Life is Beautiful

主に進化生物学の理論のブログです。不定期更新予定。

研究テーマとその広がり

私は大学院に入った頃から、移動分散の進化を研究するのだと決めていたし、実際にそうした。血縁淘汰により、血縁者同士の競争が回避されるというのが、アイデアとして根本的に面白かった。

昆虫が好きだったし、まずは動物を主な対象としていた。とはいえ、生物学的には最低限の仮定しか置きたくなかったが、疫学的な要素、つまり宿主が寄生者に感染した時に移動しやすくなるかどうかを調べていた。

その後、植物の研究者と働く機会があり、その方と、自殖率の進化と移動分散の進化の両者を調べた。

さらに、疫学的な研究を始めた。疫学の進化動態だけでなく、疫学が多種の動態(群集動態)にどのような影響を与えるのか調べた。

そこからより一般に、進化と群集動態の関連を調べ始めたし、自殖する植物の血縁淘汰も研究し、さらに移動分散が性比に及ぼす影響も研究した。現在は、より普遍的なクラスのモデルにおける進化や生態を、統計力学情報理論的な観点から調べている。

こうみると、自分のやってきたことはバラバラなピースに見えて、繋がっている気がする。しかし、学生の頃には、このようなことは予期できなかった。十年前の自分がびっくりする広がり方である。

一方で、とことん突き詰めることもまた、大事である。私は、これらはスタイルの好みの違いであって、どっちが正しいということはないと思う。どっちでもいいと思う。

しかし、学生のテーマ選びにおいては、「どったでもいい」とは一概に言えない。テーマを決めて突き詰めるうちに技術が身について新しい問題に取り組みやすくなることがあれば、逆に、いろんなシステムを横断しているうちに好みが見つかって突き詰める対象ないし人生のテーマとする、ということもあるためである。

どちらが良い悪いという二元論ではない。試行錯誤のうちにスタイルは決まる節はあるし、お金のとりやすさ、面白さ、就職しやすさ、流行り廃り、重要さ、などはどれも異なる。つまり、価値観と社会次第だ。

さらに、突き詰めるとしても、広がりのあるテーマと、閉じたテーマ、どちらを対象とするかにもよるだろう。とにかく一般論はない。結びつけるのは研究者の仕事であって、アプリオリに決まっているわけではない。

こう考えてみると、テーマをいかに選ぶかと言うのは実に非自明な問題なのだが、ここからさらに、教育者として学生にテーマをいかに決めてもらうか、というのは、より複雑な問題となる。自分自身ですら試行錯誤の末のテーマ決定なのが普通であるのに、他者のそれを促すというのは、想像を絶する困難と言ってよい。

たとえば自分と同じテーマを学生が研究するというのは、やり方の一つだろう。自分のテーマについて手を動かしてくれるのはありがたいし、自分に事前準備も必要ない。経験的になんとなく見えていた望ましい結果がただちに学生の手により得られる可能性はある。

しかし、長期的にその学生にとってそれが良いことかはわからない。「先生のテーマをやってる学生」で終わってしまう可能性はあるだろう。そうなると自立は難しい。広げ方も限られるだろう。

一方で、学生が独自テーマを持つと、教員もそれなりに指導が大変だろう。研究者としてのカンも働きにくいし、計画も立てにくい。そして当の学生は、指導を通じてそれを痛感するだろう。そうなると、伸びるか伸びないか、それは一種の冒険となりうる。そしてそんな冒険は人の運命を二分化させる可能性がある。

こうした二つのやり方には正解はない。学生との関わりの中でしか判断できないし、それでいいと思う。私は、基本的には学生のテーマが先にあって、それがサイエンスとして進むのを手助けする立場でしかない。逆に言えばつまり、学生が興味を育てるきっかけを与えることは忘れてはいけないということだ。馬を水飲み場に…という諺はあるが、水飲み場があってこその、「馬に水を飲ませられらない」という結果である。

