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主に進化生物学の理論のブログです。不定期更新予定。

中学生から始める適応進化理論2:よくある誤解

2. 自然淘汰による適応進化にまつわる よくある質問・誤解

ここで、リフレッシュのためにも、よくある誤解をいくつか取りあげてみます。

2.1「順応」は人生の一部。だが言葉は変化(進化)する

「社会に適応する」という言葉も既に確立されているので微妙かつ複雑なのですが、私は、人生の一部において、人の性質(や行動・心理)が変化することを表現するならば「順応」という言葉のほうがふさわしいと思います。 なぜなら、適応進化は、遺伝子が、親から子へ伝わって(つまり世代をまたいで)初めて起こる現象だからです。

自然淘汰は、遺伝子・個体レベルで基本的に作用します。つまり、遺伝子が、あるいは個体が、たくさん子どもを残せたかどうかが注目する点です。

そして、適応進化によって、集団の平均的な性質(たとえば首の長さ)が変化していく。つまり、集団の時間変化が注目する点です。

これが自然淘汰による適応進化の原則です。

なお同様に、医療の文脈でも「適応」という言葉が用いられることがあります。この問題はあまりに複雑なので、脚注に委ねます。 *1

ちなみに、面白いことに、「言葉」というのは、使われていくうちにエラー(突然変異)が入り、そのエラーが使われるようになって広まっていくわけで、進化プロセスそのもののわけです*2。 どんな単語にも、使用頻度の差があることで、その伝わり方に差がうまれ、「よく使われる言葉」は時間を経てよりポピュラーになることもあるし、流行りが一瞬で去ることもある。 つまり遺伝子のように、残せた子供の数ではなく、言葉や単語はその使用頻度によって、淘汰がかかる、というわけです。 時間を経て、集団の性質が変化していくシステム、つまり力学系には、常に、(生物学とはまた少し別の、しかし非常によく似た)「進化」が起こりうるのです。 ややこしいですね!

2.2 種のための進化は起こりません。

適応進化は「種」のレベルでは起こりません(なぜなら、種は、あくまでヒトが定義する概念だからです)。よって、種の存続のために自然淘汰が作用するわけではありません自然淘汰によってたくさん子どもを残せた個体からなる種が、「うまく」存続しているかのように見かけ上、観察されるだけです。進化は、遺伝子レベルと個体レベルで(少なくとも)起こります。

2.3 集団レベルで自然淘汰が作用することはあります。

自然淘汰は遺伝子、あるいはそれを持つ個体に作用する。これは何度も言いましたね。

でも実は、集団レベルで適応進化が起こる可能性もあります(複数の個体たちのあつまりを、生物学では集団あるいは個体群と言います)。 すなわち、「たくさん子どもを残せた集団が、自然淘汰によって進化する(つまり進化によって出現し、観測される)」可能性があります。

それはたとえば、自分の形質が、集団中の、同じ遺伝子を共有している(確率の高い)血縁個体の繁殖成功度にも影響する場合です。深入りはしませんが、集団レベルでの自然淘汰を、血縁淘汰と呼びます。

たとえば、タンポポの種には綿毛があります。複雑な綿毛などつけず、文字通りに根本に種を落とすと、種同士は「きょうだい」同士ですから、光や資源をめぐって、競争が起こってしまいます。きょうだいたちは同じ遺伝子を持っているので、競争すると、遺伝子(のコピー)を次世代に伝える確率が低下してしまいます。しかし種が綿毛をつけて飛ぶと、種子ひとつひとつの個体レベルでは、移動中に死んでしまったりするので、自然淘汰上は不利なのですが、血縁個体との競争から逃れるうえでは有利であるのではないか、と考えられています。*3つまり、遺伝子の観点からいえば、それが乗っている個体にとっては、生存率の低下してしまう形質であっても、遺伝子が乗っている個体たちの集まり(つまり集団)レベルでは、残せるこどもの数が増えることがあるのです。これが血縁淘汰のキモです。

2.4 適応進化以外にも、進化は起こりうる

進化の原理は、自然淘汰だけではありません。「突然変異による、遺伝子の違い」が「遺伝形質の違い」に直接関与しない、あるいは「遺伝形質の違い」が「たくさん子どもを残せるか」に関与しない、といったことも考えられるからです。このように、「中立的な」突然変異は、集団に確率的な過程を経て広まります。これを中立進化と言います(ただし、中立的な遺伝形質が集団中のすべての個体に広まるには、途方も無い時間がかかります)。中立進化の理論は、日本人の遺伝学者である木村資生博士によって考案された理論です。

より一般に、進化を起こす要因には

  • 自然淘汰
  • 突然変異
  • 遺伝的な浮動(個体数が小さいことで、確率的な変化の効果が、相対的に大きくなる)
  • 移動分散  (集団間で、個体の行き来があることで、集団の平均的な性質の観測値が変化する)

があり、どれも適応進化と中立進化にとって重要な要素です。

2.6 退化も進化の一部

退化現象は進化の一部です。たとえば、ヒトのしっぽは、退化しました。羽根のない昆虫や鳥もいます。 これらは進化現象の一部です。ややこしいのですが、遺伝的な基盤のある形質の、世代をまたいだ変化は、すべて「進化」です。 「進化」とは、ときが進んで変化した、という意味だと理解して下さい。

