Life is Beautiful

主に進化生物学の理論のブログです。不定期更新予定。

敬称について、言語について

今日は、敬称というものについて考えさせられました。

敬称というのは言わずもがな、名前のあとにつけるアレです。
それはそうなんですけど、今日ぐうぜん独立に、敬称に関して考えさせられるやりとりが2つほどありました。

まず1つ目は、twitterでのこと。
とある他大学の先生と、twitterでやりとりをしていました。
僕は他大学の"先生"への敬称を「先生」とする習慣があるのですが、それに対して、
(決して拒絶的にではなく)「心苦しいので、”さん付け”にしてください」と言われました。

こういったことを昔、台湾で研究されている"先生"にも言われたことがありました。

「先生、という敬称はなんだか嫌味ったらしいというか、呼ばれた相手にいい印象を与えない可能性があるよ」。

高校生のころ、体育のK先生を「Kさん」と呼ぶと、他の先生に「K先生と呼びなさい」と注意された経験があるのですが、
それ以来、僕の中で先生は先生でした。

僕にとって、「先生」というのは、「先に生まれた」という意味でしかなかったので、少し驚きでした。
そして、その「先に生まれた」人からは何か学ぶものがあるだろう、という派生的な(ただし個人的な)解釈から、
目上の方を先生と呼ぶ習慣が身についてしまったのです。

間違いなく、おのれの指導教官は「先生」だと思うのですが、指導教官でない人は「先生ではない」のでしょうか。
難しいものですね。先生の定義などを語りだすよりも、先生という言葉自体が、人間関係のなかに含まれている以上、
相手の方がなるべく気分を害されないような態度で望むのが賢明なようにおもいました。 
今後、学会などで気をつけようとおもいます。

次に2つ目は、facebookでのこと。

とある後輩のアップデートに、冗談のコメントをしました。
すると、返信のときの宛名が、「"くん"付け」でした。


僕は少し驚きました。
原義的には"くん"というのは目下の者に対する敬称ですので、僕は目上の人を"くん"付けで読んだ経験がありません。。

もちろん、後輩に"くん"付けされたところで、僕の気分が害されたわけでも、相手から高圧的な印象をうけたわけでもないのですが、
そういえば先輩のことを"くん"付けする習慣をもつコミュニティに(入ったことはないけれど)接したことがあることを思い出しましたし、
友人いわく、サッカーの日本代表などはそういう文化を持っていたようで、原義主義の僕にとっては少し受け入れがたいというのが率直な感想です。


(なお、原義主義というのは、「下の単語の意味や用法を最大限に尊重する」という僕の中で明文化された考え方であって、一般的な用法ではない可能性があるので、そういう意味で自己矛盾かも知れません。)


一般的に「言語は、変化するものだ」というのが現代の柔軟な考え方なのは間違いないのでしょうが、
誤用をないがしろに受容することが、柔軟な態度といえるのでしょうか。
言語の進化を考える上で、こういった誤用というのは突然変異(ないしエラー)とされるのでしょうが、
突然変異が中立的に固定するのもまた進化の基本メカニズムの一つですから、こういった「エラー」を許容することへの柔軟性を持っていたいとは思うのですが、
エラーを除去するシステムを、僕らのように「流行単語」を作り出す立場である若者が、
きちんと構築しておく必要もあるのではないかな、と思いました。


すこし話が飛躍しましたが、FaceBookでの件はあくまで冗談なのだ、と書いていて気づいたので、
喜んで許容しようと思っています。