケーションがうまくいかないときに、その相手を形容するときに用いられたりします。

しかし相手の「チカラ」のせいにすることは、進歩を助けるでしょうか。生産的なのは、なぜ想像力などという(ぼくからすれば、空虚な)ものが要求される状況になったのかを批判的に検討し、反省することなのではないか。

あるいは、相手の想像できる範囲を察して、ビジョンを共有するというオープンな営みを、無理やり閉じさせてしまいやしないでしょうか。

別の例。「女子力」というと、料理をよそったり、作ったり、編み物をする人たちを形容するときに用いられるわけですが、それはつまり、「女子」というラベルやカテゴリから、「女子らしさ」を勝手に定義して、相手をそこに嵌め込むということです。

女子らしさってなに?

相手をなぜ、カテゴリにはめこんで形容したりするの?

そしてそれは、あなたは本当にその人と向き合うことになっているのか?

チカラフリー

以上のように、曖昧な「力」という言葉から自らを解放することは、文字通りに、柔軟な思考や分析を助けることが多いので、とてもオススメです。力に囚われたままに世界を見ることよりも、あなたの人生を豊かにする可能性があります。

………はて、豊かな人生とは、いったい何か?

そんな疑問も即座に、そして自然に頭に浮かぶようになれば、少しずつ世界の見え方が変わってくると思います。

もちろん、考える葦を目指さない自由もありますが、僕は世界をどう見るか、世界がどう見えるか、周りはどう見ているか、を突き詰めたい。そういう気質なのだと思います。

論文投稿時によくある誤解

論文投稿時によくある誤解4つ。直訳はしません。

crosstalk.cell.com

フォーマットがエディターの決定に影響する?

Wrong. Often, I see papers submitted in an all ready-to-publish format, and it's clear that a lot of hours were put into the aesthetics of the paper. But all of this hard work, while appreciated, won't impact the editor's decision. The science is what matters, not the paper's appearance.

  • 誤りである。ジャーナルのフォーマットに完璧にあわせて投稿するのは時間の無駄である。決定には関係ない。論文の見た目ではなくサイエンスそのものが大事。

Tip: What is important for submission is the general article format. Other requirements such as character count, figures, and journal-specific rules should be loosely followed. This can assist the editors in understanding why the format was chosen. A good rule of thumb is to ask yourself: if you were a reviewer, would you be satisfied with the information provided? Is the manuscript clear and logically ordered?

  • 全体としての論文フォーマットが大事。文字カウント、図、ジャーナル特有のルールにはゆるく従うべき。これによって、なぜそのようなフォーマットを用いたのか、エディターが理解しやすくなる。
  • 好ましいrule of thumbは、自問自答してみることである:もしレビュアーなら、論文内で提供された情報に満足か?原稿はクリアで論理的に整合的か?

カバーレターは長ければ長いほど良い?

A cover letter is required for submission, but it shouldn't be a dissertation. I've seen authors bury the significance of their paper in a lengthy letter. It's understandable; after all time spent in the lab, it's tempting to try and capture every detail. But editors value cover letters that are to-the-point and concise. Tell us what's important about the paper, how it's relevant for the journal, and what the take home message is.

  • カバーレターは投稿に必要である。しかしそれは論文であってはならない。
  • 長ったらしいレターに論文の重要性を埋め込む*1著者も散見される(気持ちはわかる)。
  • 研究室で過ごした長い時間を鑑みて、あらゆる詳細をキャプチャしたくなることだろう。
  • しかしエディターは、的確なカバーレターを重要視する。
  • 論文の重要性、どういう意味でジャーナルに適切か、そしてメッセージは何か。これらをエディターには伝えること。
  • Tip: 最高のカバーレターはシンプルで、謙虚なものである。

推奨されたファイルサイズは、目安でしか無い?

File size is important. When processing manuscripts, the first thing a Journal Associate looks for is the submission size. If it's too large, the process is halted. As a convenience to authors and reviewers, we require the combined submission PDF be under 20 MB. If not, the paper is returned to the author for changes. Often times, the trouble is in the figure files. It's important that both reviewers and editors can easily download the submission without clogging up their bandwidth.