私はちなみに、自分のテーマを「させる」つもりはない。本人が好きなら自分から「盗んで」もらってよいと考えている。だが根本的にはやはり、主体的な学生とのやりとりを持ちたいと感じるし、主体的でないとしたら、私は主体的になれるように指導することを目指すだろう。まあ、それが一番難しいのではあるが、水を飲む方法を教えることは、ある意味ではヒトの性質を知る上でも興味深い過程になりそうだと感じる。

何より、自分自身が楽しく面白い研究をして、その態度を学生に示していこうと考えている。

下着を持たずにアメリカへ

2019年の夏のことである。国際学会での発表のためにプリンストンに飛んだ。非常に美しいキャンパスや、アインシュタインが住んでいた家(何の変哲もない家だった。下図)を見て回ったり、プリンストンの学生街を楽しんでいた。

f:id:lambtani:20211006195929j:plain

大学近くのホテルにチェックインし、シャワーを浴びようと思ったときだ。替えの下着(以下パンツ)がないことに気づいた。こやいかん、と買いに出ることにした。

ダウンタウンでパンツを買える店はあるだろうか?ないわけがない。しかし、どこで買える?ホテルの受付の方に尋ねることにした。

日本語ならともかく、私は英語ではかなり素を出すことができる。

Excuse me, I'm embarrassed to ask you this but I forgot to bring under-wears and so I'd like to buy ones. Where do you think I can get ones?

とかなんとか言ったと思う。すると、受付の方が、店の名前を教えてくれたので、御礼を述べて、店へと向かった。

その店は、ダウンタウンらしからぬ、それなりに「おたかそう」なお店だった。客足は少ない。入店直後から、たぶんスタッフに話しかけられるパターンであろう。しかし飛行機で疲れた身としては早くシャワーを浴びたい。さっそくパンツ物色を始めた。

するとなんと、パンツセールが行われていた神タイミングだった。そこで、無難なパンツを4着選び、会計を済ませた。だいたい80ドルくらいだったように思う(私の予算としては、これはなかなか高めである)。

会計してパンツ四着をかばんにつめ、ダウンタウンを歩くことにした。すると、ちょっと歩いたところにSafewayかWalgreensを見つけた。これらは、かなり安価に雑貨や食べ物を売っているお店である。日本でいう、コンビニ的なものだ。えっ?と思い、入店すると、パンツは売られていた。私の予算内に収まりそうなものだった。数ドルである。なんてこった、と思った。

しかし気づいたのだが、ホテルのスタッフは、回答が難しかったのではないだろうか。

アメリカのような階級社会では、客、つまりゲストに、「Walgreensで(数ドルの)パンツは売っている」と答えることは、なんだか客の「層」を「軽く」見ているような印象を与えるのかもしれない。「あなたは数ドルのパンツで十分だろう」というような。私には実際十分なのだが。つまり、聞かれた質問が非常にchallengingだったのかもしれない、と思った。

きっと、underwearsを買いたい、だけでなく、一時的に使用するとか、安めの(文字通りcheapな)underwearsを買いたい、と伝えればよかったのだろう。しかし私にはそうした機転までは回らなかった。

ちなみに購入した予算外パンツは、今でも現役である。

そしてちなみに、学会期間中に、バンケットで出されたご飯で集団食中毒があり、会期中には多くの参加者が下痢・嘔吐、ないし、講演キャンセルにいたるほどの症状に苦しめられていたとのことだ。私も食あたりを起こしたか?それは私と予算外パンツのみぞ知るところだ。さらにちなみに、参加していた学会は、Ecology and Evolution of Infectious Diseasesである。おあとがよろしいようで。

メーリングリストでの“迷惑”なメール

私が登録しているメーリングリスト(ML)において最近、ある人物が、疫学モデルに基づく感染者予測が(氏いわく)破綻したことをあげつらう内容や、果には反ワクチン内容を投稿し始めてしまいました。科学者ならこれらの医療(システム?)を疑うべきだ、という投稿もされていました。(ちなみに、文体は崩れていて、読むのは非常に困難な文章でした。他には、コロナはただの風邪、PCR検査はゴミ拾いなど)

