Life is Beautiful

主に進化生物学の理論のブログです。不定期更新予定。

なぜ学際研究は難しいか

私は現在、学際的な研究を目指すチームに所属しています。チームの目標は、数学という共通言語を用いて、分野を問わず科学の様々な分野の未解決問題にアプローチし、解決策を与えるというものです(ざっくり言うと)。人類が現象を理解するために用いることができる数学ツールというのは実に限られているため、一見すると関係のない現象同士が、背後の数学で深く結びついていることがあるのです。

私の研究分野は、いわゆる数理生態学・進化学です。数理モデルの役割が尊重されていて、それから得られる予測が非常に影響を持つ分野です。私は数理モデルを用いて、生態・進化現象の将来を予測したり、現在のパタンを説明したりすることが専門です。数学の研究者ではありませんが、多くは耳学であっても数学的な背景はそれなりに有しているわけです。

それでも難しい協働研究

本格的に学際的な研究推進を目指してみたものの、やはりとても難しいなと感じる日々です。理由は様々ですが、いくつか思いつくことを述べます。特に生物学についてです。

システムと専門用語

当然ながら数えきれぬほどの生物システムの生命現象と、それを表す名前がついていて、それらの概念を、限られた人間の頭で共有するのには限界があります。

追記:さらに、そうした現象自体に興味がある人と学際研究を行なうとは限らないのです。

なので、うちのチームでは、現象を説明するよりも数式だけを見せたほうが速いということが起こります。でも、その数式こそが、欲しいものだったりするわけです。

分野が違うとマーケット事情が違う

あまり人間をマーケットに乗せる考え方は好ましくないのですが、比喩だと思ってください。

分野が違うと、業績の評価基準が違います。たとえば生態学では、conference proceedingという文化がありません。また、出版のテンポは、物理学や情報工学佳と比べると遅めです(これも分野によります)。よって、被引用数は、それら分野と比べても低めです(たぶん*1)。さらに、雑誌のIF(インパクトファクター)を非常に重視します。

こうした、異なる基準で評価されうる若手研究者たちの交流からのアウトプットがいかに評価されるのかは未知です。たとえば、Journal of Theoretical Biology (JTB) というジャーナルは、理論生物学では主流のジャーナルですが、数学科や物理学科では、別の主流ジャーナルがあります(Physical Review系とか。数学はあまり知りません)。仮に数学者や物理学者と学際的な研究をスタートさせて、JTBに論文を載せたとして、私はともかく、彼ら彼女らの「業績」としては、残念ながら認められにくいということになります。

もちろん、ジャーナル名で論文の価値を判断することを肯定している意図はありません。ただ、そういう審査員もいるだろうし、こと分野外の研究者を審査するとなると、そういう基準が持ち出されることは想像に難くないという事実を想定しているだけです。

そうなると、分野を越えて誰もが知ってるジャーナルに投稿しようという動機付が、当然ながら生まれます。たとえばNature/Science/PNASなどはそうでしょう。大きな成果を目指すということです。この野心は重要ですが、限られた任期の中でいかにそうした成果を出せるかというと、リスクがあります。

大きな仕事は面白い。しかし、今の社会では時間が限られすぎているかもしれません。

研究は料理には似ている

よくある誤解だと思うのですが、厳密な数学的議論に精通された方々が、現象を知って数理モデルを構築できるとは、限らないのです。

これは、適切かは分かりませんが、「ご飯が食卓に並ぶまで」というプロセスと比べることで、解釈することが可能です。

レストランでは、ご飯を注文すると、厨房で調理がなされ、テーブルに運ばれ、口にすることができます。つまり、レストランというのは、「食べたい目標」を入力すると、「その食べたいもの」が出力される関数、と言えます。

もしも、数学者がレストランであれば、生物学者が「数理モデルで解析したい現象」を入力すると、「数理モデルの解析」が返ってくるはずです。しかし、もしそんなに単純であるなら、世の中からは、「数理生物学者」は居なくなっているでしょう。

そもそも、料理というのは、果たしてそんなに単純な過程でしょうか。料理には、テナントが要ります。食材が要ります。包丁が要ります。しかし、シェフはこれらを確保する立場には必ずしもありません。

テナントはオーナーが提供するでしょう。

食材は(根本的には)生産者の方あってこそでしょう。

そしてそれを仕入れる方が必要でしょう。

つまり、食事が食卓に並ぶまでの過程は、マルチプロセスです。それぞれのプロが、それぞれの仕事をしたうえで初めて成立するコラボレーションです。

研究もそうです。数学者をシェフとするのであれば、適した素材(現象)を仕入れる(数式にする)ことなく、シェフの調理は行われません。

客が注文→できあがり、という単純な図式に、アカデミアはなっていませんし、そもそも、「客」という立場の研究者から、協働は始まりません。料理に協働的に参加するという「主体性」が必須です。

そして、それよりも、関係の対称性はもっと大事です。どちらかがどちらかに依頼する、サービスする、というのでは明確な非対称性があります。実際は、美味しいご飯を食卓に並べるためには、包丁を持ち寄る人と、食材を持ち合わせた人の、対称的な関係があるべきと思います。

