Life is Beautiful

主に進化生物学の理論のブログです。不定期更新予定。

YouTubeとの距離

先日、携帯電話のキャリア変更のために、ショップへ足を運んだときのことである。行政から義務付けられている、消費者の契約内容の確認等の説明の説明(書き間違いではない)が、動画でなされると知り、感心した。スタッフはその間に別の作業をできるし、法律で義務付けられている内容を繰り返す必要がない(たとえば「スタッフから充分な説明を受けましたか?」というのをスタッフが尋ねるなど)ので、効率的である。

いっぽうで、いち消費者として、なんとなく下に見られている気もした。たぶん、世の中の多くの人たちは動画サービスを多かれ少なかれ利用していて、馴染みのある媒体となっている。しかしその実態たるや、文字通り一文字残らず字幕や強調、そして「www」の追加などが行われている。「ここがウケるところだよ」というのを明示せねばならないのは、ギャグとしては敗北だと思うのだが、これもやはり下に見られている気がする。視聴者を、製作者の「意向の波」に埋め込んでしまっているのである。

ちなみに、視聴者の感情へ訴えかけるシステムは枚挙にいとまがない。アメリカのコントドラマで採用されている、人の笑い声もそうである。あれは機械音声である。Laugh trackと呼ばれる。 Laugh track - Wikipedia これは私の大好きな、Mr. BeanやFRIENDSなどでも採用されている。歴史的経緯は割愛するが、あれが人間の感情や反応に対して影響を持つことを想像するのは難しくない(“curious behavior”という本に、科学的な説明がある)。サブリミナル効果を利用することは禁じられてはいるが、こうした、動画を用いての「情報」伝達手法は日に日に進歩していて、動画媒体の重要性とともに相乗的に増大しているのだろう。

少しハナシがそれたが、情報は動画で伝えるのが効率良い。そういう基盤すらできつつある。 YouTubeはその意味でも今や、主要メディアの最たるものであると思う。

動画は便利だ。寝転がっていても、情報を頭にいれることができる。手軽だ。家に無線LANを走らせている、あるいはギガモンスターなら、動画を用いて色々学ぶのが効率良いし、何度も見返せる。観るなら、あるいは聴くなら、受動的姿勢でもいいから楽だ。

そして、動画を制作することで、収益をなすこともできる。YouTuberの年収は、精神衛生のためにもぐぐらないほうがよい。もちろん、彼らの活動を否定したり過小評価したりするつもりは一切ない。たゆまない努力があるのだから。でも、「俺も動画で一儲けできぬだろうか…」「俺は何をしているのか…」といった気持ちに全くならないかと言うと、そうでもない。やっぱり羨ましい。

しかし果たして、こういう社会構造は、自分にとって、あなたの大切にとって、社会にとって良いことだろうか。そうした批判的分析を放棄するまで思考を受動化させてよいものだろうか。

あるとき、YouTubeのブックマークを無意識にクリックしてしまう行動をとっている自分に気がついた。クリックは非常に能動的な行動だが、無意識にするとなるとそれはもはや受動的だ。ついついクリックしてしまう。そして観るのは、YouTuberの動画だったり、BGMだったりする。別に観たくもないのに。

あるいは、ある動画を観て衝撃を受けた。外国人が、日本のTV番組の動画を違法にアップロードしている動画を、動画内で視聴し、お笑いポイントを解説しているのである。登録者数は数万人。それでも収益はあるのだろう。だが、そんな活動で収益を得るのは、何も生み出していない動画投稿者と、ただメディアとして振る舞っているYouTubeである。衝撃的だ。違法動画に茶々をいれるだけで生計をなす。そういう活動に、私の「視聴ボタン」がインセンティブを与え、そうした活動を育てることになる。それでいいのだろうか。

自分にとっても社会にとっても、これではいけないと思った。社会の構造があまりに歪で、少なくともそれを是とする自分ではいたくない。

そこで、YouTubeをまずはブックマークから削除した。すると、人間不思議なもので、まったく観なくなった。あのYouTubeの▷ファビョコンは、かくも不思議なことに、再生意欲を刺激するのである。▷があると押したくなる。そうした深層心理があるのかもしれない。

こうしてYouTubeを観ない生活は自然に始まり、自然に続いて、自然に何も変化はない。つまりYouTube動画を視聴することは、私の生活において、全く重要でなかったのだ。これは意外で驚きだった。別に、観たい動画があるわけでもない(ただし、サッカーのシーズンが終了したタイミングであるため、ハイライト動画などを観る機会がないブレイク期間だから、という理由もある)。観てないから損した動画も、無い。もちろん、これは無知の無知である。しかし、本当に何もストレスがないのである。

そこらへんのブロガーのように、「はかどった」とか「コスパよかった」とか「QOLバク上げ」などといった、陳腐な表現は用いない。用いることができない。積極的な好影響はたしかにないからだ。あるとしたら、動画を選択する時間がなくなったことだ。

それに、自分が頭に入れる情報は、自分の意志で決めたい。自分が面白いと思うことは自分のココロで決めたい。Laugh trackなぞにツボをくすぐられるのは、私にとっては思考の放棄である。YouTubeは、便利だが、別に私を幸せにしていないと知ることができてよかったと思う。