Life is Beautiful

主に進化生物学の理論のブログです。不定期更新予定。

研究テーマとその広がり

私は大学院に入った頃から、移動分散の進化を研究するのだと決めていたし、実際にそうした。血縁淘汰により、血縁者同士の競争が回避されるというのが、アイデアとして根本的に面白かった。

昆虫が好きだったし、まずは動物を主な対象としていた。生物学的には最低限の仮定しか置きたくなかったが、疫学的な要素、つまり宿主が寄生者に感染した時に移動しやすくなるかどうかを調べていた。

その後、植物の研究者と働く機会があり、その方と、自殖率の進化と移動分散の進化の両者を調べた。

さらに、疫学的な研究を始めた。疫学の進化動態だけでなく、疫学が多種の動態(群集動態)にどのような影響を与えるのか調べた。

そこからより一般に、進化と群集動態の関連を調べ始めたし、自殖する植物の血縁淘汰も研究し、さらに移動分散が性比に及ぼす影響も研究した。現在は、より普遍的なクラスのモデルにおける進化や生態を、統計力学情報理論的な観点から調べている。

こうみると、自分のやってきたことはバラバラなピースに見えて、繋がっている気がする。しかし、学生の頃には、このようなことは予期できなかった。十年前の自分がびっくりする広がり方である。

一方で、とことん突き詰めることもまた、大事である。私は、これらはスタイルの好みの違いであって、どっちが正しいということはないと思う。どっちでもいいと思う。

しかし、学生のテーマ選びにおいては、「どったでもいい」とは一概に言えない。テーマを決めて突き詰めるうちに技術が身について新しい問題に取り組みやすくなることがあれば、逆に、いろんなシステムを横断しているうちに好みが見つかって突き詰める対象ないし人生のテーマとする、ということもあるためである。

どちらが良い悪いという二元論ではない。試行錯誤のうちにスタイルは決まる節はあるし、お金のとりやすさ、面白さ、就職しやすさ、流行り廃り、重要さ、などはどれも異なる。つまり、価値観と社会次第だ。

さらに、突き詰めるとしても、広がりのあるテーマと、閉じたテーマ、どちらを対象とするかにもよるだろう。とにかく一般論はない。結びつけるのは研究者の仕事であって、アプリオリに決まっているわけではない。

こう考えてみると、テーマをいかに選ぶかと言うのは実に非自明な問題なのだが、ここからさらに、教育者として学生にテーマをいかに決めてもらうか、というのは、より複雑な問題となる。自分自身ですら試行錯誤の末のテーマ決定なのが普通であるのに、他者のそれを促すというのは、想像を絶する困難と言ってよい。

たとえば自分と同じテーマを学生が研究するというのは、やり方の一つだろう。自分のテーマについて手を動かしてくれるのはありがたいし、自分に事前準備も必要ない。経験的になんとなく見えていた望ましい結果がただちに学生の手により得られる可能性はある。

しかし、長期的にその学生にとってそれが良いことかはわからない。「先生のテーマをやってる学生」で終わってしまう可能性はあるだろう。そうなると自立は難しい。広げ方も限られるだろう。

一方で、学生が独自テーマを持つと、教員もそれなりに指導が大変だろう。研究者としてのカンも働きにくいし、計画も立てにくい。そして当の学生は、指導を通じてそれを痛感するだろう。そうなると、伸びるか伸びないか、それは一種の冒険となりうる。そしてそんな冒険は人の運命を二分化させる可能性がある。

こうした二つのやり方には正解はない。学生との関わりの中でしか判断できないし、それでいいと思う。私は、基本的には学生のテーマが先にあって、それがサイエンスとして進むのを手助けする立場でしかない。逆に言えばつまり、学生が興味を育てるきっかけを与えることは忘れてはいけないということだ。馬を水飲み場に…という諺はあるが、水飲み場があってこその、「馬に水を飲ませられらない」という結果である。

私はちなみに、自分のテーマを「させる」つもりはない。本人が好きなら自分から「盗んで」もらってよいと考えている。だが根本的にはやはり、主体的な学生とのやりとりを持ちたいと感じるし、主体的でないとしたら、私は主体的になれるように指導することを目指すだろう。まあ、それが一番難しいのではあるが、水を飲む方法を教えることは、ある意味ではヒトの性質を知る上でも興味深い過程になりそうだと感じる。

何より、自分自身が楽しく面白い研究をして、その態度を学生に示していこうと考えている。