Life is Beautiful

主に進化生物学の理論のブログです。不定期更新予定。

読みやすい文章を書く技術

僕が日本語で文章を書く上において、最も影響を受けたライター(研究者も、作家も、メールのやりとりをする友人も全て含めて)は、自分の師匠、隣のラボのK先生、渡邊芳之先生(via Twitter)、thinkeroidさん*1、そして田崎晴明先生だと思う。それは、この方々の文章は説得力も含め、その読みやすさが故、スッと脳みそに入ってくるからだ。

僕は「自分にとって読みやすい文章」が好きだ。それはほとんどトートロジーだが、僕にとって読みやすい文章というのは、体裁を問わず類別するなれば、

  1. 句読点の位置と量
  2. 漢字の量とひらがなの量のバランス
  3. ()の使用
  4. 部分否定と全否定

によって決まるように思う。

1. 句読点の量と位置

次の文章、一体どちらのほうが読みやすいだろうか。*2

[改変なし]群淘汰と血縁淘汰との理論的な等価性や、「群淘汰」というターミノロジーの誤用・誤謬とそれに関する議論、そして「戦略モデルの原理」のキーになるPrice方程式についても言及が欲しかった、というのはあまりにも欲深い感想だろう。

それに対して、ちょっとした手を加えると:

[改変あり]群淘汰と血縁淘汰との、理論的な等価性や「群淘汰」というターミノロジーの、誤用・誤謬とそれに関する議論、そして「戦略モデルの原理」のキーになるPrice方程式についても言及が欲しかったというのは、あまりにも欲深い感想だろう。

句読点をふる時のポイントは恐らく、(1)息継ぎのタイミングと、 (2)文章の論理・修飾・ネクサス構造の明確化、だろう。1つ目の例文では、あくまでも修飾・ネクサス構造を明確化することを意識して、句読点が振られている。最後の「についても」と「言及が欲しかった」との間に読点を挟んでもよいのだが、そうすると、「〜になるPrice方程式についても、言及が欲しかった、というのは〜」となり、「言及が欲しかった」が短すぎて、少し浮いてしまう(気がした)。しかし文章の構成上、そして「について」という表現を用いることで、読点を省くことが著しくは構造の不明確化を招かないと判断したため、読点を取り除いた。

f:id:lambtani:20141228061831j:plain

赤いマルで囲まれたところは、文章の構造を明確にするための工夫だ。鍵カッコは、階層構造を明示する。「〜と〜と」、「・」は、パラレル構造を明確化する。*3

一方、2つ目の例では、(敢えて)息継ぎのことだけを考えて、読点を振った。

f:id:lambtani:20141228061927j:plain

息継をする上では、恐らく2つ目の例のほうがラクだろう。しかし文章の論理・修飾構造が(1つ目の例に比べて)不明確なのが、図を見てもよく判る。

なお、構造の明確化だけを重視すると、こうなるだろうか:

[改変あり]群淘汰と血縁淘汰との理論的な等価性や、「群淘汰」というターミノロジーの誤用・誤謬とそれに関する議論、そして「戦略モデルの原理」のキーになるPrice方程式、についても言及が欲しかった、というのはあまりにも欲深い感想だろう。

どうしても読点が増える。これには少しくどい印象を覚える。また、「・」や鍵カッコを使わずに一回の「と」で並列化するように書くと、

[改変あり] 群淘汰と血縁淘汰の理論的な等価性や、群淘汰というターミノロジーの誤用と誤謬とそれに関する議論、そして戦略モデルの原理のキーになるPrice方程式についても言及が欲しかった、というのはあまりにも欲深い感想だろう。

となるが、これでは何と何がパラレルかが不明瞭になる。本当はこう:

f:id:lambtani:20141228063712j:plain

このように、句読点の位置を、構造と息継のバランスで決めてやるとよい。その後、階層構造を明確にする工夫をするとよい。

なお、以上はほとんど読点に関する工夫であったが、句点に関する工夫はシンプルで、「一文を長く(もちろん短くも)し過ぎない」ということだ。以下の記事を、(内容はどうでもいいので)読んでみて、句読点の重要性を確認してみるとよいと思う。メイロマさんがマスコミやブロガーを嫌悪しているという事実を頭に入れれば、構造をある程度は好意的に解釈することができるが。