包丁捌きの優れた方がえらいのでも、食材を持つ人がえらいのでもないのです。どちらが欠けても、料理はできない。互いに相補的であるという意識です。

それでも楽しい異分野交流

私は学際研究は難しく、かつ、だからこそ楽しいと感じます。これからも模索していきますし、自身の主体性を発揮していこうと思います。

みなさんは、どうやってコミュニティを跨いだ異分野の交流を行ない、どのように成果をあげ、自身のキャリア構築に繋げていかれましたか?もしヒントがあれば教えてください。

*1:すくなくとも、被引用数は強くskewしていると思います

とある研究者の訃報を耳にして

私は分野が違うために存じ上げなかったが非常に優秀であった研究者の方が亡くなったという話を耳にしました。

 

どのような研究をされていたのかを知りたくて御名前で検索したらトップにブログがヒットしました。そこには、どのような症状があり、どのようなリハビリをされていtたのか、そして研究への熱意と苦悩が、非常に鮮明に綴られていました。

 

自分がもしも、飽く迄も仮にですが、何かの理由で社会の中で研究を続けることが困難になったとしたらどうするのだろうか、と考えると、抑えられない熱いものがこみあげてきました。私が10年近く研究を続けてこられたのは、本当に恵まれていて、幸運で、有難いことなのだと実感します。命あって、体あって、健全とは必ずしも言えないが心あって、今の自分とその研究成果、そして研究仲間がいるのだなと。

 

そして、いろんな要素の繊細なバランスの中で、人の命と社会での働き方があるのだなと、改めて感じます。

 

こう綴るうちにも、研究者としてのキャリアを築くことの困難さを感じるとともに、退官されるまで、あるいはキャリアを全うされるまで、我々若手研究者に轍を託してくださった方々に、感謝する思いが溢れてきます。

 

私は、あと何年研究を続け、私より若い方々に、良い影響を与えることができるでしょうか。長生き願望が余り無い私だったのですが、そんな贅沢なことは言えないな、毎日を後悔してもしきれぬほど、楽しく暖かく愛あり充実したものに…つまり「大切に」せねばならないなと思いました。研究が、その核の一つを占めているわけですが、「研究を大切にする」とはどういうことかについても、改めて考えるきっかけを頂きました。

 

研究を、どれだけ日常がイヤで落ち込んだ時にも、やめられない。そんなに研究を好きな自分になれたのは、これまでの自分やみなさんのお陰に他なりません。

 

最後に、心より、ご冥福をお祈りいたします。私はお会いしたことのない方ですが、考える契機を頂いたことに感謝いたします。

 

勉強したいこと、研究したいこと

勉強と研究は異なる活動です。でも勉強なくして研究はできません。「研究とは違って、勉強は創造的でない」という主張は、個人の価値観を否定し得るものであり、たとえ勉強が嫌いで苦手で祖先の仇であったとしても、行うべきではないでしょう。勉強せずに研究ができるというのは、果たして創造的な活動でしょうか?他者の価値観を否定することは創造的でしょうか?人生は研究だけなのでしょうか?

 

さて、そんな私は、情報理論という分野にドハマりしています。情報理論とは何かと言われるととても難しいのですが、集合(ものの集まり)の組成を測定するための手法である、という特徴付けは可能なように思います。いろいろ調べてみると、さまざまな数学分野にて、情報理論は役に立っているっぽいのです。…と書くとあまりにも薄っぺらいのですが、コルモゴロフ・シナイエントロピー、ツァリスエントロピー、順列エントロピーなど、さまざまなエントロピーが、所与のシステムを特徴付けるのに役立っている、というもう少しコアな話です。でも、なかなかそれを実感する機会とか、そういう研究者と交流する機会が限られていて、悩ましいものです。

 

来年は、その情報理論を友人達と勉強し、新しい研究を進めていきたいと思っています。簡単なことではありません。任期も限られているし、論文は書かねばなりません。でも、楽しく勉強することを通じて身につける素養は、研究に直結しなかったとしてもとても価値あることだと思うし、私の人生を輝かしいものにしてくれると思います。

 

学友、ともに学ぶ仲間いてこそのものですが、楽しみながら、勉強も研究も続けていきます。心身の健康を保ちながら。

 

 

 

2つの整数が互いに素である確率

ランダムに2つの正の整数をイメージしてください。$ (a,b) $としましょう。それらで分数を作ってください。$ a/b $ですね。それがもう約分できない確率はいくらでしょうか?

0.5より大きい?小さい?