  • ファイルサイズは重要。原稿のマネジャー達はこれをまずチェックする。大きすぎると処理は滞る。全部あわせて、PDFにして20MB以下でないといけない。
  • 20MBを越えると、著者に原稿は返される。
  • だいたいは、サイズオーバーは図のせいである。
  • 査読者や編集者が容易にダウンロードできることが大事。

ファイルがたくさんあるとプロセスが速くなる?

It can be confusing to know which files should be uploaded during initial submission. One of the most common questions I get is do the highlights and eTOC blurb file, graphical abstract, conflict of interest form, STAR Methods section, and Key Resources Table need to be provided?

  • どのファイルを投稿すればいいのかはよくわからないことがある。最もよくある質問は、ハイライト、eTOC blurb、graphical abstract、利害相反ステートメント、… なども投稿する必要があるのか、というものである。

The answer is no. The only required materials for editorial consideration are a manuscript and a cover letter. Whether provided as a combined manuscript or separate files, it doesn't matter. The important part is that the submission includes information the editors will need to make a decision.

  • 回答はNOである。エディターに必要なのは、原稿とカバーレターのみである。投稿されたものが単一のファイルだろうが、複数のファイルだろうが、問題にならない。重要なのは、エディターが判断を下せるだけの情報が、投稿ファイルに含まれていることである。

*1:埋葬する、つまり殺してしまう、というのは言い過ぎか

海外研究者と日本で交流しよう

以前のエントリで、日本の公募システムに対する意見を述べたのは、当然ながらそこへの不満があったからなのですが、日本の(少なくとも進化生態学の)学会などが、国外からの研究者を学会に積極的に呼ぼうとしていることについては、本当に素晴らしいと思います。

もちろん、僕は日本国籍を持ってはいても、アメリカに住んでいるので理論上は「海外研究者」なわけですが、ここでは「日本国籍を持たない海外研究者」を考えます。現に、いくつかの科学研究費などは、日本国籍を持つ研究者の招聘については、除外していることが多いです(し、それで良いと思っています)。

僕は、修士や博士のころに、積極的にヨーロッパでの*1国際学会へ出かける習慣がありました。特に、たとえばラボ全員が行くような国際学会は、極力避けていました。みんなで同じ宿に泊まったりするのも楽しいでしょうが、学会に行ってまでラボの人とずっとつるんでいても仕方ないし、単騎で乗り込むほうが、社交性も英会話も鍛えられると思ったからです。*2

それでも、国外に行くのはとても高い。そこで目をつけたのが、国内で「海外研究者を招聘する学会」です。これは非常に良い。日本で安い旅をして、海外の研究者と交流できる。最高です。

ということで、いくつもの、日本での国際学会に行きました。東北・京都・滋賀・などなど。そこであえて国外の研究者たちと交流することには、いくつものメリットがあります。すこし打算的な表現ですが、メリットです。

日本人だけの環境において、英語で話しかけられると嬉しいだろう

日本語を話せる人口はそう多くありません。日本語を話さない彼ら彼女らが日本へきて戸惑うのは間違いなく言葉の問題です。そんな環境において、彼らに英語で積極的に話しかけるのは、間違いなく好印象をもたらします。

打算的でしょうか?でも、自分が国外へ行って同じようにしてもらえたら、嬉しいですよね?お互い様ではないですか?*3

僕は、学部の頃には、「英語で日本語を教えるボランティア」を一年だけしていました。キャンパスで、道に迷っている人を見つけたら、一緒にそこに連れて行ってあげたりしていました。今思えばそうした経験は、非常に貴重です。いまでも町中で外国人にはいろいろ教えます。

ある意味で「四面楚歌」な彼らに救いの手を差し伸べる勇気がありさえすれば、簡単に友達になれるわけですね。

英会話へのスウィッチ

みんなでご飯へ行くときに1人だけ外国人。そんなときは思い切って、英会話にスウィッチしましょう。それはふたつのメリットがあります。ひとつはもちろん、自身の英会話感覚の向上に関する部分。はっきり言って、みんな「へたくそ」なわけです。でもそれでいいんです。下手か上手かよりも、日本人としての英会話を行なって、意思疎通がとれたらそれでよいのです。

もうひとつは、そこにいる非日本語話者に、日本人の英会話ペースを理解してもらえることです。みんながみんなペラペラ話せないことを分かってもらえるだけでも、日本の状況への正しい理解につながっているわけです(悲しいかな)。