2.7 大事なこと:「良い」、「優れている」、は自然には存在しない。

大事なことですが、進化現象は「良し悪し」と無関係です。良し悪しは人間の頭にしか存在しない概念です。たとえば、花に「きれいな」言葉をかけても、花は育ちません(同様に、生き物ではありませんが、雪の結晶に「きれいな」言葉をかけても、結晶の形は変わりません)。「進化」は、人間による「価値判断」(良し悪し、優劣、など)の観点では、中立的な意味しか持ちません。「遺伝子が多く子どもを残せた。だからその遺伝子は広まった」という論理だけです。

進化の結果として獲得された形質を賛美や嫌悪の対象とすることは個人の自由ですが、それは科学の一部ではないのです。

同様に、適応進化を「弱肉強食の原理」と呼ぶのは、僕は不適切だと思います。例えばライオンがシマウマを捕まえて食べる現象は、「強弱」かのように目には移りますが、ライオンはシマウマのように草を食べて消化することはできません。その意味ではシマウマのほうが「優れている」と判断できなくもないですよね。また、我々は植物を栄養源にもしていますが、それでは我々は植物より優れているのでしょうか。強いのでしょうか。でも、植物がいなくなったらヒトは間違いなく絶滅してしまいます。では我々は「弱い」のでしょうか。こうした「優劣」を考え始めると、キリがありません。また、これらはすべて、主観的な形容と切り離すことが困難です。そうなるともはや「科学」ではありません。*4

したがって、人間がもっとも「優れている」とか「ピラミッドの頂上にいる」という結論も、適応進化理論からは導かれません(優れている、とは何でしょう?我々は鳥のように空を飛べません。犬のように鋭い嗅覚も持っていません。では我々は「劣っている」のでしょうか。 そもそも、優れている・劣っているとは、どういう意味でしょう?誰が決めるのでしょう?)。

以上のように、あくまで科学では、事実判断として「自然淘汰で生き残ったタイプは適応的である」と結論づけるに留めるのです。一般に、自然淘汰の概念を人間社会に持ち出して、自然淘汰を「規範」扱いすることも科学は正当化しません(「ヒュームのギロチン」*5と言います)。

たとえば、

  • “質の低い”人や集団は、“淘汰”で排除されていく;
  • よってそれは自然な帰結であるし、そうであるべき

という論理の言説を目にすることもあります。しかし社会の仕組みを(自然)淘汰の原理に任せてはいけません。人には脳があり、個人には人権があり、集団には(たとえば)民主主義制度があるのだから、自然淘汰のなすままこそ善というのは、何も考えていないのと同じです。*6 自然淘汰に似た原理が作用することがあるけども、それで困る人のためにも、みんなが頭で考えて、話し合って、みんなで問題を解決することが大切だ、と僕は考えています。

私は、咳喘息を患っています。ひょっとすると、咳喘息は遺伝するかもしれませんし、有史以前は、咳喘息を患っていた個体が、さまざまな理由で、子どもを残しにくい社会だったかもしれません。しかし人間社会には基本的人権がありますし、医療がカバーできる部分も大きいはずです。よって、咳喘息という症状を持っている私(や他の誰か)に「優劣」「強弱」という価値判断を貼ること、すなわち優生学的思想に基づく差別は、絶対に行なってはならないのです。私自身は、私自身のその性質を「劣っている」とも思いません。それは色んな人の尊厳を侵す思想でしょう。

自然淘汰が起こるという自然原理は、ヒント/参考にすることはできても、規範、すなわち社会のルールそのものには、決してできないのです。

[2020年6月20日 追記] ゆえに、政治の文脈で、自然淘汰や適応進化のことを持ち出すのは、詭弁です。

*1:適応外使用関連フォーラム(PDF注意) https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjdi/13/2/13_2_67/_pdf

*2:言葉は、集団的文化形質であると考えるのがよいでしょう

*3:もちろん、綿毛がついて飛ぶことで、空き地に侵入しやすいなどの意義もあったはずで、この血縁淘汰による説明は、あくまでも部分的なものです。

*4:むしろ、こうした自然の生態系のさまざまな相互作用のバランスがあって初めて、どの生物も生きていくことができる、という捉え方のほうが、科学的ではないかと私は思います。

*5:ヒュームのギロチンについては、lambtani.hatenablog.jp

*6:この観点を疑問に思うのであれば、以下のような問答を行ってみましょう。

  • 霊長類など多くの動物では子殺し現象が起こることがあります。それは自然淘汰で有利になった遺伝形質(行動)です。あなたは人間社会でもそうであるべきと主張しますか?
  • 動物は自然では裸です。ヒトも、生まれた時は服を着ていません。よって、あなたは服を着ずに社会生活を送るべきと主張しますか?
  • 動物は火を使って料理をしたりしません。よって鶏肉なども生で食べます。あなたは鶏肉を生で食べるべきと主張しますか?