定義
事実命題(X is Y)が真であることから、規範命題(X should be Y)が真である、と結論づけること。 あるいは事実判断から、価値判断を引き出すこと。
論理形式
X is (or is not) Y. Hence, X should (or should not) be Y.
XはYである(ではない)。ゆえに、XはYであるべきなのである(べきではないのである)
分類
形式的誤謬。
説明
みんな大好き自然主義の誤謬*1。Is-ought fallacy、Hume’s guillotine(ヒュームのギロチン)とも。 姿形をかえて、この誤謬はそこかしこに姿を現わす。 形式的には、命題はXとYのみからなるものだが、より一般的には、X is Y. Hence, Z should be Wと表される。
具体的に、次のような主張を検討してみよう。
実はこうした「性別役割分担」は、哺乳動物の一員である人間にとって、きわめて自然なものなのです。妊娠、出産、育児は圧倒的に女性の方に負担がかかりますから、生活の糧をかせぐ仕事は男性が主役となるのが合理的です。ことに人間の女性は出産可能期間が限られていますから、その時期の女性を家庭外の仕事にかり出してしまうと、出生率は激減するのが当然です。そして、昭和47年のいわゆる「男女雇用機会均等法」以来、政府、行政は一貫してその方向へと「個人の生き方」に干渉してきたのです。政府も行政も今こそ、その誤りを反省して方向を転ずべきでしょう。それなしには日本は確実にほろぶのです。
ヒュームのギロチンにかかる恰好の例文だ。 「自然なもの」がいつのまにか「べき」文にすり替えられている。 「方向を転ずべき」という根拠が「自然だから」になっている。*2
用例
「誰しもいつ死ぬのだから、重罪を犯した者に対する死刑は正当化されるべきだ」(ヒトがいつしかは亡くなるという事実は、死刑を規範として正当化する根拠にはなり得ない)
「ライオンではオスが子殺し*3をすることがある。ゆえに、ヒトも子殺しをすべきだ」
「動物園にきた。ああ、ゴリラは可愛いな…おや、メスが子育てをしてそれに専念しているようだね。ほら、ヒトもメスが子育てに専念すべきなのだ」 *4
「オスが浮気するのは本能。ゆえにこれは仕方ない…法で認めるべきだ(法で規制すべきではない)」:オスは、多くのメスと交尾することで繁殖成功を高めることができる。これが前者の主張。いっぽう後者では、法という規範的な命題に言及している。前者は後者の主張を正当化するための根拠になり得ない。
「日本には多くの外来種が侵入して分布を拡大させているが、これは自然の性だ。よって、それらを法で以って制限し、拡大するのを防ごうとするのは、自然の理に逆らっていることに他ならない。やめるべきだ」
「体外受精は、本来ならば(高度医療が発達する前は)有り得なかった。よって、そのような治療をすべきではない(法で規制すべきである)」
分析
これを簡単に見抜く方法がある。「どうして前者の主張が、後者をサポートする根拠になりうるのですか?」と問うてみることである。 これは一見すると単純なようで、非常に強力で(詭弁に対して)汎用的な、分析手段である。
ヒュームのギロチンといういささか物騒な暗喩表現は、『人間本性論』で彼が展開した、isからoughtへのjumpが困難であるという主張に由来しているらしい(ギロチンでは首が落ちますからね…)…が、あまり直感的によく理解できない暗喩である。 ヒュームは、道徳は理性から導かれないが「道徳は感情に由来する」と述べているとのことだ(要出典…Wikipediaさん…。)
ここではっきり断っておきたいが、導かれる結論が誤りとは限らない、ということだ(誤謬の定義参照)。そうではなく、仮定した命題(X is Y)を、得られる命題(X should be Y)の根拠とすることができないので、得られた命題の真偽は不明なままということである。 ゆえに、"is"命題から"ought"命題が導かれることがあるからといってヒュームのギロチンを批判するのは、「誤った一般化」という別の誤謬に相当する*5。
なお、Ought-is fallacyという、規範から事実を引き出そうとする、さらにヤバい誤謬も存在する。
雑感:怠慢である
非常に多くの例では、野外の動物での現象をヒトの社会問題に当てはめようとすることで誤謬が生ずる。 ヒトの社会問題は人間のやりかたで解決すべきであって、これを自然がどうだと言及することで解決案とするのは、怠慢である。
サッカーをしている人たちへのアドバイス。ボールは疲れない。よってパスをしてボールを動かすべきである。(ヨハン・クライフの名言)
派生的誤謬:「誤った類推、誤った比喩」
定義
命題Aを根拠に、それとは関係ない命題Bを主張すること。
説明
「具体例をあげる」ことと「アナロジーを述べる」こととを混同しているのが理由のように思う。 これまた、多くの文脈で見受けられる。
例
- 太郎と次郎は、別々の車で、スピード違反を犯した。警察は(たまたま)太郎だけを検挙することに成功した。そこで太郎は「次郎も違反してたのにあいつを検挙せずに俺だけ検挙するのは不公平だ」と主張した。
太郎が違反したことと次郎が違反したことが、同一の基準で裁かれるべきではあるのは、真っ当である。 しかし、次郎が免れたからといって、太郎がそれによって制裁を喰らうべきではない、と主張するのは、詭弁である。 次郎の事例から太郎の事例を「類推」していることが誤謬である。 「次郎は検挙されなかった。よって、太郎も検挙されるべきではなかった」と書き換えると、Is-ought fallacyになる。
教訓
根拠に対する批判的精神がないのならば、 それを養うべきである。
*1:ちなみにムーアはその著書"Principia Ethica"の中で、「自然主義的誤謬」という言葉で自然主義を(より一般的に)批判している。
霊長類学者の考察する「性的役割分担論」http://t.co/5fKBDCm3Jo
— 細 将貴 (@MasakiHoso) 2014年1月29日
"オスの育児参加が見られるのは,コドモの体重が重く,子育ての負担が大きいことと表裏一体" というのは群淘汰に根ざした説明なので、ここで展開されている議論にも僕は全面的には感心しない。
「オスの育児参加」が自然選択で進化するかどうかは、そうすることによって「オスの利益」が高まるかどうかに依存する。「つがいの利益」ではない。
— 細 将貴 (@MasakiHoso) 2014年1月29日
なるほど。僕はいずれしかし、群淘汰を全面的に否定するのではなく、群淘汰がいつ誤りか・いつ誤りでないか、を考察してここにまとめたいと思う。
*3:オスは、繁殖中のメスの子どもを殺すことで、そのメスを繁殖可能・交尾可能な状態にしてしまうことがある。これは利己的な遺伝子の観点でいえば、異常な行動ではなく、「子殺しを司る遺伝子」がいかに繁殖成功を高めて広まり得たか、を説明する好例である
*4:友人が実際に、元カレに言われた実例だそうな。ぼくならそれを聞いたら「ならテメーもゴリラのオスのように真っ裸になればええやん」と言ってしまいかねないが、それはセクハラである
*5:一般的にoughtをisから導こうとする論文もあるようだ…
http://www.collier.sts.vt.edu/5424/pdfs/searle_1964.pdf
ここでbrute factという、「説明のない事実」という概念を提唱している Brute fact - Wikipedia