答えと証明を載せます。

命題として答えるならこうです。

「ランダムに選ばれた整数2つ $ (a,b)$ が、互いに素である確率は、$ 6/\pi^{2}$(約61% )である」。

(証明) まず$ (a,b) $が互いに素であることと、分数$ a/b $が既約分数(もう約分できない)であることは同値です。

そもそも「もう約分できない」とは、どういうことでしょう。たとえば、221/26は、13で約分できます。578/68は、34で約分できます。

前者の例と後者の例の大きな違いは、13が素数で34は合成数素数ではない)であることです。「34(=2×17)で約分できる」ということは、「"2で1回約分できる"かつ"17で1回約分できる"」ですので、約分できるかどうかで重要なのは「そもそも素数で約分できない」ということなのでしょう。

「ある整数$X$が2で約分できないならば、$X$は34でも約分できない」という命題は真ですので、最初から2で割れるかどうかを調べれば、34を含むすべての偶数に関して約分できないことについては十分なのです。

同じように、3で約分できるかどうかを調べれば、6, 9, 12といった全ての3の倍数に関して約分できないことはわかります。

4で約分できるかどうかはどうでしょう?これはすでに、2で約分できるかどうかでカバー済みですので、調べる必要がありません。

これを一般化すると、ある数$X$で約分できないことを調べるためには、その数$X$の約数について約分できないことを調べれば十分ということになります。

2以上のどんな整数も、一通りに素因数分解が可能なので、結局「所与の分数が既約である、つまり所与の分数がどんな数でも約分できないことを調べるためには、どんな素数でも約分できないことを調べれば十分である」ということになります。

ということは。

$ a/b $ が既約である確率を調べるためには、 「2で約分できない」 かつ 「3で約分できない」 かつ 「5で約分できない」 かつ …

という(互いに独立な)命題を調べ、その確率を、

「2で約分できない確率 $ Q_2 $」・・・(eq2)

× 「3で約分できない確率 $ Q_{3} $」・・・(eq3)

× 「5で約分できない確率 $ Q_{5} $」・・・(eq5)

× …

素数 $ p $ で約分できない確率 $Q_{p} $」・・・(eq.$ p $)

×…

というふうに計算すればよいでしょう。

さて、まず前提として次のよく知られた補題を示しておきます。

補題1)

素数は無限個、存在する。

 (∵)有限個しか存在しないと仮定します。このとき、最も大きな素数を$ P $と書くと、この$ P $より大きい数である \begin{align} P!+1 \end{align} は、$ P $を含むそれ以下のあらゆる素数について、割り切れません(全否定)。なぜなら、2で割っても、3で割っても、5で割っても、1余りますが、 $ P$以下の全ての素数で割ろうとしたときについて、おなじことが言えるからです。$P!+1$は、$P$以下の全ての整数$k$について、$k$で割ると1余る数ですから、素数です。この結論は、$ P $が最大の素数であるという仮定に反しますので、矛盾。したがって無限に素数は存在します。■

さて、我々は、$Q:= Q_{2} \times Q_{3} \times Q_{5} \times Q_{7} \times \dots $(あらゆる素数$p$に関する$Q_{p} $の積)を知りたいのでした。 「$a/b$ が $ p $で約分できる」とは、「$a$ も $b $ も $ p $ で割り切れる」ということです。 全て正の整数を並べてみたとき、$p$の倍数は$p$ごとに現れます($p,2p,3p,\dots$)から、 $ a $ が $ p $ で割り切れる確率は$ \frac{1}{p} $ですし、これは$b$についても同様です。よって、$ a/b $が素数 $p$で約分できる確率は、 $a$も$b$も$p$で割り切れる確率ですので、$1/p^{2}$です。

したがって、$a/b$が素数$p$で約分できない確率は \begin{align} Q_p=\left( 1-\frac{1}{p^{2}} \right) \end{align} と判ります。ということは、求めるのは

\begin{align} Q:=\prod_{p: \textrm{ prime}} \left( 1-\frac{1}{p^{2}} \right) \end{align}

ですね($\prod$は積を表し、$p: \textrm{prime}$は$p$が素数(prime number)ということを示しています)。こんな積は求められるのか…と思われるかもしれませんが、次の有名な公式があります。

補題2:オイラー積、指数2の場合)

次の公式が成立する: \begin{align} \zeta (2) :=\sum_{n=1}^\infty \frac{1}{n^{2}}=\frac{1}{Q}. \end{align}

 (∵)$ \zeta(2) $の定義式の両辺を$ 1/2^{2}$倍すると、 \begin{align} \frac{1}{2^{2}}\zeta (2) =\sum_{n=1}^\infty \frac{1}{(2n)^{2}} \end{align} が成立します。右辺は、2の倍数の平方数の逆数の和ですので、これをもとの$ \zeta (2)$から引くと、2の倍数でない数(つまり奇数)の二乗の逆数の和だけが残り、

\begin{align} \left( 1-\frac{1}{2^{2}} \right) \zeta (2) =\sum_{n: \text{odd}}^\infty \frac{1}{n^{2}} \end{align}

が得られます(oddは、奇数のこと)。同じように、更にこの両辺に$ 1-\frac{1}{3^{2}}$を掛けると、 奇数のうち3の倍数でないもの(つまり2の倍数でも3の倍数でもないもの)だけが、被和項(和をとられる項)としてのこります。 更に更に、$ 1-\frac{1}{5^{2}}$をかけると、2の倍数でも3の倍数でも5の倍数でもないものだけが残り… ということが分かります*1。 これを帰納的に繰り返すことで、「どんな素数でも割り切れない$ n $」番目の項、すなわち$ n=1$の項 $=\frac{1}{1^{2}} $だけが残り、

\begin{align} \underbrace{ \left( \prod_{p: \text{prime}} \left( 1-\frac{1}{p^{2}} \right) \right) }_{=Q} \zeta (2) =\frac{1}{1^{2}}=1 \end{align}