感情と事実を分けられない人間を有識者と呼ぶ記事が一流マスコミに載ってしまう日本の未来は暗い - WirelessWire News(ワイヤレスワイヤーニュース)

なお、鍵括弧を用いることで、構造を明確にするという技術を僕も多用するが*4、時として注意が必要だ。鍵括弧は、比喩を含むある意味で「特別」な意味を強調する場合に用いられるからだ。たとえば、皮肉、暗喩、擬似的な用法などがそうだろう。とても便利なのだが、嫌味や皮肉として捕えられてもおかしくはないということを頭に入れておくと良い。

それ以外に、こんな用法もある。

まずは日常的に用いる漢字、「常用漢字」を勉強しよう。

これは、

まずは日常的に用いる漢字、すなわち常用漢字を勉強しよう。

と同義である、鍵括弧は、すなわち・つまり・皆が呼ぶところの、などといった含意もあるわけだ。

2. ひらがな・漢字のバランスの検討と、不要な表現の削除

さっそく例文を。

たとえば人名や専門用語など、音では概念や文意が伝えられないような言葉をひらがなで表現するのは、さすがに無理がある。そこで、「常用漢字」、つまり「普段からよく使う漢字」を、その出現率が高い文章において、表現の合間あいま敢えてひらがなにしたり、逆にひらがなを漢字にしたりすると、読みやすさがグッと増すことがある。

「たとえば」、「あいま」、は漢字で書いてもよいが、そうすると前・後とのバランスが非常に悪くなったり、読みにくくなったりする。また、「敢えて」も「あえて」と書いてもよかったが、そうするとひらがな続きになってしまう。また、「グッ」というように(擬態語に)カタカナを充てるのもも時として有効だろう(ただしそれが許されるシチュエーションは、想定的に限られそうだ)。更には、ひらがな続きで読みにくい場合は句読点を挟んでやるのもとても有効だろう:

句読点を挟んでやるのも、とても有効だろう。

案外、日本語というのは無駄が多い。5・7・5を詠む時に非常につよく実感を持つ。無駄が字足らずを補って無駄でなくなることがあるからだ。

句読点を挟むのも、とても有効だ。

表現自体を変えてやっても良い。

句読点を挟むのも非常に有効だ。

ただし、削って簡潔にする作業は、最後に行おう。最初は、くど〜く書くぐらいがちょうど良いように思う。

3. ()の使用

これはほとんど趣味のレベルだ。このカッコ()というのは、「()があってもなくても同じ意味になるか、ほぼ意味は伝わる」場合に用いるというのが原則のように思う。

しかしここでは、移動分散(正確には、グループ間のメンバー交換、メンバーの加入)と子殺しとの関係があっても良かったように思う。なるほど配偶システムというのは様々な生態学的特性をうけて進化してきたものであると同時に、他の形質(性比、移動分散、社会行動など)を進化させる大きな力になるであろう。だが、どこまで「配偶システム」という言葉が意味を持つのかは、ここの記述からは不明確だ。

(できるだけ滑らかに)カッコを取り除くと、

しかしここでは、移動分散、正確には、グループ間のメンバー交換、メンバーの加入、と子殺しとの関係があっても良かったように思う。なるほど配偶システムというのは様々な生態学的特性をうけて進化してきたものであると同時に、他の形質:性比、移動分散、社会行動など、を進化させる大きな力になるであろう。だが、どこまで「配偶システム」という言葉が意味を持つのかは、ここの記述からは不明確だ。

カッコの部分そのものを取り除くと:

しかしここでは、移動分散と子殺しとの関係があっても良かったように思う。なるほど配偶システムというのは様々な生態学的特性をうけて進化してきたものであると同時に、他の形質を進化させる大きな力になるであろう。だが、どこまで「配偶システム」という言葉が意味を持つのかは、ここの記述からは不明確だ。

()を多用しすぎてボリュームが増した場合には、()部分を注釈あつかいにするのも良いと思う。

なお、この「読んでも読まなくても」という意味のカッコづけは、

なぜならば、(われわれ)人間は、(パスカルが言うところの)考える葦であるからだ。

などのように用いればいい。()は、両方削除しても、意味が完全に通じる。まず、われわれは人間だから、改めてそれを断る必要は本来ない。しかし()に入れて述べることで、主客を明確にすることには成功している。また、人間を考える葦と表現したのはパスカル(と言われているの)だから、これも本来は書く必要はない(部分否定)。しかし()に入れて書くことによって、パスカルを引用していることを明確にしている。あるいは、自分がいま述べているのは(あくまでも)諺である、ということを明確化できている。

