Life is Beautiful

主に進化生物学の理論のブログです。不定期更新予定。

研究の三つのタネ

私は研究者なので、さまざまな研究分野の方々と触れ合う機会があるのですが、その能力の高さには舌を巻くことばかりです。それと同時に、どの方も個性がとても強くて、それを社会が評価する必要性も感じます。

控えめに言って、たとえば論理的思考・データ解析・図示・言葉にする・執筆・プレゼンなど、スタートからゴールまで成し遂げられる、スーパーマンだらけで、社会で活躍できぬ理由があるとすれば、社会の門戸の狭さとしか思えないくらいです。研究者はこだわりがつよく、会社に馴染めない…といった、雇用側なのか傍目なのか分かりませんがそういう文言を耳にするたび、大きな会社にいるなら、優秀な人材を「丁重に飼い慣らして」うまく人材活用・育成するという思考にはなれないものかと感じます。研究で培われるスキルは、それくらいマルチです。

とはいえ、研究者が研究で成果を上げることは簡単ではありません。私も苦労しまくりです。でも、多くの研究者と話す中で、見えて来た特徴があるので、それをまとめます。あくまで私の類型化です。

1. 好きなことを突き詰める

とにかく好奇心ドリブン。知りたい。気になる。不思議。未解明。だからやる。そして、ホームラン級の大発見をする。

素晴らしいです。あとはその面白さとか重要性とか他分野との関わりを、うまく社会に発信できたら、文句のないホームランバッターです。

2. とにかく地道に着実にまとめる

研究における大発見というのは、十年に一度経験できればバンザイです。だからこそ、それに向けて着実に成果をまとめ、社会に発信する。

素晴らしいです。ホームランバッターではなく、とにかくヒットで意義深い活躍をされるタイプでしょうか。ホームランを打つまで、社会には見守って支えて欲しいです。

3. 依頼された解析等で結果を出す

研究には、必ずどこかで地道だったり、料理のような下拵えや捌きのステップがあります。ここで大活躍する研究者はいます。

これは分野次第ではどうしてもそういう特化の仕方にならざるをえないことがあります。でも、ジョブマーケットでは圧倒的に不利なのです。リードオーサーでないことも多いので。

ですから、社会がちゃんと評価する仕組みを作るべきです。こうした人たちがいないと、研究は回りません。バッターのスキルは褒められることがあっても、バットのメーカーが褒められる機会は少ないですね。

おまけ: ジャーナリズム型

社会への発信が上手い方。人と人を繋げるスキルやネットワークを持たれた方。

研究者としての存在意義は、多様化してきています。社会と研究をつなぐ方の価値は、ますます高まっています。

とはいえ、個人的には、若いステージでは、研究で成果を上げてこその発信やネットワークだと思います。社会から信頼される研究者は、弁が立つがゆえではなく、研究に対する姿勢や成果といった、総合的なスキルであるべきです。

ジャーナリズムへの特化は、研究を進めて論文を書いて出版し、徐々にキャリアステージを経るなかで、適切に見極めることが大事だと私は思います。目立ちたいのだとしてもそれは成果を通じてであるべきです。人は、自分の実力以上の科学的内容をプレゼンすることはできません。

まとめ

個性をどのような方向に特化させるかは本人次第ですが、私は全部できるようになりたいです。これ以外の特化の方向もあるとは思いますが、とにかく、「論文を書く」。これが、最も研究者としてのスキル構築と社会との交流に、重要な活動です(私の価値観です)。なりたい研究者像、すなわちどんな自分になりたいか、というのは常に修正しながら目指していくとよいと思います。

簡単な無限、難しい無限

昔は無限操作が難しかった。大学の無限操作は、濃度や順序も関わる深遠さや、そこらじゅうに落とし穴がある*1ので、尚更である。

研究者として使う数理モデルに現れる数学は、抽象的でなくなったし、決定論的なモデルを扱うことが多くなった。個体数は無限であり、時間経過も準無限小というべきか、連続値をとると仮定する。

すると、有限という確率的なばらつきの大きさを考慮するのが、大変になった。つまり今度は有限が難しくなった。

決定論的な無限性は、有限性からエルゴード的な推論で導かれる期待値の表われである。つまり、対応関係がある。そして、自分が普段から扱う数理モデル、たとえばマルサス増殖式一つ取り上げても、人が世界をどう見るか(平均的なものを見るか、ばらつきを見るか)という意思決定が介在していて、哲学とは絶対に切り離せないのだと感じる。