となります。つまり$ \zeta(2)=1/Q $です。■

では、$ Q $を知るには$ \zeta(2)$を知ればよい。そのためには…

補題3:バーゼル問題)

\begin{align} \sum_{n=1}^{\infty} \frac{1}{n^{2}}=\frac{\pi^{2}}{6} \end{align}

 (∵)$ \sin{x}$のテイラー展開は \begin{align} \sin{x}=\frac{x^{1}}{1!}-\frac{x^{3}}{3!}+\frac{x^{5}}{5!}-\dots \end{align} であるが、これを$ x \neq 0 $で割ると \begin{align} \frac{\sin{x}}{x}=1-\frac{x^{2}}{3!}+\frac{x^{4}}{5!}-\dots \end{align} が得られます。左辺は、全ての正の整数$ n $に対して、$ x= +n\pi$ と $ x= - n\pi$で0になるはずなので、$ \left( 1- \frac{x^2}{(n \pi)^2} \right) $で割り切れるはずです。よって、 \begin{align} \frac{\sin{x}}{x}= \prod_{n=1} ^{+\infty} \left( 1- \frac{x^2}{(n \pi)^2} \right)
\equiv 1-\frac{x^{2}}{3!}+\frac{x^{4}}{5!}-\dots \end{align} が成立するはずです。≡の記号は、恒等式を意味しています。よって係数比較で$ x^{2}$の項を比較すると、 \begin{align} -\frac{1}{3!}=-\sum_{n=1}^{+\infty}\left(\frac{1}{n\pi}\right) ^{2} \end{align}

が取り出せるので、両辺に$-\pi^{2}$を乗ずると結局

\begin{align} \sum_{n=1}^{\infty} \frac{1}{n^{2}}=\frac{\pi^{2}}{6} \end{align}

が得られます。■

ということで、補題1〜3より、既約分数である確率は$ Q=6/\pi^{2}$であることがわかりましたね。

なお、分母が1である場合 $ a/1 $ を既約と見なすかどうかは、問題ありません。なぜなら、分母が1であるという事情が起こる確率は0だからです。が、$b>1$に対しては $ 1/b $ を既約と見なすのは自然ですから、対称性を考慮して、$ a/1 $は既約と約束するのが美しいでしょう。1から100までの$ a,b $について、既約=青、約分可能=赤でプロットした図を乗せておきます。最終的には、青の領域の割合が$ 6/\pi^{2}$(約61%)になるということですね。

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*1:本当は極限操作を行なっているので、厳密にはデリケートな扱いが要求される

中学生から始める適応進化理論2:よくある誤解

2. 自然淘汰による適応進化にまつわる よくある質問・誤解

ここで、リフレッシュのためにも、よくある誤解をいくつか取りあげてみます。

2.1「順応」は人生の一部。だが言葉は変化(進化)する

「社会に適応する」という言葉も既に確立されているので微妙かつ複雑なのですが、私は、人生の一部において、人の性質(や行動・心理)が変化することを表現するならば「順応」という言葉のほうがふさわしいと思います。 なぜなら、適応進化は、遺伝子が、親から子へ伝わって(つまり世代をまたいで)初めて起こる現象だからです。

自然淘汰は、遺伝子・個体レベルで基本的に作用します。つまり、遺伝子が、あるいは個体が、たくさん子どもを残せたかどうかが注目する点です。

そして、適応進化によって、集団の平均的な性質(たとえば首の長さ)が変化していく。つまり、集団の時間変化が注目する点です。

これが自然淘汰による適応進化の原則です。

なお同様に、医療の文脈でも「適応」という言葉が用いられることがあります。この問題はあまりに複雑なので、脚注に委ねます。 *1

ちなみに、面白いことに、「言葉」というのは、使われていくうちにエラー(突然変異)が入り、そのエラーが使われるようになって広まっていくわけで、進化プロセスそのもののわけです*2。 どんな単語にも、使用頻度の差があることで、その伝わり方に差がうまれ、「よく使われる言葉」は時間を経てよりポピュラーになることもあるし、流行りが一瞬で去ることもある。 つまり遺伝子のように、残せた子供の数ではなく、言葉や単語はその使用頻度によって、淘汰がかかる、というわけです。 時間を経て、集団の性質が変化していくシステム、つまり力学系には、常に、(生物学とはまた少し別の、しかし非常によく似た)「進化」が起こりうるのです。 ややこしいですね!