大事なのは、間違いを恐れないこと。僕の経験では、他者の英語を笑う人は英語の向上が遅いです。理由はシンプルで、「うまく話さないといけない」という誤解をしているから。

「日本で会いましたね」

上にも関連しますが、日本で共有した経験は、自分が異国へ足を踏み入れた時に巡り巡って返ってくることがあります。僕はいままで何度、国外で「日本で会ったね!」という挨拶をしたか分かりません。外国人と簡単に経験を共有できる環境が、日本にも提供されているわけです。彼らもそうそう薄情ではないわけで、まわりのひと達にも「彼とは日本で会ってね…」といった紹介をしてもらえるわけです。

ま、これもちょっと打算かも知れませんが、「日本で会った」という経験の共有は、ただ単に再会する以上の気持ちを呼び起こすわけです。学会の目的が人と話すことである以上、僕にとってはそうしたシンパシーがとても自分の研究の原動力になっている気がするのです。

日本まで来てくれてありがとう!とメールする。

学会が終わったらこうしたメールを一通送るだけで、相手は相当喜ぶはず。自分も気持ちいいし、一石二鳥。内容なんて、雑談のはしっこの「この論文面白いよ」とかでもいいわけです。それに、あなたの日本語の名前、思った以上に覚えてもらえていませんよ。日本人の名前って難しいんです。でも、メールを書いて覚えてもらったり、送付先リストに加えてもらうだけでも、まったく違いますよね。

ただし…!

挨拶メールの書き方。これはともかく経験しないと上達しません。失礼のないように気をつけた方が良いでしょう。

友達になろう

日本人は年齢次第で態度を変えることが美徳とされていますが、アメリカやエウロパではそうではないと思います。フランクに、友達になっちゃいましょう。FBでもTwitterでも何でもよいんです。SNSは友情を表すとは限らないし、握手やハグするだけで、その結束は変わってくる。でも相手の出方を見ましょう。フランスだとほっぺ同士をぶつけあいますが、下手すると顔がぶつかりそうになります。まるで、廊下ですれ違いそうな相手をよけて右に歩んだら相手も同じ方向によけてくるパタン。気をつけて。

自己紹介をしっかりと!

「何研究してるの?」

は相手の最も大きな引き出しに手を伸ばせる、魔法の言葉です。そして自分の研究は英語で話せるようにしておきましょう。僕は、外国人のいる懇親会では、研究スライドを紙芝居のように持ち歩いたりしていました。

でまあ、我ながらこう書いてみると、僕の日本での行動は、常に国外を目指したものだったことに気づきます。指導教官からの影響は多大ですが、こういう行動は着実に、経験値となっていきます。こうした思いから綴った、長めのエントリでした。

*1:なぜかアメリカには行ったことがなかった。理由はご飯のせいかなあ?自分でもわからない。

*2:初めて単身で乗り込んだ学会は、ネイティブの知り合いが1人だけいる学会で、日本人がゼロ。これは本当に精神的に相当に鍛えられました。いまでもそこで知り合った研究者とは交流があります。当時、論文の出版もなくただただ自分の結果を引っさげて、イギリスはYorkまで乗り込んだわけです。今思えばむっちゃ楽しかったです。

*3:個人的経験では、いまんところ、アメリカ人と友人になるのは僕にはとてもむずかしい反面、別の国…たとえばカナダ、中南米、ヨーロッパ、アジアなどの国々からの人と仲良くなるのはむっちゃ簡単です。彼らも英語は非常に達者なのが普通ですけど、アメリカ文化への順応という困難を共有しているのはやはり大きい。同じ理由で、フランスでは別の国からの人たちと友達になるのは比較的簡単です。

だし茶漬けは簡単に作れる!