無限という概念を畏れた日々と、有限に頭を悩ます日々は、意識の中にも対応関係があるのかもしれない。人が世界をどう見るか、という部分はそこでも決まってくる気がする。

しらんけど。

*1:たとえば、σ加法族は、可算無限程度までしか扱えない

人格と議論の非可分性

白熱した議論になると、ついつい言い合いのようになってしまうことがあります。*1その結果、落ち込んだ気持ちになることが、科学者の世界では悲しいかな、ままあると思います。

 

僕は誰にもそんな思いはして欲しくないし、できれば言い合いではなく話し合いできればいいなと思っています。

 

そんな落ち込んでる人たちに対して、どういう言葉をかけるべきでしょうか。私なら、十分よくできてましたよ、面白かったよ、これから面白い方向がきっと見つかるよ、とか声をかけたいし、そうしたことがあります。

 

一方、「議論と人格を分けるといいよ」と助言する人もいるかもしれません。でも、私はこれはとても問題がある助言だと思いますし、これが暗黙の前提ルールかのように話すこと、そのルールがそうであるべくして成立しているモノ、と考えるのは、危険であるとすら思います。

 

まずそもそも、研究はもちろん、仕事は人間の精神が関わる所業ですから、むしろ、人格(これは良し悪しだけではなく、個人総体です)あっての議論だと思うのです。私の場合は非可分です。よって、議論と人格が非可分である、という「例外」がここにいる私ですから、可分であるという主張は一般には成立しないことになります。

 

次に、もしも可分であるなら、その方法を、筋の通った方法で示す議論すべきです。あたかも「誰にでもできること」かのように仮定することはできません。私は、そんな方法はないと思います。もしあるなら、議論してその方法を示してほしいです(ほんとうにあるならほんとうに知りたい)。

 

さらに、もし可分であるとして、それを他者に求めることは論理的にできません。他人に「議論と人格をわけろ」と求めることは、他の人格に働きかける議論になっていますこれは自己言及にともなうパラドクスにも見えますが、実のところ、自己矛盾です。

 

そしてさらに、人格攻撃と捉えられてもおかしくない議論をする人にとって、「議論と人格を分けろ」は、都合の良い免罪符になってしまうという問題があります。人格攻撃は、ad hominemという誤謬として知られていますが、議論と人格が分かれているという思想の定着は、容易にad hominemを生み出します。だって、助言に従えば、人格を無視し合ってもいいんですから。

 

なるほどたしかに、「分野」次第では、強めの表現で議論をする風潮があるのかもしれません。でも、風潮があることと、その風潮が良いことかどうかはまた別です(自然主義の誤謬)し、風潮を利用して主張を正当化するのは、appeal to majorityという形式的誤謬です。あるいは、既存集団への自己帰属意識から自己の主張を正当化することは、appeal to authorityという形式的誤謬です。

 

そして。

 

以上のように、私が誤謬を提示する時は、攻撃の意識ではなく、論理的なところだけ援用したつもりです。しかし該当する言明をしたことのある人にとっては、攻撃的に感じられたかもしれません。もしそうならすみません。でも、議論に人格の伴わない方には、人格に関わらぬ論理的非整合性の指摘という手段でしか、伝えられないのです。私には感情があるんですよ、だから議論と人格を分けろなんて言わないでほしい、という言葉が届かないからです。それは、すこし悲しいことにも思えます。

 

 

議論相手は常に人間、受け止め方は千差万別十人十色。「お気持ちを害さないことを目指せ」と言っているのではありません。人格のある人間であり、信頼あっての人間関係ですから、信頼を築きあえる手段を、敬意ある態度で相互検討するメリットはあるのではないかと思うのです。

 

また、「議論と人格は同じもの」と主張したいわけではまったくありません。ただ、アリストテレスの『弁論術』にもあるように、説得は人となりによるもの、という部分があって、議論からは人としての尊厳や人格を除去するのは不可能、と言いたいだけです。

 