2.2 種のための進化は起こりません。

適応進化は「種」のレベルでは起こりません(なぜなら、種は、あくまでヒトが定義する概念だからです)。よって、種の存続のために自然淘汰が作用するわけではありません自然淘汰によってたくさん子どもを残せた個体からなる種が、「うまく」存続しているかのように見かけ上、観察されるだけです。進化は、遺伝子レベルと個体レベルで(少なくとも)起こります。

2.3 集団レベルで自然淘汰が作用することはあります。

自然淘汰は遺伝子、あるいはそれを持つ個体に作用する。これは何度も言いましたね。

でも実は、集団レベルで適応進化が起こる可能性もあります(複数の個体たちのあつまりを、生物学では集団あるいは個体群と言います)。 すなわち、「たくさん子どもを残せた集団が、自然淘汰によって進化する(つまり進化によって出現し、観測される)」可能性があります。

それはたとえば、自分の形質が、集団中の、同じ遺伝子を共有している(確率の高い)血縁個体の繁殖成功度にも影響する場合です。深入りはしませんが、集団レベルでの自然淘汰を、血縁淘汰と呼びます。

たとえば、タンポポの種には綿毛があります。複雑な綿毛などつけず、文字通りに根本に種を落とすと、種同士は「きょうだい」同士ですから、光や資源をめぐって、競争が起こってしまいます。きょうだいたちは同じ遺伝子を持っているので、競争すると、遺伝子(のコピー)を次世代に伝える確率が低下してしまいます。しかし種が綿毛をつけて飛ぶと、種子ひとつひとつの個体レベルでは、移動中に死んでしまったりするので、自然淘汰上は不利なのですが、血縁個体との競争から逃れるうえでは有利であるのではないか、と考えられています。*3つまり、遺伝子の観点からいえば、それが乗っている個体にとっては、生存率の低下してしまう形質であっても、遺伝子が乗っている個体たちの集まり(つまり集団)レベルでは、残せるこどもの数が増えることがあるのです。これが血縁淘汰のキモです。

2.4 適応進化以外にも、進化は起こりうる

進化の原理は、自然淘汰だけではありません。「突然変異による、遺伝子の違い」が「遺伝形質の違い」に直接関与しない、あるいは「遺伝形質の違い」が「たくさん子どもを残せるか」に関与しない、といったことも考えられるからです。このように、「中立的な」突然変異は、集団に確率的な過程を経て広まります。これを中立進化と言います(ただし、中立的な遺伝形質が集団中のすべての個体に広まるには、途方も無い時間がかかります)。中立進化の理論は、日本人の遺伝学者である木村資生博士によって考案された理論です。

より一般に、進化を起こす要因には

  • 自然淘汰
  • 突然変異
  • 遺伝的な浮動(個体数が小さいことで、確率的な変化の効果が、相対的に大きくなる)
  • 移動分散  (集団間で、個体の行き来があることで、集団の平均的な性質の観測値が変化する)

があり、どれも適応進化と中立進化にとって重要な要素です。

2.6 退化も進化の一部

退化現象は進化の一部です。たとえば、ヒトのしっぽは、退化しました。羽根のない昆虫や鳥もいます。 これらは進化現象の一部です。ややこしいのですが、遺伝的な基盤のある形質の、世代をまたいだ変化は、すべて「進化」です。 「進化」とは、ときが進んで変化した、という意味だと理解して下さい。

2.7 大事なこと:「良い」、「優れている」、は自然には存在しない。

大事なことですが、進化現象は「良し悪し」と無関係です。良し悪しは人間の頭にしか存在しない概念です。たとえば、花に「きれいな」言葉をかけても、花は育ちません(同様に、生き物ではありませんが、雪の結晶に「きれいな」言葉をかけても、結晶の形は変わりません)。「進化」は、人間による「価値判断」(良し悪し、優劣、など)の観点では、中立的な意味しか持ちません。「遺伝子が多く子どもを残せた。だからその遺伝子は広まった」という論理だけです。

進化の結果として獲得された形質を賛美や嫌悪の対象とすることは個人の自由ですが、それは科学の一部ではないのです。

同様に、適応進化を「弱肉強食の原理」と呼ぶのは、僕は不適切だと思います。例えばライオンがシマウマを捕まえて食べる現象は、「強弱」かのように目には移りますが、ライオンはシマウマのように草を食べて消化することはできません。その意味ではシマウマのほうが「優れている」と判断できなくもないですよね。また、我々は植物を栄養源にもしていますが、それでは我々は植物より優れているのでしょうか。強いのでしょうか。でも、植物がいなくなったらヒトは間違いなく絶滅してしまいます。では我々は「弱い」のでしょうか。こうした「優劣」を考え始めると、キリがありません。また、これらはすべて、主観的な形容と切り離すことが困難です。そうなるともはや「科学」ではありません。*4

したがって、人間がもっとも「優れている」とか「ピラミッドの頂上にいる」という結論も、適応進化理論からは導かれません(優れている、とは何でしょう?我々は鳥のように空を飛べません。犬のように鋭い嗅覚も持っていません。では我々は「劣っている」のでしょうか。 そもそも、優れている・劣っているとは、どういう意味でしょう?誰が決めるのでしょう?)。

以上のように、あくまで科学では、事実判断として「自然淘汰で生き残ったタイプは適応的である」と結論づけるに留めるのです。一般に、自然淘汰の概念を人間社会に持ち出して、自然淘汰を「規範」扱いすることも科学は正当化しません(「ヒュームのギロチン」*5と言います)。