成田空港からサンフランシスコに飛び立つ直前、だし茶漬けをいただきました。

https://tabelog.com/chiba/A1204/A120401/12004604/

これは美味しい。ちょっと高めやけど、美味しい。和のファストフードとして確立してほしい。

しかし、すこし高い…と、飛行機の中でぼんやり考えていました。でも、飛行機の中でも考える程度には、お茶漬けに好印象を持ったということです。

で、バークレーに戻ってから、さらに考えてみたのですよ。でけへんかな?と。

できないことはない

いや、もちろんどの程度までこだわるか、ってのは、ゼノンのパラドックスのように、キリがありません。ここでは最低限の準備で作るだし茶漬けを目指します。

次のものを準備のこと( 優先度の高い順):

  • 炊きたての御飯
  • 永谷園 お茶漬けのもと
  • にぼし(だしが取れれば他でもよい!)
  • 水(コップ一杯強)
  • 具(海鮮でも何でもよし)
  • お漬物
  • 大葉(度胸がすわっていれば、セロリの葉でも、パクチーでも、何でもよし)
  • わさび

以上。ダシを取って(5分〜ほど)、いつも通りお茶漬けを作ればそれでよい。必要に応じて、適当にトッピングを入れたらおしまい。お湯で作るよりも断然美味しくてオススメです。

博多で培うラーメン感:"コスパ"から見たラーメン

僕はラーメンが好きですが、「コスパ」という言葉はあまり好きではありません。コスパというのは、コスト・対・パフォーマンス(コスト・パフォーマンス。費用対効果)の略です。この言葉はおそらくネットを通じて広まるところとなり、たくさんの人が使っているのを耳にします。

しかし、「費用対効果」って、「効果」を\( Y \)軸、「費用」を \( X \)軸にのせてプロットすると仮定すると、まっすぐの直線なの?ぐにゃぐにゃの曲線なの?といった情報もなければ、個人の経済状況の考慮なしに、「イメージが共有されていること」を強いる言葉だと思うのです。背景を共有しないと、「コスパ」に基づいた主張は意味を持たない。

さて、ラーメンは実に単純に人々に幸せをもたらしてくれます。「喰う寝るふたり住むふたり」という漫画には、ラーメンをすするシーンがたくさんでてきます。そのラーメン屋の店主は、近年の「健康志向ラーメン」「insta映えするラーメン写真撮影」「SNSでのシェア目的のラーメン屋めぐり」文化にたいして、次のような言葉をセリフとして述べています。

…ラーメンってのは腹がへったからざっと一杯かきこむような… 多少 体に悪かろうがうまけりゃいいっつー… そういうもっとシンプルなもんだろう…

もう、セリフからして、この店主のラーメンはうまそう。

博多のラーメン事情

日本のラーメン多様性の高さは、実に卓越したものがあり、これは驚くべきことです。世界を見渡しても、同じ「ラーメン」カテゴリでここまで多様性が高い、all-in-oneの食べ物ってのは、実はそうそうないのではないでしょうか。少なくとも僕には思いつきません。

僕は、「訪れたことのある都市」を、「そこでラーメンを食ったことがあるかどうか」によって定義しているくらいです。ご当地キティーちゃんもいいが、ご当地ラーメン。これは現地のラーメンに対するパッションだったり、ラーメンの文化における重要性を測る、よい尺度になるとすら思うのです。はい。過言です。

そんななかでも、福岡博多のラーメンは、世界一うまい。4年間住んだ博多への贔屓目なく、これほどまでにラーメンが美味い都市はありません。驚くべきは、その「●●ラーメン」という観点からの多様性は低いこと。ラーメン・イズ・豚骨。それ以外はラーメンにあらず。いや、博多ラーメンが、ラーメンから分化しているとすら感じる。あれは別の食べ物なのだと思います。

さらに驚くべきは、その値段の安さ。この点においては、いくらかのバリエーションがありますが、僕の経験では、アベレージ700円で、替え玉アベレージは100円。安すぎるのかも知れないけど、それだけ繁盛しているのだから、サステナビリティ的には大丈夫そう。 特に、長浜ラーメン550円

【改訂版】博多ラーメンよりも超濃厚!?福岡名物“長浜ラーメン”が評判のお店8選 | favy[ファビー]

…外国からこの写真を見るのはすこし、自爆テロに近い。もとい、この長浜ラーメンは、実に中毒性のある美味さなのでです。工事現場のおっさん、学生、サラリーマン、おじいさんおばあさんはもちろん、親子連れ、女の子も足繁く通うラーメンが長浜にはある*1。老若男女が長浜ラーメンで育つ。それが福岡。