これは非常に困った事態です。まずもちろん、私は迷惑に感じました。やめてほしい、と感じました。きっと多くの人もそうだろう、と考えました。

また、社会へ与える影響としても害悪があると考えました(以下、「悪影響」と言います)。ワクチンは、本人はもちろん、社会全体が接種を推進・推奨することで、集団免疫が達成する確率を高める効果があるからです。

いっぽうで、上の「悪影響がある」というのは、私の個人的な意見です。他の人がどう考えるかは、私は知りません。「迷惑している人がいる」のは想像できますが、「私にとって不特定の多数が受信しているML上の、多くの人が、迷惑であると感じている」かどうかは、私にはわかりません。

迷惑である、悪影響である、というのは、特定の個人が主張した意見に対して貼るラベルとしては非常に大きすぎるので、問題点を丁寧に指摘する必要があると思います。

しかし、そうしたことを指摘すると、ML上は「大荒れ」でしょう。いまはなき2ちゃんねる(私はちゃねらーでした)では、「荒らしには無視・スルーが鉄則」でした。「迷惑な」投稿をする人は、レスポンスがあると、余計に喜んで、エスカレートしてしまうことも多いからです。

さて、まいった。どうすればよいか。

「はた迷惑です」

そういうメールが連投されてしばらくした後、ある方(国外でPIをされている)が、大意ですが

  • はた迷惑なので止められた方が良い
  • こういう議論は別のところでやって[いただきたい]
  • 論文を[]発表されてからご自分のTwitterなりで宣伝して[いただきたい]

という反応投稿をされていました。一見、ストレートに意見されていてわかりやすいのですが、なぜ投稿主が、私やその他の人たち(=はた)が「迷惑」していると知っているのか、私にはとても不思議でした。

もちろん推測は可能です。しかし、「迷惑である」というのは個人の主観的感情であって、「社会にどういう影響があるのか」については何も言っていません。

さらに、これは、「立場のある、力のある者にだけ」許されるやり方です。私にはありません。あったとしても、それを行使はしなかったと思います。何故ならば、己の力を振りかざすことは、他者を容易に抑圧することが可能であるためです。

このように、一人の個人が、ML上の大多数の共通意見であるかのように「はた迷惑である(からやめろ)」と、一人の個人を嗜めることは、果たして正当でしょうか。そもそも、「社会の共通意見である」が正しいこととは限りません。それはappeal to majorityという誤謬です。 lambtani.hatenablog.jp

もとの投稿主は学位をお持ちの年輩研究者で、「科学者ならば」という立場で意見を述べられている以上、「力と立場」ではなく「科学者」として対応すべきだったのではないでしょうか。

反論するという態度をとるのであれば、たとえば反ワクチンがもたらす問題(実害)について、論ずるべきなのではないでしょうか。ただ、この内容は、私が登録しているMLの趣旨とはズレてしまいますし、レスポンスするとさらに荒れてしまうという問題に直面します。

それでも、「はた迷惑である」という論旨で弾劾することは、私には(まだ)正当には思えません。それを更につきつめて、MLからの除名依頼などは、ただちに思いつく対処でしょう。しかしそれでは、香港で言論が弾圧・統制されているという構図と、あまり変わらないのではないかと思います。社会に向けられた個人の意見を、正当な基準なく抑圧することは、将来的に大きなリスクのある態度であると私は思います。

私のやったこと

私は、もとの投稿主のスタンスをいかに否定することなく、しかし自分の立場を明確にできないか、と思案にくれました。でも宣伝したい内容がある…。

そこで、以下のような序文のメールを投稿しました。

ようやくワクチン接種の予約ができました[実名]と申します。[中略]●●を開催いたします[のでお知らせします]。

思案の末に思いついたのがこのやりかたでした。

ひょっとして、と私が考えていたのは、私に元の投稿主から、批判・攻撃が届かないかということでした。そうすれば、私は管理者にそれを報告することができるでしょう(なぜならその場合、個人が個人を攻撃しているので)。幸か不幸か、今の段階ではそうした事態には至っていません。