たとえば、

  • “質の低い”人や集団は、“淘汰”で排除されていく;
  • よってそれは自然な帰結であるし、そうであるべき

という論理の言説を目にすることもあります。しかし社会の仕組みを(自然)淘汰の原理に任せてはいけません。人には脳があり、個人には人権があり、集団には(たとえば)民主主義制度があるのだから、自然淘汰のなすままこそ善というのは、何も考えていないのと同じです。*6 自然淘汰に似た原理が作用することがあるけども、それで困る人のためにも、みんなが頭で考えて、話し合って、みんなで問題を解決することが大切だ、と僕は考えています。

私は、咳喘息を患っています。ひょっとすると、咳喘息は遺伝するかもしれませんし、有史以前は、咳喘息を患っていた個体が、さまざまな理由で、子どもを残しにくい社会だったかもしれません。しかし人間社会には基本的人権がありますし、医療がカバーできる部分も大きいはずです。よって、咳喘息という症状を持っている私(や他の誰か)に「優劣」「強弱」という価値判断を貼ること、すなわち優生学的思想に基づく差別は、絶対に行なってはならないのです。私自身は、私自身のその性質を「劣っている」とも思いません。それは色んな人の尊厳を侵す思想でしょう。

自然淘汰が起こるという自然原理は、ヒント/参考にすることはできても、規範、すなわち社会のルールそのものには、決してできないのです。

[2020年6月20日 追記] ゆえに、政治の文脈で、自然淘汰や適応進化のことを持ち出すのは、詭弁です。

*1:適応外使用関連フォーラム(PDF注意) https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjdi/13/2/13_2_67/_pdf

*2:言葉は、集団的文化形質であると考えるのがよいでしょう

*3:もちろん、綿毛がついて飛ぶことで、空き地に侵入しやすいなどの意義もあったはずで、この血縁淘汰による説明は、あくまでも部分的なものです。

*4:むしろ、こうした自然の生態系のさまざまな相互作用のバランスがあって初めて、どの生物も生きていくことができる、という捉え方のほうが、科学的ではないかと私は思います。

*5:ヒュームのギロチンについては、lambtani.hatenablog.jp

*6:この観点を疑問に思うのであれば、以下のような問答を行ってみましょう。

  • 霊長類など多くの動物では子殺し現象が起こることがあります。それは自然淘汰で有利になった遺伝形質(行動)です。あなたは人間社会でもそうであるべきと主張しますか?
  • 動物は自然では裸です。ヒトも、生まれた時は服を着ていません。よって、あなたは服を着ずに社会生活を送るべきと主張しますか?
  • 動物は火を使って料理をしたりしません。よって鶏肉なども生で食べます。あなたは鶏肉を生で食べるべきと主張しますか?

中学生から始める適応進化理論

これから何週間かにかけて、適応進化という考え方、それにまつわる誤解、集団遺伝学初歩、そしてゲーム理論について、やや長めですが、できるだけわかりやすく解説していきます。

本エントリーは、academist社ご協力のもと開催された、下記、講演会『数理で読み解く科学の世界』のフォローアップ記事です。

lambtani.hatenablog.jp

文責はすべて私の負うところにあります。論理的に不正確な箇所や、わかりにくいところがあったら、どんどんご指摘ください。

1. 生物の適応進化の考え方

1.1 遺伝する性質が進化する原理

キリンの首は長く、タンポポには綿毛があります。図鑑を眺めてみると、どの生物も異なる姿かたちをしているし、動物園に行けば、動物たちはさまざまな行動を私達に見せてくれます。野山に足を運んでふと見渡すと、草木や動物たちは、かくも素晴らしい多様性を私達に見せてくれます。

こうしたあたりまえの事実、ないし生物現象に、目を向けることは、普段はないかも知れません。素朴な疑問として、地球上の多様な生物は、どうやってこの世に誕生し、現世まで残っているのでしょうか。

話をわかりやすくするため、シンプルに「生物」といったら目に見えるものに限るとします*1。 地球の誕生から果てしない年月が経過した現在でも、観測された生物の性質が「残っている」(あるいは、それを我々人間が、「パタン」すなわち、多様ではあってもある程度の「まとまり」*2のあるモノとして観測できる)という事実に着目してみましょう。 生物たちが生きていく中で、その生物の行動・性質が、環境的な理由で少しずつ変化していくことも勿論あります(後天的である)。 しかし多かれ少なかれ、生物の行動や性質は、祖先から遺伝子を通じて受け継がれてきたものです。 つまり、生まれてきた時点で、行動や性質がある程度は決まっている(先天的である)のです。 なので、性質や行動には、環境で決まる部分はもちろん、遺伝で決まる部分があるのです (個体の性質が、どの程度の遺伝要因で決定されているのか、を測る指標には、遺伝率 heritability という量があります)。

たとえば平均よりも長い首をもつキリンの個体に注目したとき、その子どもも、生まれたときから、別の親から生まれたこどもの平均よりも、長い首をもつ場合、首の長さの決定には、 遺伝子が関与しているだろう、と推論できます(逆に、首の長いキリンの親の首の長さを確認することで、遺伝子の関与を推理することも可能ですね)。 性質に遺伝子が関与するということを、その性質には遺伝的な基盤があると言います。 また、行動にも遺伝的な基盤がある(たとえば、ウミガメが、孵化後すぐに海へと向かってまっしぐらに進む行動には、遺伝的な基盤があると考えるのが自然でしょう)可能性も踏まえ、遺伝的な基盤を持つ行動・性質(姿かたちなどの、静的な状態)を、まとめて、遺伝形質と呼ぶことにします。*3