そして、ほかならぬ私自身が、人格のない議論をしないように気をつけよう、と思います。

*1:僕はないです。話を最後まで聞く習慣があることと、それで憔悴したり自己嫌悪するのがイヤだからです。

オンライン学会発表での確認事項

■初めての本格オンライン学会

生態学会で自由集会企画および口頭発表を行なった。5日間という長丁場、大会運営実行委員の皆様には心より御礼申し上げる。

■学び

実際にオンラインで発表や企画をしてみると、思ったよりも楽しいし、思ったよりも大変だし、思ったよりも疲れるという、予期せぬ感情が荒波のように押し寄せてきた。

その中で私が得た学びを共有したい。

演者側

スライド減らせ

15分の発表(質疑込)だと、だいたい8分しか話さないつもりでスライドを作るべし。あるいは、ゆっくりと10分話すくらいの気持ち。「do you see my screen?」とかそういうやりとりで1分すぎる。

ゆ〜っくり話すべし

上の内容も踏まえ、ゆっくり話す。隠しスライド多めが良さそう。

まとめスライドを示せ

  • 最後のスライドが「Thank you for your attention!」だけよりは、10分話を聞いてちゃんと理解しきれていない聴衆のために、結果などのまとめスライドを示しておいたほうがよい。質問への回答が終わるたびにそこへ戻るとなおよい。そのほうが質問は出やすくなる。
  • それを有効にするためにも、謝辞スライドは最初のほうが良い気がする。

座長・企画者側

座長が演題読み上げるのいらない?

座長がタイトル読み上げるのは不要な気がする(講演者が望むなら、別である)。これは両論ありそうだ。

  • 緊張している講演者にとって、自身の発表タイトルを自分で読み上げることで、緊張を和らげる効果があるかも知れない。
  • スライドを事前に映して準備万端なら、聴衆はとっくにわかっているかも知れない。
  • 講演者は練習しているのでタイトルを読み上げることも多いし、座長よりはすらすら読めるだろう。*1

演者と相互確認しておくとよい。

時間を告げるには口頭がよいかも?

  • Zoomでは「残り5分です」とチャットで告げても、演者はそれを確認する余裕はない;あるいはボックスが隠れている。
  • ZoomではパワポKeynoteよりもPDF画面を共有するほうが、動作が安定する。よって、発表者ツールを利用できない可能性も高い。
  • 座長がタイミングを見計らって(スライドのトランジションのタイミングなどで)時間を告げると、かなり時間意識がはっきりする。
  • ちなみに 「XX分経過しました」より「残り5分です」のほうが情報が豊かである。

これまた演者と相互確認しておくとよい。

ミーティング形式<ウェビナー形式

  • 質問をさばくうえで、この図式は絶対だと確信した
  • 質問は入力してもらい、それを読み上げる。
  • 質問者が頭を使って質問を整理することにもつながる。

聴衆側

質問は手短に

  • 質問時間は、分割不可能な資源である。10秒20秒すら貴重。
  • 「面白かったです」という励ましを入れてもいいだろう、人間とのやりとりなので。ただし、質問自体を非常に手短にしたほうが良い。
  • 理想的には7秒以内かなぁ
  • ウェビナー形式ならばこの問題は解決されやすい。

ミュートせよ

  • これもウェビナー形式なら解決か。

*1:タイトルを読み上げることで「正式スタート」とすることもあるので難しいが、そもそもタイトルを見て聴衆は足を運んでいるだろう。部屋を間違えたなら聴衆のミスであり、演者の時間を使ってまで確認する必要があるとはちょっと思えない。私は積極法で「タイトルを読み上げる必要性」を推奨できない。もちろん繰り返すが、フォーマルな場、たとえば時間を計って行なう面接などは別である

数学と写経

私は、数学の理解に時間のかかることが多いです。人よりも要領が良くないのだと思います。イメージするよりも手計算する方が理解に繋がりやすいタイプだと自覚します。

 

とはいえ、大学での数学の講義では、板書を文字通り無心にとるばかりで何も考えられていないことが多くありました。ひょっとすると、これを読まれてる方のなかにも、そんな講義の受け方をされていて、それで良いのか?と思われる方もいるかもしれません。

 

非常に印象に強く残っている言葉があります。それは、大学の頃、解析学の講義で、数学の教授に言われた、「数学の勉強には写経のような性質があるから」という言葉です。

 

正直に捉えると、これは「何も考えずに板書を取るのも悪くはない、タメになる」ということです。

 

そもそも写経の目的には、後から読み返すという要素が強くあります。無心にとったノートも、後から読み返すことで理解が深まる節はあるかもしれません。おかしいなと感じたところを見て、自分の書きミスか、先生のミスか、それを議論する題材にもなるかも知れません。

