Life is Beautiful

主に進化生物学の理論のブログです。不定期更新予定。

「笑い」の理念追究

「我々はなぜ・なにに笑うのか?」というのは、我々人間の特徴を知る有力なヒントになるかもしれません。今回は、「笑い」の中でも特に、「優越の笑い」について分析したいと思います。

笑いは大事!

私は「お笑い」全般が好きなので、漫才をよく見ます。また、地元の文化的にも友達同士でジョークを言ったり、ボケ・ツッコミの二型化があるように見えたり。ジョークを口にするという環境で生活し、芸風を獲得してきたように思います。自分がオモロイかどうかはともかくや。。

信ぴょう性と検証可能性については私はここではケアしていませんが、故・Robert Provine博士の本は有名です。10年ほど前に読んだ以下二冊の本では、「笑い」の(進化)生物学的な意義とミステリーについて解説されています。

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www.hup.harvard.edu

後者は、笑い(の伝染)だけでなく、あくびやしゃっくりの意義に関する仮説も紹介した本で、日本語にも訳されています。

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英語学習者のバイブルとも言えるHow I met Your MotherもFRIENDSも、そしてMr. Beanも、すべてlaugh trackと呼ばれる、哄笑の機械音声をプログラムに挿入しているのは有名な話です。「ここで笑え!」というポイントを明示してくれているわけですね。日本のバラエティ番組、たとえば「マツコの知らない世界」や「マツコ&有吉 かりそめ天国」という番組でも、スタッフの笑い声(と思しきもの;機械音声かどうかは知りません)が挿入されていますね。人が笑うという行為は普遍的性質であって、しかも伝染するということもあり、我々は笑いとは切っても切り離せない社会生活を送っていると言えるでしょう。

笑いの技術

しかし実際に社会で生活していて笑いを生み出すのは簡単なことではありません。正確に言えば、「面白い笑い」を生み出すのは簡単ではありません。

「面白い笑い」とはなにか?福井直秀博士は、面白い笑いの特徴は、「落ち」あるいは「すかし」にあると説いています。

sekaishisosha.jp

同書でも引用された有名な落語に、「宿屋の仇」があります。

日本橋の河内屋太郎兵衛という宿屋の前に立った一人の立派な侍、赤穂明石藩の万事世話九郎と名のる。昨日は泉州岸和田の浪花屋という宿で、巡礼やら相撲取りやら夫婦者と部屋を一緒にされ、騒がしくて一睡もできなかったので、今夜は静かな部屋を頼むといい、宿屋の伊八に銀一朱を渡す。

 伊八が侍を二階の部屋に通すと、あとから来たのが兵庫の若い三人連れ、伊勢参りの帰りというやかましい連中。伊八は連中をうっかり侍の隣の部屋に入れてしまう。

 伊勢参りを無事に済ませて気も緩んで、三人連れは風呂で大騒ぎをした後、酒、さかな、芸者をあげてのドンチャン騒ぎだ。侍が伊八を呼んで怒ると、連中は侍と聞いて芸者を帰し寝床につく。三人の頭を合わせて寝る、巴寝というやつだ。

 三人はすぐに寝床で相撲の話を始めて熱中し、起き上がって相撲を取り始める始末だ。「ハッケヨイ、ハッケヨイ、残った、残った」、ドスンバタン、痛い!、その騒がしいこと。

 侍が伊八を呼んでまた怒ると、連中は今度は力の入らない女の話、色事の話を始める。源兵衛という男が、自分は3年前、高槻藩高山彦九郎という武士の奥方と密通し、現場に現れた弟と奥方を殺し百両盗んで今だに捕まらないと言い出す。

 これを聞いたあとの二人はすっかり感心し、「源さんの色事師、色事師は源さん」なんて大声で囃し立てるからたまらない。またもや侍は伊八を呼ぶ。

 実は、自分は3年前に妻と弟を殺されて、仇を探している高槻藩高山彦九郎という者だ。隣の部屋にいる源兵衛がその仇と分かったので、今ここで仇を討つという。

 びっくりした伊八が隣の部屋に飛び込んで源兵衛にこのことを話すと、源兵衛はさっきの話は嘘で、三十石船の中で聞いた話だと白状する。

 伊八から嘘と聞いてもむろん侍は承知せず、源兵衛を一晩伊八に預け、明朝、日本橋で出会い仇ということにし源兵衛と助太刀の二人も討つといい高いびきで寝てしまう。

 床の間に縛られ、伊八たち宿の者に見張られ、一睡もできずに夜が明けた三人組、生きた心地もしない。

 一方、侍はぐっすり眠り早起きし、宿賃を払うと出立だ。伊八が仇討ちの件を問うと、

侍(大声で笑い) 「伊八許せ、あれは座興じゃ、嘘じゃ」

伊八 「嘘!? 一人でも逃がしたらあかんと、皆寝ずの番をしとりましたのに、なんであんな嘘をおつきになりましたので」

侍 「ああ申さんと、また夜通し寝かしおらんわい」

我々は初っ端から、「ああ、そんな因縁のある人の部屋の隣でドンチャン騒ぐがばかりに、3人は命を落とすことに鳴るのか…」と期待するわけですが、最後の言葉でズッコケるわけです。スカされるわけです。見事に期待を裏切られる。このやりかたは、友人や同僚と話しているときに話し上手な人がよくやるテクですね。

そうした落ちを設ける話し方には、練習が必要です。一種のプレゼンテーションとも言えるでしょう。私は落ちがない話には価値がないとまでは言わないのですが、お笑いの典型、つまり初手技術としては、身につけておいても良いのではないかと思ったりもします。