生物の遺伝形質に違いがあることで、どのようなことが起こるのでしょうか。たとえば、キリンの首の長さ(キリンの首の長さは遺伝形質であるとします)に違いがあると、何が起こるでしょうか。キリンの首が長いと、他の個体の首が届かないようなところに生えている枝や葉(資源)を食べることができます。首の長いキリンほど大型かつ高い所の枝や葉を食べられる生物もいませんから、そうした首の長さゆえにたくさん資源を獲得でき、さらにそのせいで生存率があがり、子どもを(ちょっとだけではあっても、他の個体に比べて)たくさん残せる可能性が高まります。ちょっと多く生まれた子どもには、首の長さを決定する遺伝子が受け継がれていますから、平均的にちょっと首が長い集団が生まれてきたことになります。

これが繰り返されると、どうなるでしょう?同じように、首の長いキリン個体たちはたくさん子どもを残せますから、 集団平均上、どんどん首が長くなるような「変化」が起こると期待されます。まとめると、

  1. キリンの首の長さは、(たくさんの)遺伝子(ここでは、「くびなが遺伝子」とよぶ)によって決まり、
  2. キリンの首の長さ次第で、獲得できる資源の量が決まり、
  3. 獲得した資源の量次第で、残せる子供の数が決まり、
  4. 多く残せた子供には、くびなが遺伝子が受け継がれ、
  5. したがって、くびなが遺伝子は結果的に、時間が経つにつれ、キリン集団で増えていき、
  6. 最終的にどのキリンも首が長い、という状態に至る。

このプロセスを、自然淘汰による進化と呼びます(適応進化、とも呼びます)。 自然淘汰の法則による、適応進化という考え方は、数え切れぬほどにいる生物が現在みられるような姿かたちをしている理由を、「たくさん子どもを残せたから」という基準に基づいて説明するための理論なのです。以下、自然淘汰の法則による進化という考え方を、適応進化理論と呼びます。

1.2 遺伝子はどこからくるのか:突然変異

しかしそもそも「首の長い遺伝子」はどこからきたのでしょう?

首の長さなどの遺伝形質が親から子に受け継がれるためには、親の遺伝子を複製(コピー)して渡す(ペースト)プロセス、 いわば「コピペ」が必要になります(親の体内にある「遺伝子という物質」そのものを受け継がせるわけではないのです)。 そのコピペの様々な段階で、ランダムな(つまり確率的な)エラーが起こることがあり、そのランダムなエラーを突然変異と呼びます。 現代生物学では、既存の遺伝子が、突然変異によって違う遺伝子になり、遺伝形質の個体差が生み出される、という考え方が概ね受け入れられています。

突然変異の効果がとても大きい場合は別ですが、首の(ちょっと)長いキリンは、首が(そこまで)長くないキリンが子どもを生んだ時に起こる、ランダムな突然変異によって現世に生まれる、と考えられます。 そして突然変異によって違いが生まれ、突然変異によって生まれた遺伝子が、首の長さを決め、たくさん子どもを残せるかどうかが、自然淘汰によって決まるということです。

1.3 適応という考え方が「生物を理解する営み」を学問たらしめた

適応進化理論はCharles Dawinによって1859年に『種の起源』で初めて提唱されて以来、生物学における人類の知見に、決定的な変革(パラダイム・シフト)をもたらしました。この理論による重要な帰結のひとつが、生きている生物の起源を理解するための営みを「科学化」したこと、そしてより哲学的に、我々人間の存在の由来を考えることも可能にしたこと、にあります(これらに限りません)。

もちろん、すべての生物を、神の作り出した所以である、と考える立場もあります。その立場をとるのは、個人の自由です。 しかし、私たち科学者には、「それでは、その神を作り出したものは何なのか」という疑問が生じ、神の神、神の神の神、を考える必要が生じ、まったく同じ推論が、永遠に終わりません (別のエントリで解説した「ホムンクルスの誤謬」と言います。ドラゴンボールに、武天老師様(亀仙人)→カリン様→神様→閻魔大王様→界王神様→大界王神様…という永遠に終わらぬ「師弟」あるいは「創造主」関係が生じるのは、この原理です)。 つまり、「創造主が生き物をかくも作り出した」という出発地点(仮定)からは、論理的に、(別の)結論を導けないのです。いっぽう、適応進化理論によって生物の性質を理解する営みには、以下に見るように、さまざまな推論が展開可能です。

1.4 いろいろな「なぜ」があっていい

さて、自然淘汰の法則は、遺伝形質の違いが残せた子供の数の多さの違いをもたらし、そして親から子に伝わる遺伝子の数の違いをもたらす(進化)という、「遺伝子のもたらす性質の有利不利」を決定する原理でした。 この仕組み(論理)は、生物の性質を観測した時に、「自然淘汰が遺伝形質の進化を引き起こした、究極的な要因は何か」についてのものです。 しかしもちろん、キリンの例だと、首の長さが一体どのような複雑な「くびなが遺伝子」によって実現しているのかを、一旦は「無視」しています *4。 このギャップはどのように埋められるのでしょうか?