 

 

また、数学では色々な具体例を考えてイメージを頭に入れることで理解が深まることは多いはずです。それにより直観が鍛えられ、本質的な部分を理解できるようになるかもしれません。しかしそういったことは写経後のノートを見ながら行えばよいのであり、講義中そのときにしなくても良いかも知れません。

 

そもそも、物事を理解するタイミングは人次第で良いはずです。

 

 

僕自身は、まずはノートにとってみて、その後自分でじっくり考える、というのを気に入っています。向き不向きはあるでしょうが、大学の数学の講義は時間の制限があり、すさまじいスピードで行われるものも多いはずです。それを板書する技術は、すればするほど伸びます。これは、自分で手計算するときにも役に立つはずです。

 

講義中に質問ができる人はすごいです。でも僕は、帰宅して人よりたくさん、数式に向き合うほうが合っていたようです。

 

 

 

 

なぜ学際研究は難しいか[追記あり]

私は現在、学際的な研究を目指すチームに所属しています。チームの目標は、数学という共通言語を用いて、分野を問わず科学の様々な分野の未解決問題にアプローチし、解決策を与えるというものです(ざっくり言うと)。人類が現象を理解するために用いることができる数学ツールというのは実に限られているため、一見すると関係のない現象同士が、背後の数学で深く結びついていることがあるのです。

私の研究分野は、いわゆる数理生態学・進化学です。数理モデルの役割が尊重されていて、それから得られる予測が非常に影響を持つ分野です。私は数理モデルを用いて、生態・進化現象の将来を予測したり、現在のパタンを説明したりすることが専門です。数学の研究者ではありませんが、多くは耳学であっても数学的な背景はそれなりに有しているわけです。

それでも難しい協働研究

本格的に学際的な研究推進を目指してみたものの、やはりとても難しいなと感じる日々です。理由は様々ですが、いくつか思いつくことを述べます。特に生物学についてです。

システムと専門用語

当然ながら数えきれぬほどの生物システムの生命現象と、それを表す名前がついていて、それらの概念を、限られた人間の頭で共有するのには限界があります。

追記:さらに、そうした現象自体に興味がある人と学際研究を行なうとは限らないのです。

なので、うちのチームでは、現象を説明するよりも数式だけを見せたほうが速いということが起こります。でも、その数式こそが、欲しいものだったりするわけです。

分野が違うとマーケット事情が違う

あまり人間をマーケットに乗せる考え方は好ましくないのですが、比喩だと思ってください。

分野が違うと、業績の評価基準が違います。たとえば生態学では、conference proceedingという文化がありません。また、出版のテンポは、物理学や情報工学佳と比べると遅めです(これも分野によります)。よって、被引用数は、それら分野と比べても低めです(たぶん*1)。さらに、雑誌のIF(インパクトファクター)を非常に重視します。

こうした、異なる基準で評価されうる若手研究者たちの交流からのアウトプットがいかに評価されるのかは未知です。たとえば、Journal of Theoretical Biology (JTB) というジャーナルは、理論生物学では主流のジャーナルですが、数学科や物理学科では、別の主流ジャーナルがあります(Physical Review系とか。数学はあまり知りません)。仮に数学者や物理学者と学際的な研究をスタートさせて、JTBに論文を載せたとして、私はともかく、彼ら彼女らの「業績」としては、残念ながら認められにくいということになります。

もちろん、ジャーナル名で論文の価値を判断することを肯定している意図はありません。ただ、そういう審査員もいるだろうし、こと分野外の研究者を審査するとなると、そういう基準が持ち出されることは想像に難くないという事実を想定しているだけです。

そうなると、分野を越えて誰もが知ってるジャーナルに投稿しようという動機付が、当然ながら生まれます。たとえばNature/Science/PNASなどはそうでしょう。大きな成果を目指すということです。この野心は重要ですが、限られた任期の中でいかにそうした成果を出せるかというと、リスクがあります。

大きな仕事は面白い。しかし、今の社会では時間が限られすぎているかもしれません。

研究は料理に似ている

よくある誤解だと思うのですが、厳密な数学的議論に精通された方々が、現象を知って数理モデルを構築できるとは、限らないのです。

これは、適切かは分かりませんが、「ご飯が食卓に並ぶまで」というプロセスと比べることで、解釈することが可能です。

レストランでは、ご飯を注文すると、厨房で調理がなされ、テーブルに運ばれ、口にすることができます。つまり、レストランというのは、「食べたい目標」を入力すると、「その食べたいもの」が出力される関数、と言えます。

