Life is Beautiful

主に進化生物学の理論のブログです。不定期更新予定。

僕は論文が書けない

この記事は、数理生物学会ニュースレター(2021年10月)に掲載された内容を、いくつかのタイポを修正した上で、掲載したものです。

■序言

光栄なことに、日本数理生物学会から、「研究奨励賞」を授かった。その奨励賞に寄せる本稿は、研究内容を整理したり将来の展望を説く、良い機会と思える。しかしそれはしない。かわりに、賞に無縁で自信喪失的で論文をテンポよく出版できぬ、真面目だがいかに無精者だったかを、意味ある形で、おもに私より若いステージの方へ向けて、述べたい。本稿が少しでも励みになると嬉しい。

以下、私は「真面目系」という言葉を頻用するが、それはあくまで私自身のみを指す批判的な表現とする。また、以下には少しだけの見栄・自慢も含まれる。だが私が大学院生の間に自慢できることはほとんどない。

■真面目系無精者の誕生と、自立した研究者への推移

転機1:研究より勉強

私の研究活動はM1/2011年4月、九州大学大学院(当時)・巖佐庸教授の研究室への進学時に始まった。 私はまず移動分散の進化に興味を持った。特に移動分散が血縁者間競争を軽減するという、Hamilton and May[1977]の観点が面白かった。しかし解析法は複雑で、勉強が必要だった。かくも学習意欲はくすぐられ「研究より勉強!」という真面目系への一歩を踏み出した。

そこで手にとったのは、

  • D S Falconer『量的遺伝学入門』(田中嘉成・訳)
  • 粕谷英一『行動生態学入門』
  • 安田徳一『初歩からの集団遺伝学』

であった。また当時、巖佐研には森下喜弘さん、野下浩司さん、廣中謙一さんら、勉強熱心な方々がおられ、多様体論・情報幾何学微分幾何学機械学習統計力学等さまざまな勉強会を実施した。更に、もともと英語が好きなのもあり、使えそうな英語表現をノートに箇条書きにしていた。とにかくインプットを楽しんでいた。

M1の秋に、数理生物学会(於明治大学)で口頭発表した。Hamilton and May[1977]の移動分散を、条件付けられた2形質(表現型可塑性)に拡張したものである。結果は、端的に言えば二次元の形質の進化動態が中立安定。以上。生物学的に同じ機能を持つ形質群をひとつ追加しただけでは、自然選択がこれら形質の違いを「見分ける」ことができないことによる、中立性である。つまり新しい発見はない (M1の学生の成果をここまで辛辣に書くのは、あくまでも自分のことだから、である)。

この自明な結果をどうふくらませるか。そのアイデアがなかった。Hamilton and May[1977]の拡張論文の多くでは集団遺伝学・合祖理論に基づいた非常に技巧的な計算が行われていた。理解には勉強が必要だった。研究アイデア不足(目的)の問題を、勉強不足(手段)のみの問題とすり替えてしまった。真面目に勉強するが論文を出版しない“無精者”の誕生だった。*1

あたたかい環境にいたことは、私の場合、幸であり悲劇でもあった。インプットだけは豊富なので、他者の研究を批判・指摘・分析・提案することは、さもいっちょ前にできてしまった。更にはこうした「曲芸」を学会でも披露したりことで、「デキる学生」という過大評価が、直接的にも間接的にも耳に届いた。こうして私は、自分の方向性は正しいという勘違いをした。おだてられた真面目系。愚直に勉強に傾倒するも、結果の出ぬ日々が続き、研究室への足は重くなり、夜型生活へ移行して生活リズムは乱れ、飲酒量は増え、果には悩んで一日中寝ている日もあった。

こうした、自律神経の問題はおそらく、潜在的には多くの研究者が経験したことのあるものだと思う。私の場合、サッカーする友人、雑談する友人、旅行する友人といった、気晴らし仲間に本当に恵まれていた。私は医者ではないので、医療に関する助言はできないのだが、カウンセルを受けるという選択肢のハードルがさがると良いと感じる。

転機2:海外経験からの自我の芽生え

D1/2013年夏前その頃だったと思う。巖佐先生に、「論文を書き、外国へ行き、学位をとる。この限りは、 何をしても構いません」と言われた。当時の私はただ「そんなん、研究者として当たり前やんか」と思った。「わかりました、そうします」と答えたと思う。

巖佐先生から、私が学生として受けた主たる助言はこれに尽きる。博士課程に入ってから、巖佐先生に研究内容の相談をしなかった。おそらく数回は議論を試みたが、「難しい問題に取り組んでるなぁ!(ケラケラ)」という反応を受けるばかりだった。巌佐先生とは、お茶部屋で雑談をしたり、他の人のセミナーの場で雑談したりすることはあったので、もちろん巖佐先生は私への指導をおざなりにされていたわけでは無い。しらんけど。