このやり方が「良かった」のかどうかはわかりません。迷惑だったかも知れません。正直、私にはわかりません。でも私は、個人を公に抑圧・攻撃することなく、自分の意志を明確にすることを、信念にしています*1。この信念を崩すことをしなくてよかったと今でも思っています。

追記: 「はた迷惑」という件の投稿は、MLと個人の付き合い方を考えるよいきっかけになりました。感謝申し上げます。

*1:とはいいつつ、昨今の政治にあまりに腹が立って、いろいろと言ってしまうことは多い……………………

単著論文のすすめ

論文を仲間と協力して書くのは、最も楽しい活動だと僕は思います。構造やら図の作り方やら結果の見せ方、議論の仕方をあーだこーだと議論しつつ、ウェブの投稿システムに論文を投稿したり、カバーレターやリプライをどうくみ立てるか、その苦楽を文字通り共にする時間は、生きている実感すら与えてくれます。末長く、一緒に研究を進められるパートナーがいるととても心強いし、切磋琢磨しあえるでしょう。

 

もう一つのやり方は、単著論文。一人で遂行・執筆・投稿・改訂しまうことです。一人で一から百まで全てやれる研究は少ないため、実際は、技術以上に、事情・環境的に難しいと思いますが、実は学生のうちに挑戦しやすいと思います。

 

なぜならば、ステージが上がるにつれて、「社会」と独立に研究することのほうが困難になるためです。一部ポスドクなどプロジェクトベース立場の場合には、雇い主との議論を通じて論文を書くのが望ましいでしょう。

 

フェローシップの場合も、せっかくならば、ホスト先の研究者とコラボするべきでしょうし、そもそも普通はそういう協働目的を前提にフェローシップに申請します。

 

パーマネントの助教や准教授になると、受け入れる学生との仕事がありますし、それまでの任期付き不安定な立場でなかなか進められなかった、ポスドク時代の協働研究をまとめる機会になります。

 

教授になると、大きめの研究費をとってきて、さまざまな協働研究の場を提供する立場になるでしょう。忙しくなると主著論文へのエフォートもなかなか割けなくなります。

 

つまり、ステージを積めば積むほど、社会との関わりが強くなるのです。それは素晴らしいことですが、単著論文を書くチャンスが減るということでもあります。

 

以上の理由から、学生のうちこそ単著論文を、という考え方を目指すのは、良いことだと思います。自立的に研究する自己鍛錬のチャンスです。そしてそもそも、自立あっての協働です。協働したくば自立せよ。そのくらいのメンタリティで、野心的に突き進んでも良いと私は思います。

 

 

研究に集中するための工夫

研究の時間の創り出し方

長年、いろいろと工夫をしながら研究に集中する時間を設けてきたけど、以下のエントリーでは、大事なことが明文化されていた:

penguinist-efendi.hatenablog.com

研究をする時間は限られる。特に、学生の頃のように自由に一日中研究できる(実験・解析・図作成・執筆などを全て含む)時間というのは、キャリアが上がるにつれ減少する気がする。もちろん、家庭の事情にも依存するので一概には言えない。

しかし、人事に関わることやその会議・審査、システムの運営・管理、講義・教育など、若い人(といっても僕も若手だけど)が安心して勉学・研究できる環境を作り出すための「仕事」も増えるのである*1

家庭を持っている場合であれば、育児・料理・家事・買い物などに、まとまった時間を確保する必要があるため、この研究時間減少傾向は顕著だろう。

そうなると、研究するための時間を意識的に捻出せねばならない。天が研究者に研究時間を与えることはない。

その意味で、上のエントリーの工夫は素晴らしい。ワークアワーを制限することが集中力をもたらすことは非常にイメージしやすい。僕の場合、リモートワーク化して最も大変だったのは、「理論的には一日のいつ研究してもよい」という状況に置かれてしまったことだった。いわゆるメリハリというやつがなく、ダラダラとパソコンに向かっているうちに夕方になって空腹になり、料理を開始して満足、食後にダラダラ作業、といったルーティンに陥ってしまっていた。