飲み会のあとはラーメン。

風邪引いて治ったらラーメン。

他県への土産はラーメン。

コメと一緒にラーメン。

生活がラーメンに満ちているのです。

コスパ

先ほども述べたように、とにかく安いのです。そしてその、病理的美味さを味わえるのです。そんな都市に長らく住むと当然、ラーメンにおけるコストに対してもパフォーマンスに対しても、ハードルがグッと上がるのは致し方ないこと。

一蘭一風堂?うん、有名なチェーン店は美味しいのですよ。しかし、あれらの店では、1,000円くらい払うわけでしょう。そんだけ払うなら、美味いラーメンが出てこないと困る。だから僕はそうした店にはなかなか足を運べない。

Berkeleyにも一風堂ができました。一同拍手喝采。しかし、15ドル〜20ドル払うのでしょう?ビールとかも飲むなら、30ドルは払うわけです。これはもうパーティーですよ。でも、ラーメン一杯?…そうか〜。

対策

もちろん、福岡に行くのはもっとお金がかかる。だから博多ラーメンのコスパをアメリカから語るのはナンセンスというのは分かります。 しかしそれでも!20ドルも払って一風堂に行くくらいなら、僕は、Tokyo Fish Marketで棒ラーメン(棒状のラーメン)を5ドル(2杯分)で買って、自分でさまざまなスパイスとかアレンジしながら食べたほうがいいよなあと思うのです。

だから困るのが、友達と集まったときにたまになる、「一風堂、行ってみようか」という話。この経験、何度あったことか。しかし僕はこれまで、すべて神回避してきました。

一度は行列がすごかった。二度目はなんと奇跡的に、ちょ〜〜〜〜〜うどBerkeleyが停電になって、一風堂にも入店できなかったとき。最後は、奇跡的な臨時休業。神を信じかねないレベルの神回避。

繰り返すと、僕は「コスパ』という言葉は決して使わない。except for Ramen

*1:ただ、「どちらが正統元祖の長浜ラーメンか」で、分家してしまっているそうな。藤原家かよ。

アメリカのコイン両替問題

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イギリス。フランス。スイス。ベルギー。マダガスカル。タイ。韓国。アメリカ。

我ながら意外にも、空港から外に出て、地面を踏んだ国はこれだけです。そこで食事をしたり、お土産を買ったり、お酒を飲んだり。

そうすると必ず直面するのが、コインの異常増加。コインが判別できないから紙幣で払う傾向に陥り*1、コインが異常に増え、財布がパンパンに膨らむわけです。

日本では、コインに慣れているためか、レジで払う時に細かい値を出すのにうまく使えたりします。あるいは、銀行のATMに行って、コインをジャラジャラとすべて預けてしまうこともできるわけです。

しかしここはアメリカ。ATMのサービスはそんなによくない。コインの投入口など、ありません。もちろん最近こそ、現金で支払うシチュエーションはめっきり減ったものの、それでも着実にコインは増えていくのです。財布はパンパン。コインを抜き取り、デスクに入れる。コインはまた増える。デスクに入れる。デスクにコインがジャラジャラ貯まる。

この問題をいかに解決するか。Webで調べたり友人に尋ねたりもしましたが、僕は他の人とすこし違う解決策を見つけました(最後に書きます)。

そもそもとして:増やさない

レストランなどではチップを受け付ける・求めるところがほとんどですから、最初から、お釣りで発生したコインをすべてチップとして用いてしまってもよいわけです。応用すると、カードで払ってもチップをコインで払ってもいいわけですね。

両替機

Coin Starというサービス(両替機)が、Safe Wayというスーパーにはあるようです。

https://www.coinstar.com/GetCash

しかし、11.9%の手数料がとられる。…高くない!?

あるいは、手数料無料で、Gift Cardに交換することも可能。

銀行

銀行に行くと、銀行口座がある人は無料で交換してもらえるようです。ただ…

https://losangeles.vivinavi.com/eb/index/?topic_id=1-01-JA-eb-1061399484-d41d&show=s20

9: HIMA*HIMA 銀行でもらえる紙製のものはCoin Holderと言います。 必要な金種用のを必要な数だけ無料でもらえます。 ただその支店に在庫がある場合と無い場合があるので、 足りなかったら別の支店でも聞いてみると良いです。 こうして自分でカウントするのが面倒な人は、 銀行の窓口で両替手数料を払えばやってくれます。 でも友達はそれで$15取られたって言ってました。 ホルダーなんていくらでもタダでくれるから自分でやることをオススメします。 ちなみに私の彼は渡米2年で溜まったコインを私がこうして両替したら$45以上ありました。 コインをホルダーに詰めるの、私は結構好きです(= ̄∇ ̄=)

銀行でコインホルダーをもらって、それにひたすら自分でコインを包んで…ということをせねばならぬ模様。

募金

いっそのこと、「掛け値なし」で募金してしまう。手数料100%のナニカと思えばしかたない!?