笑いの哲学

上で話した内容は、いかに「面白い笑い」を生み出すかという点で、応用的といえます。しかし、実は「面白い笑い」には、哲学的研究が多くあります。私が面白いなと思った本では、笑いには、「優越」、「不一致」、「ユーモア」というタイプがあると唱えられています。この「優越」が今回の焦点です。

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なんとトマス・ホッブスは、『リヴァイアサン』の中で、笑いについて解説していたのです。ホッブス曰く、笑いとはなにか?それは、「優越」であると。優越の笑いといえばわかりにくいが、要は、「自他の尊厳を損ねる笑い」と思えばよいと思います。そしてホッブスは手厳しくも、「優越の笑い」(つまり、人の尊厳を損ねるジョーク)に対して笑うのは小心者である、とバッサリ断罪しています。

面白い例が同書では紹介されています。それは、アリアナ・グランデさんが、民放番組の「スッキリ!」に出演したときのことでした。

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同番組の近藤春菜さんは、容姿いじりに対して「いやシュレックじゃねえよ」、「いや温水洋一じゃねえよ」とツッコむ芸風なのですが、グランデさんはそれに対してクスリともせず、「あなたはシュレックには似ていない、可愛いですよ」といったコメントをされたとのことです。この番組の視聴者の間では、このやりとりが賛否両論だったのは非常に興味深いところです(賛:グランデさんの人格の素晴らしさ; 否:いわゆる「ボケ殺し」)。私は、国際文化交流には慎重さがあるべきと考えているので、近藤春菜さんのアプローチは適切ではなかったのではないかなという立場です。

自虐的笑いの難しさ

尊厳を貶める笑いは、自己に対して向けることもできます。いわゆる「自虐ネタ」です。自虐ネタは、優越の笑いの構造を逆手にとり、自己を低め周りを上げ、その高低差で笑いをとるという芸風といえるでしょう。しかし自虐ネタが機能するためには、3つの構成要素が必要です。一つは、自虐ネタを発した者が社会から高い評価を受けていること。そしてその高い評価が、発話者を含む関係者(笑う側の人間と笑わせる側の人間)に浸透していること。そして最後の一つは、「笑って"あげる"、"優しさ"」です。   そもそも、社会から高い評価を受けているわけではない人間が自虐ネタを発したとして、それは、笑いには繋がりません。文字通り「笑えない」からです。そして高い評価が自己評価であってはいけません。自虐ネタを集団的笑いに転ずるためには、「その自虐を笑ってよい。それは、この人は本当は社会から高い評価を受けているからだ」という共通認識が、笑う側に必要です。最後に、自虐ネタを笑ってあげる態度が必要です。言い換えると、自虐ネタには、社会がそれを笑ってあげる優しさへの依拠や甘えがあるのです。

ちなみに、「自虐ネタ」が機能するための条件を満たしていない「自虐ネタ」には、次のような問題もあります。

  • 自虐ネタ内容に同意すると、相手の尊厳を傷つける。
  • 自虐ネタ内容に反論すると、相手の意見を否定する。

つまり悲観的帰結しか導けないのです。私はこのことを、自虐ネタの縮退性と(勝手に)呼んでいます。自虐ネタ Xを引数とする2つの異なる関数、「同意関数」と「反対関数」が、多かれ少なかれ類似している「否定的態度」しか値をとれないようになっているのです。つまり自虐ネタ集合は、空間としてはちょっと「潰れている」ように思われるのです。

優越の笑いの問題

こうして自虐ネタを例として考えてみると、優越の笑いの背景には、社会的通念が必要ということがよくわかります。「社会での認識や態度はA。話者のポイントはB。A>Bである。ゆえに面白い」という、社会の価値観やそのフレームからは逃れられない論理が働いているのです。私がlaugh trackの利用や、バラエティ番組の華美な強調テロップに問題があると感じるのは、そうした理由からです。番組が面白いと定義した点で笑うのは良くない。

日常的にも、誰かが誰かをけなし、それを笑う、という状況はあると思います。そのとき、笑う人もいます。でも私は、何も考えずに笑ってはいけないと思います。自分が面白いと感じた、見事だと感じたときにこそ、笑うべきであると思います。だから私は、自分にとって面白くない「優越の笑い型」ジョークにはスルーを決め込む傾向があります。もちろん、「私はどんな優越の笑い型ジョークにも笑わない」とは言えないわけですが。

極端に言えば、社会的通念を悪用した笑いには笑ってはいけませんし、「なんとなく面白いから」でも笑ってはいけないと私は思います。

優越の笑いを用いるのは、簡単ではないのです。そして、そのやりかたでは、社会の価値観から自由になれていないのです。そして笑う側をも、その社会的通念の中に閉じ込めてしまうのです。だからこそ、「優越の笑い」のイデオロギーに抗うためには、理念確立が必須だと感じるのです。そして、優越の笑いを、社会的通念をうまく利用して別の笑いに転ずる。この技術が「優越の笑い」エンドユーザーには必須なのです。

最後に

ちなみに私が、「社会的通念」をうまく利用した芸風だなあ、と最近感服した芸人は、ふかわりょう さんです。ふかわりょうさんは、競争激しいお笑い業界のなかでも、長く活躍されている方です。その理由が少しわかった動画があります。

www.youtube.com

他のネタもぜひ観ていただきたいのですが、社会で人々が認識していなかった現象をうまく抽出し、「あるあるネタ」として名前をつけているのです。これは、現象をモデリングするという技術とも似たところがあるのではないかと思います。この点は(私の好きな芸人である)有吉弘行さんもとても得意なことで、先述の「笑いの哲学」では、「不一致の笑い」の技術として解説されています。ぜひ読んでみてください!