改めて、時間の使い方を再検討したい。机に向かう時間は大事だが、それは十分条件ではない。集中できないのであれば、その理由や原因を突き止め、解決すべきだと思う。

ただ、研究者の仕事は、固定されたワークアワーの中そのものから生み出されるのではない。一時間やれば一時間分の成果が出るのでその対価を望む、というような職務ではない。たとえば、ランダムなひらめきや人との雑談も大事である。決定論的な力と、確率的な事象。これらを、固定アワールーティンのなかにいかに組み込むかは、非自明な課題である。うまく組み合わせて、自分にとってもっとも集中しやすいスタイルを模索するとよいとおもう。

*1:あとは、査読依頼とかとかとかとか…

国外での研究生活

私は修士の頃、博士を取るまでに十報は論文を書くぞ!と息巻いていました。しかしいざ研究を始めると、新たに何か結果が導かれたり進んだりすることの方が稀で、何も生まれない日の方が大部分でした。 意欲こそ枯れぬものの、自信が日に日に衰退していきました。かたや、同期や少し上の先輩方がバリバリ成果をあげるのを見聞きしては苦しみ、さらには自分より学年の若い方もバリバリ成果をあげ始めているのを知ると絶望していました。

SNSで、そんなニュースを見るのはただただ苦痛でした。それでも、苦虫を噛み潰したような心持ちでも、「おめでとう」の言葉をかけるのです。そしてそんな心境になる自分のことこそが、醜くて嫌でたまりませんでした。

私は嫉妬深い人間です。七つの大罪、エンヴィーなのです。大罪というくらいですからしかし、人間の自然な感情であり、それが湧いてくることを否定することは難しいでしょう。 そんな厄介な自分といかに一生付き合っていくかを意思決定するのが、あくまで精神論ですが、第一歩です。

でも、鬱々とした気持ちで日々を過ごすと、研究を楽しめなくなってきてしまうのです。 研究に向き合えなくなってしまい、真理の追究*1ができなくなってしまうのです。 そしてそれによりさらに、気持ちは落ち込んでいき、研究をやめたくなるのです。正のフィードバック。悪循環。

こうして、ラボに行くモチベーションは低下します。明日から本気出す、の毎日です。生活リズムは乱れ、さらに研究は進まない。これは、深刻なステージでした。

国外逃亡

しかし私にとって色々幸運だったのは、良い友人に恵まれたこと、そして、国外で長く過ごしていたことです。

良い友人は、研究を面白がって聞いてくれるし、論文が出たらおめでとうと言ってくれます。 一緒にビールやコーヒー、ランチをとる仲間がいたことは、本当に、有り難いことでした。*2

一方、研究が進まないのに国外にいたということのメリットは、なかなか耳にしたことないものかもしれません。 国外で研究に取り組み、精神を健やかに保つ「外力」について、今回はすこしだけ書いてみます。

1. 必然的な朝型化

日本の2つ良いところを挙げると、治安の良さと食事(というインフラの)手に入れやすさです。*3

逆にいうと、国外に住むとそれらのありがたみを痛感するということですが、私にとっては、それも好転しました。

日本では、深夜までラボにいて、夜遅くにご飯を食べて、という夜型生活が可能です。真夜中に歩いててもまあそこまで怖い思いはしないし、深夜でも出来合いのご飯にもありつきやすいからです。

一方で国外だとそれができません。深夜に空いてるスーパーなぞないし、深夜に行くのは怖いし、外食すると高い。

そうなると必然的に、スーパーが開いていて人も出歩いていて安心できる時間にはラボを退室し、買い物して帰宅・料理し、朝から活動するために早く寝る、というリズムが生まれたのです。*4