うちのラボにはコーヒー好きのLが運営する「コーヒー基金」があって、共有するコーヒーを購入する(coffee fund)ためのdonation boxがあります。友人Cは、そのdonation boxにコインを全部入れてるわと言っていました。笑った。Cから横流しされたコインを、Lはどうしてるんやろ…

あるいは、一部の国際空港では、あまった外貨をいっせいに回収する箱があるとかないとか。

パーキング

友人Yは、車にのって駐車したときにコインをジャラジャラ使うと言っていました。ただこれは、上限があるのが問題かな。

僕の解決策:空港の電車の券売機!

最近、知ってしまったのです。サンフランシスコ国際空港のBART(電車)の券売機は、例外的に、コインを受け付けてくれることを。

僕はそこですべてのコインを投入し、Clipperという電子カードにすべてチャージ。空港に行く機会は一年に数回はあるわけで、そのときにすべてチャージしてしまっているのです。これは便利!!

ただ、1セントは受け付けてくれない。これは困った。

ということでオススメです。一番現実的なのは、Coin Starなのかな。

*1:カードで払うことも多いが、カード会社から手数料を取られるためにカードでの支払いに制限を設けているお店も多い。

年上を敬う社会は、年下を蔑ろにする社会であるべきではない

「先輩」・「同期」・「後輩」という日本語は、社会的な生活を送る日本人であれば、毎日でも口にしてもおかしくない言葉です。「先輩相手なら敬語を使わねばならない」などの、社会的な違いを明確にするための言葉でもあります。

これらは、社会的な文脈に限らず個人的な文脈にまでおおきな影響をもつ概念です。 なぜなら、プライベートでも先輩への態度は「うやうやしく」なくてはならないからです。つまり日本の、ビジネス以外にまで広く浸透した文化です。

日本のTVをつけてみましょう。たとえば吉本興業の芸人たちは、「先輩」への絶対服従を、それはもうあからさまに、体現しています。先輩に敬語を使わないものなら「お前先輩やぞ!」と(文字通り)周りから叩かれる。*1

あるいは、先輩相手には楽屋への挨拶はせねばならない、というのもありそうです。もちろん「今日はよろしくお願いします」くらいの挨拶は、お互いに気持ちのよいものであり、素晴らしいことです!しかしたとえば、先輩が後輩に対して楽屋挨拶をするという話は、すくなくともテレビにおいてはあまり耳にしません。*2 そんな文化があるとそら、世代交代できないわけです。そして未だに1980年代に成功したタレントたちを中心的に起用するテレビ局の大きな罪です。世代交代のできないコミュニティには終焉しかない。若い芽が出ない!

より卑近的には、会社でも、そして研究者の集まり(研究室や学会)でも、雑用が「後輩の仕事」というのは、耳にしたことがあるのではないでしょうか。体育会の部活などでもそうかも。バイトでもそう。どこでもそう。家族でもそうかも?

僕は長く、「先輩」「後輩」という概念と格闘することが多かったのですが、ひとつの経験をとても鮮明に覚えています。それはパリでの学会でのことです。たまたま日本人の「先輩」がその場にいたので話していたのですが、知り合った人に"Is he your colleague as well?" と言われて、どう答えたらよいのかわからなかったのです。先輩ってなんというのだろう?と。Older colleague? ではなぜ、年齢や立場を、そんなところで言葉にせねばならないのか?なぜ、「友達」ではダメなのか?(自問自答)結局、僕はしどろもどろな返答しかできませんでした。*3

従順な後輩として振る舞うことは、有利である

自分に対して「従順な後輩」は、さぞかし可愛いことでしょう。すると「従順な後輩」として振る舞う方向にインセンティブは当然として働くわけです。「上」への態度は社会的成功において非常に重要なファクターと思います。