もしも、数学者がレストランであれば、生物学者が「数理モデルで解析したい現象」を入力すると、「数理モデルの解析」が返ってくるはずです。しかし、もしそんなに単純であるなら、世の中からは、「数理生物学者」は居なくなっているでしょう。[追記:]よって背理法により、仮定は誤り。数学者はそのような「関数」になっていないということです。

そもそも、料理というのは、果たしてそんなに単純な過程でしょうか。料理には、テナントが要ります。食材が要ります。包丁が要ります。しかし、シェフはこれらを確保する立場には必ずしもありません。

テナントはオーナーが提供するでしょう。

食材は(根本的には)生産者の方あってこそでしょう。

そしてそれを仕入れる方が必要でしょう。

つまり、食事が食卓に並ぶまでの過程は、マルチプロセスです。各過程のプロが、それぞれの仕事をしたうえで初めて成立する、まさにコラボレーションです。

研究もそうです。仮に数学者をシェフとするのであれば、適した素材(現象)を仕入れる(数式にする)ことなく、シェフの調理は行われません。

客が注文→できあがり、という単純な図式に研究活動はなっていませんし、そもそも、「客」という立場の研究者から、協働は始まりません。料理に協働的に参加するという「主体性」が必須です。

そして、それよりも、関係の対称性はもっと大事です。どちらかがどちらかに依頼する、サービスする、というのでは明確な非対称性があります。実際は、美味しいご飯を食卓に並べるためには、包丁を持ち寄る人と、食材を持ち合わせた人の、対称的な関係があるべきと思います。

包丁捌きの優れた方がえらいのでも、食材を持つ人がえらいのでもないのです。どちらが欠けても、料理はできない。互いに相補的であるという意識です。

それでも楽しい異分野交流

私は学際研究は難しく、かつ、だからこそ楽しいと感じます。これからも模索していきますし、自身の主体性を発揮していこうと思います。

みなさんは、どうやってコミュニティを跨いだ異分野の交流を行ない、どのように成果をあげ、自身のキャリア構築に繋げていかれましたか?もしヒントがあれば教えてください。

*1:すくなくとも、被引用数は強くskewしていると思います

とある研究者の訃報を耳にして

私は分野が違うために存じ上げなかったが非常に優秀であった研究者の方が亡くなったという話を耳にしました。

 

どのような研究をされていたのかを知りたくて御名前で検索したらトップにブログがヒットしました。そこには、どのような症状があり、どのようなリハビリをされていtたのか、そして研究への熱意と苦悩が、非常に鮮明に綴られていました。

 

自分がもしも、飽く迄も仮にですが、何かの理由で社会の中で研究を続けることが困難になったとしたらどうするのだろうか、と考えると、抑えられない熱いものがこみあげてきました。私が10年近く研究を続けてこられたのは、本当に恵まれていて、幸運で、有難いことなのだと実感します。命あって、体あって、健全とは必ずしも言えないが心あって、今の自分とその研究成果、そして研究仲間がいるのだなと。

 

そして、いろんな要素の繊細なバランスの中で、人の命と社会での働き方があるのだなと、改めて感じます。

 

こう綴るうちにも、研究者としてのキャリアを築くことの困難さを感じるとともに、退官されるまで、あるいはキャリアを全うされるまで、我々若手研究者に轍を託してくださった方々に、感謝する思いが溢れてきます。

 

私は、あと何年研究を続け、私より若い方々に、良い影響を与えることができるでしょうか。長生き願望が余り無い私だったのですが、そんな贅沢なことは言えないな、毎日を後悔してもしきれぬほど、楽しく暖かく愛あり充実したものに…つまり「大切に」せねばならないなと思いました。研究が、その核の一つを占めているわけですが、「研究を大切にする」とはどういうことかについても、改めて考えるきっかけを頂きました。

 

研究を、どれだけ日常がイヤで落ち込んだ時にも、やめられない。そんなに研究を好きな自分になれたのは、これまでの自分やみなさんのお陰に他なりません。

 

最後に、心より、ご冥福をお祈りいたします。私はお会いしたことのない方ですが、考える契機を頂いたことに感謝いたします。