2. 不調でもラボに通える

私の感覚ですが、ラボに三日も顔を出さなかった場合、すぐに話題にのぼります。みんなに心配されちゃいます。それを防ぐためにも、研究が不調でもラボに行かざるを得ません*5。第一、ラボで友達と話すのは楽しいし、社会に顔を出すことなくしたら、国外まで来ているのに勿体無いな、と感じていたのです。

私は、「とにかくラボに行く」 ってめちゃくちゃ大事だと思います。ちょっと時代は変わりましたが、「とにかくオンラインのミーティングに出る」ことは、時間を消費するのは間違い無いですが、とても重要です。人と関わることなく研究を行なうことは不可能なので、社会と関わり続けることが、研究を続けることに繋がるとすら思います。危ないのは、研究しているのに世間から切り離されたいと感じてしまうことです。研究というのは本来、研究室もふくめ社会で人々と関わり合いながら行なってこそです。ちょっと活性化エネルギーが必要かもしれませんが、とにかく習慣として、惰性として、なんでもいいからとにかくセミナーに出てみるというのは、とても重要なことです。

3. 日本との時差

時差があると、たいていのタイムゾーンの場合、相手が寝ている間に働くことが可能です。逆も然りです。即時共同作業でも無い限り、分業的に並行作業できます。 すなわち、概日リズムの非同期が、タスク分業のローテーションを可能にするのです。これには、かなり助けられました。

また、私の場合はSNSでも時差を感じたのが助かりました。嫉妬対象のニュースも遅れて目に入るからです。

まとめ

とまあ、国外環境という、今では経験しづらいことについて書いたのですが、これはリモートワークでもあてはまることが多くあるのでは無いかと感じるのです。

人との距離が遠い。

研究が進まない。

そんなときに、どうやってモチベーションを維持するのかの参考になるといいなと思います。

*1:禁忌を犯す、とかではありません

*2:ヨーロッパは、アメリカや日本と比べると、ランチの時間を長くとる傾向にある気がします。そんなリラックス時間にかわす雑談は、英語であっても、心落ち着くものです。

*3:値段も含む。ただし飲食業に携わる方の収入が高くないことは問題であふ。とはいえ、最低限の食事にかかる費用が安く済むことは助かる

*4:ちなみに、こうした国外経験から、私は料理する習慣がつき、まったく億劫でなく、楽しく思えるようになりました。

*5:ちなみに私は、夜ご飯をたくさん作り、それを翌日のお昼のためにすこし残しておき、お弁当箱にそれを詰めてラボで食べる生活をしていたので、家でお弁当箱でご飯を食べるのはなかなかの屈辱だったので、ラボに行く気持ちになった

YouTubeとの距離

先日、携帯電話のキャリア変更のために、ショップへ足を運んだときのことである。行政から義務付けられている、消費者の契約内容の確認等の説明の説明(書き間違いではない)が、動画でなされると知り、感心した。スタッフはその間に別の作業をできるし、法律で義務付けられている内容を繰り返す必要がない(たとえば「スタッフから充分な説明を受けましたか?」というのをスタッフが尋ねるなど)ので、効率的である。

いっぽうで、いち消費者として、なんとなく下に見られている気もした。たぶん、世の中の多くの人たちは動画サービスを多かれ少なかれ利用していて、馴染みのある媒体となっている。しかしその実態たるや、文字通り一文字残らず字幕や強調、そして「www」の追加などが行われている。「ここがウケるところだよ」というのを明示せねばならないのは、ギャグとしては敗北だと思うのだが、これもやはり下に見られている気がする。視聴者を、製作者の「意向の波」に埋め込んでしまっているのである。