繰り返すと、「先輩」を絶対視する行動は、日本社会では「利得」が、なんせ高い。だって、上から可愛がられるわけですから。そうした先輩への服従を行動で示すだけでなく、自分の周りにもそれを強いる人は「先輩」という「上」の立場になったとき、どういう基準で「下」の者を評価するのでしょう?考えるだに恐ろしい話です。だって能力そのものよりも、従順性が評価されるのですから。アホらしい。

だから僕は「後輩として」自分に従順な人に対して、どのように接したらいいのか分からないのです。もっと、対等に意見しあえる関係が望ましいし、その人が「先輩」になった時に別の態度をしていたとすると、それはもうニセモノだと思うのです。

なぜ現状を良しとするのか?

「お前、先輩に対して失礼やぞ!」というこの言葉。意地悪な見方をすると、おなじことを『同期』や『後輩』に対してなら、やってもよいということ?んなアホな。

もしも「敬語を使わないなんて失礼」なのだとすると、同期や後輩にはそうした失礼を働くのは許されているということ?それこそ失礼な話です。

ぼくはこうしたものは全て、年齢差別だったりカーストに近いものだとすら思います。 年齢による差別は、もっと深刻な現状があります。たとえばなぜ履歴書には生年月日を書かねばならないのか?

もしも「それが日本の文化だから」というのであれば、なぜそうした文化を批判的に検討し直すことをしないのか? 行動やルールの原理が最終的に「伝統だから」というものでしかないなら、そんなルールは馬鹿げている。人を幸せにしないようなルールは、なくしてしまえばいい。

なかなかうまくはいかない現状

たとえば僕が会社に勤めていて、同じ部署の「後輩」なる女の子に対して、「敬語でなくてよいよ」と言ったとします。そして彼女がそれを実行し、タメ語で話すようになったとします。そして仮に僕が既婚者だったと仮定*4すると十中八九間違いなく起こる噂が

「あの2人、デキてる!/不倫してる!」

文春が小室さんの不倫を報じ、たくさんの方が文春のゲスなビジネスに反吐を出す点ではまだ健全な社会だと願いたいです。しかし、これは、カカシを殴るようですが、まず間違いなく(いまの)日本の文化では、起こる。

そうした噂がために尚一層、2人の社会的な成功度は低くなる可能性があるのです。敬語文化は一旦確立すれば局所的に均衡状態であり、敬語を用いない(小数の)突然変異の侵入に対して堅固なのです。

宗教的な理由?それはお互い様!

こうした、上を絶対的に敬うのは、儒教的なルールだから(仕方ない・当然)、と言われるかも知れません。しかし宗教には自由があります。儒教を信仰する自由は同時に、儒教を信仰しない自由も保証するはずです。僕は儒教者ではないので、そうした文化には、宗教的な理由によっては、従いません。

丁寧語がナンセンス、というのではない

丁寧語というのは文字通り、丁寧な印象を与えます。だからたとえば、初対面の方に丁寧語を使うのは悪いアイデアではないはず。

いや、ひょっとすると僕の論理を一貫させるのであれば、僕は全員に対して丁寧語を使うべきなのでしょうね。それができない僕はその意味で、ご都合主義的なものかも知れませんね。

年齢フリーな関係を:年齢より大事なことがある

僕はもしも、研究室を運営するようになったら、なるべくそうした立場の違いで不利益や不都合が被ることを防止したいです。 そして年齢以上に、共通目的への協力を重視したいです。そして、年上を敬うのと同じくらいに、同い年・年下を敬う社会にしたいです。

*1:いちど、島田紳助が「しゃべくり007」という番組のゲストで出演したのを観たことがあります。ネプチューンくりぃむしちゅーも、迎合迎合で、本当に興ざめする回でした。大好きな番組なのにな…。

*2:おぎやはぎの、このやりとりは面白かった:

おぎやはぎ矢作、楽屋挨拶をやんわりと断る所ジョージの気遣いに感心「打ち合わせ中なので、ノックしないで下さい」 | 世界は数字で出来ている

*3:いまは、"senpai"というスラングがあるらしい。すげえな。

「先輩」 「後輩」って英語でなんて言うの? - DMM英会話なんてuKnow?

*4:この仮定は偽ですので、この文脈ではいかなる命題も正しくなってしまうのですが、まあ、そこは置いとこう