適応進化によって、くびながの進化が起こったとして、その要因(首が長いことで、たくさんの餌資源を獲得できたから)を「究極要因」と呼ぶとすると、くびながに至るまでの進化的な要因は他にも、

  • 系統的な要因(キリンに近い種やその祖先も首が長いかどうか)
  • 生理的な要因(首を長くするような遺伝子がどのような転写制御機構系に関わっているか、そうやって身長の発育とともに首も長くなり骨も発達するか)
  • 発達的な要因(首を長くするような行動を後天的に行っているのかどうか)

などが考えられます(他にもあるでしょうか?)。このように多様な観点から、くびながの理由を解明することが、生物学という科学的枠組みでは、可能です。 この、究極要因も含めた、進化的要因の分類法は、「ティンバーゲンの4つのなぜ」と言われています。 こうした多角的な要因を解明することへの研究者の興味こそが、生物学の分野を多様なものにした原因のひとつです。 つまり生物学が多岐にわたる分野をもつのは、これが理由理由のひとつなのです。

私自身は、Nothing in Biology Makes Sense Except in the Light of Evolution -- 直訳すると、「生物学においては、進化を考慮してこそ、その意義がある」-- という言葉が大好きです。 私は、究極要因を常に念頭に置いて、生物学の研究を続けたいと考えています。

1.5 おことわり

うえでは、ヒューリスティックな例としてキリンを用いました。しかし、キリンの長い首の進化は「首が長いとたくさんエサを食べられた」という究極要因のみで説明できるわけではないことをお断りしたいと思います。たとえばこの動画を観ると、武器としての意義も(首が長くなった結果として)ある気がします*5

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壮絶。

*1:ウイルスは除いてもいいし含めてもいいけど、話をシンプルにするため、ここでは一旦かんがえない

*2:たとえば、哺乳類等の四肢動物には、頭・胸・腹・腰・脚があるといった事実。これらには共通性があり、「パタン」があると判断される。

*3:英語では、単にtraitと呼ぶことが多いです。しかし、例えばtraitが文化的な所以で獲得されていることもあります。その際は、遺伝と文化の違いを強調するために、genetic traitと、cultural traitと、区別して表現します。

*4:なお、生物の性質の究極要因を解明する理論は、表現型ギャンビットと呼ばれます。

*5:このように、ある一つの機能を持っていた一つの遺伝形質が、別の機能を持つようになった(つまり別の自然淘汰が作用するようになった)ことを、前適応といいます。英語ではpreadaptation。

新型コロナ時代における持続可能性:「食べて応援!」への杞憂

自粛期間にあって外出することを控えている我々の行動規範は、感染症拡大を抑制するうえでは大きな効果があります。

同時に、経済的にはダメージも当然あって、それは、政府が補償すべきだという姿勢は揺るがないのですが、ただでさえ資源の枯渇した日本にあって、生産者の方々の担う役割は計り知れません。

それだけに、いかに生産者の方々を支えるか、というのも重要な課題です。*1

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現にSNSでは、野菜・乳製品・牛肉・鶏肉・豚肉・魚介類を積極的に摂取することを促すポストも散見されます。そうです。経済を、大挙してまわさねばならない。

ひとつの心配事

上のものはすべて食べ物に関するものでした。食べ物は(多かれ少なかれ)他の生物由来です。 どんな生物をどんな形で利用するにあって、忘れてはいけない観点は、生態系の恩恵として持続可能性を保つことです。 ざっくり言うと、家畜などの動物、魚介類を、「すなわちいくら消費しても問題なく、お金さえ払えばベルトコンベア式に獲得できる食べ物」かのように見なすことはとても危険だということです。

そうした誤った信念は、必ずいつか破綻します。持続できる形で利用する。これは、利用するうえでの前提です。そのために社会ができることは、適正価格で取引すること。個人ができることは、適正価格で購入すること*2

その点で、「食べて応援」というスローガンには重大な観点が欠如しています。これはもともと、ニホンウナギの漁獲量の低下において掲げられた標語です。 冷静な解説がここに↓

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上のエントリはフェアな意見ですが、問題は、「食べて応援」は完全に、持続性の観点が欠如したものであること。乱獲浪費を招きかねない。

もっとも重要なのは適正価格で取引すること。

肉類を食べる行為には、もっと大きな、個人へのコストがともなって然るべきだし、密猟や密漁で財を成す人々の懐へのフローをいかに断ち切りつつ罰則を重くするか(これが、密猟密漁へのインセンティブをへらすことにつながる)という制度設計の観点からも議論されるべき問題です。

できれば、100年後の子孫に、「うなぎは滅びた生き物」という(将来の)史実ではなく、「うなぎは高いけど、時々は口に運べるかもね」という価値観が根付いていて欲しいものです。

*1:繰り返しますが、これは本来は政府による補償で達成されるべきことです。

*2:もちろん、高額で購入することは、個人のインセンティブとしては低いのですが、自身の消費インセンティブを低下させるという意味で、そういう個人の思想には価値があります