数学でもこの技術は非常に有効だ。

compact空間から(compactな)Hausdorff空間への全単射連続写像は、同相写像である。

非常に有名な定理だが、()内はあってもなくても同じだ。何故なら、連続写像によるcompact空間の像は、必然的にcompactであるからだ。

4. 部分否定と完全否定

部分否定と完全否定との区別を行わない書き手は、精神の注入を放棄した杜撰さを文章に反映させてしまっているように思う。

自身が否定表現をもちいる時、それが完全否定なのか部分否定なのかを明確にするのは、少なくともそこにおける限りはもっとも重要だ。

「少なくとも」というのは概ね、部分否定的に用いられる。何故なら、全体から(ほとんどの場合はマイノリティである)一部を取り除いた時に用いる表現だからだ。これは、論理を明確化するためのマナーとすら言えよう。しかし、部分否定の表現はかさばるし、考えるのが面倒くさい、ということで形式的に軽視されがちなのではないか。

たとえば「必要ない」、「不必要である」は、(本来は)部分否定だ。必要、というのは「必ず要する」ということであり、それを否定すると、部分否定になる。その意味は、「必ずしも要するとは限らない」。なので、「必要ない」というのは「必要ではない」と書くのが、正確だろう。しかし、現代社会で「僕の人生に君は必要ではない」などと言おうものなら「私が要らないっていうの!?」という惨劇を引き起こすことは想像に容易い。「僕の人生に君が必要とは限らない(だって1人でいたい時もあるし)」という意味だったはずだ(好意的に解釈すれば)。なので、部分否定にはセンシティブであってほしい。

それにしても繰り返すが、部分否定は実にかさばる。だから僕なら、こう書く。

自身が否定表現をもちいる時、それが完全否定なのか部分否定なのかを明確にするのは、(少なくともそこにおける限りは)もっとも重要だ。

()の中に部分否定の表現、すなわち正確性を要求するための表現を押し込んでしまう。カッコの中身は読んでも読まなくてもだいたい意味が通じる書くことを心がけると、これは非常に有効に機能するように思う。

5. さいごに:参考文献

そもそも文章を書く上でもっとも重要であるのは、1.読んでもらうこと(読者の努力)、2.伝わること(読者の理解)、だ*5。しかしそれらを構成する要素である「正確性」と「可読性」とは悲しいかな、(ほぼ)常にトレード・オフに晒されている。くどくどと書くとそれだけ正確性は増すのであろうが、読みにくくなって頭に入ってきにくくなる。ほんらい文章の正確性というのは「正しく理解してもらうこと」を目的とされたはずが、その「理解」のための「努力」そのものが失敗する可能性を高めてしまう。したがって専門書においても、難しく書き過ぎないように配慮されたものは多い。たとえば、大学数学の基本的な部分に関するベストな教科書は、これだ(無料pdfあり):

田崎晴明 氏|『数学:物理を学び楽しむために』

Math book

教養の大学数学というのは(高校数学に比べると)厳密で専門的であり「ムズカシイ」と評されるものなのだけど、緻密な内容に平易な表現を徹底し、「ムズカシサ」を完全に取っ払うことに成功している。()の使い方、脚注、文章の区切り、句読点の配置、その全てが僕の好みのスタイルだ。練りに練られ推敲を重ねられたということが、深く窺える。数学の内容をスキップしてでも、読む価値のある本だと思う。

みんなも、楽しく文章を書こう。

*1:彼のブログはとても面白い。そのプリンシプルがプロフィールページにまとめられている。これは常に意識しておくとよい;

ブログ情報 - 殺シ屋鬼司令

*2:引用元:

「行動生態学」 - Life is Beautiful

*3:また、3つのパラレルな要素:

  • 群淘汰と血縁淘汰との理論的な等価性
  • 「群淘汰」というターミノロジーの誤用・誤謬とそれに関する議論
  • 「戦略モデルの原理」のキーになるPrice方程式

は、おそらく順番を入れ替えると(それは6通りあるが)、文意の明確さやリズムの良さが、すこし低下するように思われる(ことはないだろうか…?)。

*4:渡邉先生に習っている

*5:ただし、書く意思が利己性に基いていることは前提だ