Life is Beautiful

主に進化生物学の理論のブログです。不定期更新予定。

計算機がもたらす人類の「理解」

数理モデルを用いて研究する分野では、代数的な計算(いわゆる「手計算」)によってのみではなく、数値を具体的に代入・導出することで結果を求めることもある。これは、計算機(パソコン)技術の発展によって、ますます重要性を増しているし、翻って、研究において計算機の果たす役割がますます高くなっている。もはや、計算機を用いずに研究することは不可能であるといっても過言ではない。もはや手計算で  f(x) =e^{(\cos{x})} + x^{10} e^{-x} - e^{(\sin{2x})} の増減表を書いてグラフを描く者はいないだろう。いてもいいが。

計算機を用いて研究するうえのメリットの一つは、問題を複雑にできる、あるいは複雑な問題を検討できることである。これは、まさに人智を超えた範疇の問題設定を要求する科学において、その発展をもたらすことだろう。

研究において必要な複雑な計算を、計算機に委ねるというのは、計算機という名称からも非常に自然なことである。たとえば先述の関数  f(x) について、 f(x) = 0 の解を求めたいとする。こうした値は通例、きりの良い値にならない。無理数は小数点以下の桁に周期性がないので、どこかで打ち切らねばなるまい。すなわち「丸め誤差」が発生する。その丸め誤差は、たとえば  f(x) ではなく  f(x)+\epsilon といった摂動(小さな変化)を伴う場合にも、小さい量であってほしい。それは保証されるだろうか。

数値計算の誤差を克服したとしよう。すなわち、誤差を伴う近似がある程度は信頼できるものであるとしよう。通例、知りたいのは数値そのものではなく、論理的帰結である。たとえば、数理モデルの結果に対する、生物学的な解釈である。解釈は、いまの時代では(まだ)、人間にしかできない。すなわち人の脳が必然的に介在する(し、そうであるべきだと私は思う)。あるいは数学であれば、特定の数値でピンポイントに成り立つ主張ではなく、ある程度の幅の数値で成り立つ主張(命題)を導きたいと考える。機械は(おそらく、まだ)新規命題を導けない。命題を発見するには、人の経験が(たぶん)必須であるから、数学という学問においてもやはり、人智が介在している。

発見はさすがに難しい。では計算機に、いまだに証明されていない命題Pの真偽を判定するという仕事を任せたとしよう。たとえばリーマン予想の成立について尋ねる、といった試みである*1。もし回答がYESであったとする。つまり計算機が、リーマン予想を肯定的に回答したとする。もしもそのような計算機が実在したらそれは非常に驚きであるが、人類はきっと味をしめ、色々な命題の証明に運用しようとするであろう。たとえば社会問題に対しても回答を得られるかも知れない。

問題は、計算機がそこにたどりついた推論過程が、*2不明瞭なことである。数値計算であればよい。アルゴリズムがきっとあって、それを特定あるいは指定すればよい。しかし、未解決な命題証明については、そうもいかない。きっと計算機は色々な過程を経て、結果を導き出したのであろう(仮想の話だからわからないが)。だが、命題に対して計算機がYESと言ったとて、我々の命題への理解、すなわち数学が進んだとは必ずしも言い難い。

こうした問題は、計算機のブラックボックス化と関連している。ソフトウェアを用いて統計解析をすべて行なうのはあたりまえといって良いだろう。もちろん、たとえばχ二乗検定は、まだ、手計算でできなくはない。だが誰もやらないだろう。問題は、そうして誰しもがソフトウェアを用いて、すなわち計算機を用いて統計解析を行なってデータの分析を行なうようになるばかりで、内部の原理を理解・実装する人がいなくなったときにどうなるかである。そうした「研究結果」は信頼できるであろうか。もし信頼できないのだとしたら、誤った結果が更にそのうえに積み重ねられることを余儀なくされる。こうした問題は、系統樹推定、臨床実験におけるデータ解析、あるいは生物学だけでなくあらゆる自然科学・工学分野で実在するし、今後はより顕在化されることであろう。あるいは、個人の適正職業をAIが判定するといったサービスもそうである。少なくとも私は、自分の人生の決断を、(原理のよくわからない)サービスに委ねようとは思わないし、それは、サービスに搾取されにいくようなものであるとすら思う。

より一般に、複雑な問題を扱ううえで自分たちが管理できない過程が介在する場合、それは科学の営みとして問題があると言わざるを得ない。なぜなら、まさに理解の範疇を超えるからである。そのため、理解の範疇におさまるような問題設定が重要である。そのため、理論研究者はシンプルなモデルを用いるべきであるとされる。「オッカムの剃刀」と呼ばれる立場である。もちろん、シンプルなしすぎると現実を反映しないため、予測力・説明力が犠牲となる。だがモデルが複雑すぎると、人の頭では理解できない。明確なトレードオフが常にある。

私はその意味で、複雑な数値計算や複雑なシミュレーションのみで導かれた結果を、理論と位置づけることには基本的には抵抗がある。数式は再現できる。解析にもブラックボックスはない(近似はあるだろう)。つまり人の理解の範疇である。しかし計算機に委ねられた結果はどうか。理解できる結果ばかりとは限らない。なんとなく「それっぽい」図が計算機から出力されて、それに解釈を与えたとしても、その結果をどのように信頼すべきかは、状況にあまりに依存している。一般論が成立しない。あるいは幅のある結論とは限らない。

人間は、思考なくして科学できない。理論は人の思考そのものである。計算機は、補助的には役立つであろうが、人間には解けない複雑な問題を解きはしてくれても、筋道や推論過程を(必ずしも)示してはくれない。理論研究の意義は、このことを意識して初めて、理解できるものなのかもしれないと思う。

*1:シリーズ・最適化モデリングモデリング』第11章:深谷賢治 “「モデル」についての一数学者の雑感”

*2:くどいが、今の時代にはまだ