ちなみに、視聴者の感情へ訴えかけるシステムは枚挙にいとまがない。アメリカのコントドラマで採用されている、人の笑い声もそうである。あれは機械音声である。Laugh trackと呼ばれる。 Laugh track - Wikipedia これは私の大好きな、Mr. BeanやFRIENDSなどでも採用されている。歴史的経緯は割愛するが、あれが人間の感情や反応に対して影響を持つことを想像するのは難しくない(“curious behavior”という本に、科学的な説明がある)。サブリミナル効果を利用することは禁じられてはいるが、こうした、動画を用いての「情報」伝達手法は日に日に進歩していて、動画媒体の重要性とともに相乗的に増大しているのだろう。

少しハナシがそれたが、情報は動画で伝えるのが効率良い。そういう基盤すらできつつある。 YouTubeはその意味でも今や、主要メディアの最たるものであると思う。

動画は便利だ。寝転がっていても、情報を頭にいれることができる。手軽だ。家に無線LANを走らせている、あるいはギガモンスターなら、動画を用いて色々学ぶのが効率良いし、何度も見返せる。観るなら、あるいは聴くなら、受動的姿勢でもいいから楽だ。

そして、動画を制作することで、収益をなすこともできる。YouTuberの年収は、精神衛生のためにもぐぐらないほうがよい。もちろん、彼らの活動を否定したり過小評価したりするつもりは一切ない。たゆまない努力があるのだから。でも、「俺も動画で一儲けできぬだろうか…」「俺は何をしているのか…」といった気持ちに全くならないかと言うと、そうでもない。やっぱり羨ましい。

しかし果たして、こういう社会構造は、自分にとって、あなたの大切にとって、社会にとって良いことだろうか。そうした批判的分析を放棄するまで思考を受動化させてよいものだろうか。

あるとき、YouTubeのブックマークを無意識にクリックしてしまう行動をとっている自分に気がついた。クリックは非常に能動的な行動だが、無意識にするとなるとそれはもはや受動的だ。ついついクリックしてしまう。そして観るのは、YouTuberの動画だったり、BGMだったりする。別に観たくもないのに。

あるいは、ある動画を観て衝撃を受けた。外国人が、日本のTV番組の動画を違法にアップロードしている動画を、動画内で視聴し、お笑いポイントを解説しているのである。登録者数は数万人。それでも収益はあるのだろう。だが、そんな活動で収益を得るのは、何も生み出していない動画投稿者と、ただメディアとして振る舞っているYouTubeである。衝撃的だ。違法動画に茶々をいれるだけで生計をなす。そういう活動に、私の「視聴ボタン」がインセンティブを与え、そうした活動を育てることになる。それでいいのだろうか。

自分にとっても社会にとっても、これではいけないと思った。社会の構造があまりに歪で、少なくともそれを是とする自分ではいたくない。

そこで、YouTubeをまずはブックマークから削除した。すると、人間不思議なもので、まったく観なくなった。あのYouTubeの▷ファビョコンは、かくも不思議なことに、再生意欲を刺激するのである。▷があると押したくなる。そうした深層心理があるのかもしれない。

こうしてYouTubeを観ない生活は自然に始まり、自然に続いて、自然に何も変化はない。つまりYouTube動画を視聴することは、私の生活において、全く重要でなかったのだ。これは意外で驚きだった。別に、観たい動画があるわけでもない(ただし、サッカーのシーズンが終了したタイミングであるため、ハイライト動画などを観る機会がないブレイク期間だから、という理由もある)。観てないから損した動画も、無い。もちろん、これは無知の無知である。しかし、本当に何もストレスがないのである。

そこらへんのブロガーのように、「はかどった」とか「コスパよかった」とか「QOLバク上げ」などといった、陳腐な表現は用いない。用いることができない。積極的な好影響はたしかにないからだ。あるとしたら、動画を選択する時間がなくなったことだ。

それに、自分が頭に入れる情報は、自分の意志で決めたい。自分が面白いと思うことは自分のココロで決めたい。Laugh trackなぞにツボをくすぐられるのは、私にとっては思考の放棄である。YouTubeは、便利だが、別に私を幸せにしていないと知ることができてよかったと思う。