さて、どの甲斐あってか、着想を得て、論文の執筆を開始できたのはM2の秋だった。巖佐先生は幸い、1週間以内にチェックできた所までチェックしたうえで、原稿を返送してくださった。結局、論文の投げあいは数回で済んだ。英語が好きなのは、執筆にも多少なりとも活かされ、初めての原稿にしては、英語だけはそれなりのものを書けたようには思う。別誌でのリジェクトを2回ほど経て、Theoretical Population Biologyに投稿したのは、D1の夏前だった。

同年の夏には、イギリスのヨークとロンドン、二つの学会をハシゴする20日間ほどの旅をした。自分の獲得した資金で自分ひとりで国外に渡航するのは初めてだったし、特に前者の学会は、日本人は私一人だった。しかし、Axel Rossberg博士や、Zena Hadjivasiliou博士(当時学生)といった、日本でできた知己に助けられ、当時の拙い英語でも孤立せずに親交の輪を広げられた。家族・指導教員から物理的・経済的に離れた、生の実感すら憶えた。私は日本からの研究者が多く参加するような国際学会を避ける「楽しさ」を知った。「せっかくの国際学会やし、英語で生きたい!」と思った。

だが、そんな国際的な場でできた友達に、自分の研究内容を気に入ってもらえたわけではない、という実感は、残酷なまでに味わった。論文出版経験のないRyosuke Iritaniなる学生の複雑な名前は覚えてもらえず、“I'm a PhD student with Yoh Iwasa”一言で文脈が形成されるその恩恵にあやかっていた。それを人脈の恩恵として活用できるか、あるいは屈辱を憶えるか。個人差があるだろう。私は、完全に、後者だった。

今の私なら分かるが、巖佐先生の「論文・外国・学位」の真意は、「自立せよ」だったのだ...と思う。巖佐先生は、早い段階から、論文出版のない私を研究者として認め、自立を促してくださったのだろう。論文は、指導教員の名前を言わなくても通じる実績・ネームである。外国は、指導教員から物理的に離れた研究舞台である。学位は、指導教員から巣立つ資格である。これらは研究者としての自立の構成要素だ。

私自身、件の屈辱から、“Yoh Iwasa's (student)”でいたくなかった。便利な名刺だったが、それは“私”ではない。かといってその名刺なくして、当時の私には誰も興味を持たない。自己を確立、つまり自立して、巖佐先生のもとからいち早く離れたかった。論文を自分で書き、自分の意志で生きる場所を決め、次のステップにつなげたかった。真面目系は欲張りなのだ。

同年10月にアクセプトされた初めての論文Iritani and Iwasa[2014]は、不完全な解析、図の拙さには大いなる余地がある。好意的な査読者と巖佐先生の助けがなければ、そもそも出版すら叶わなかっただろう。査読者からの

“I fully support the publication of the ms”

は、私が学生であることを考慮してのものだったと思う。*2これは、巖佐先生の力を借りた最初(...で最後...?)の論文である。なお、出版社のウェブサイトで、自身の論文が見れるようになった時の感動は今でも忘れられないが、出版社上で、Ryosuke & Yoh (accepted)というやけにフレンドリーな表示を目にし、血の気が引いていく思いは、それ以上に忘れられない。そう、私は姓と名を間違えてProofを提出していた。良い子の皆は気をつけよう。

同年10月。フランス・モンペリエ渡航し、6週間を過ごすことになった。モンペリエは、もちろん自分で決めた場所である(詳しい経緯は、JSMBのNL2017年9月第83号を読まれたい)。巖佐先生からは、「モンペリエは昔ぼくも行ったんや。野生のウマがいるんやで」と聞いていた。「え!マジスカ!!」と心躍らせつつ、旅に出た。

だが当時は乗り継ぎのある飛行機旅程の予約法すらも知らず、乗り継ぎのある複数の国際便を別々に予約してしまった。するとパリ・シャルル・ド・ゴール空港での乗り継ぎの間に荷物を拾う必要が生じ、そのせいで乗り継ぐべき飛行機に乗り遅れた。もはや、急いで走って滑り込もうなる気力すら沸かない。打った瞬間にホームランを確信したバッターの気分はこれか、よし、気分転換に晩飯だ!と、空港のレストランに入り、ステーキを注文すると、出てきたのはステーキ・タルタル。これはユッケ、いわば生肉ステーキである。状況は完全にMr. Bean(Restaurant episode参照)である。衝撃的で全く味がしなかった。

そんなホームランの結果、一便ズラして乗継便に搭乗し、モンペリエ市街の駅で、深夜を迎えた。そのせいで、宿泊先のAirBnBのホストがすでに就寝しており、締め出されてしまった。人生初の野宿ははじめて降り立つ地、モンペリエ駅。輝かしい野宿デビューである。しかもモンペリエを常夏の楽園と勘違いし、半袖しか持ってきていなかった。夜間の冷え込みはひどい。首にタオルを巻いてがたがた震えながら、盗まれまいとキャリーケースを抱いて駅で寝た。巖佐先生を頼っていれば、こんなことはなかっただろう。自立の一歩としては散々だった。ちなみに本稿掲載までに、本件を巌佐先生に報告したことはない。野生のウマ?見つけたらチタタプしてユッケにして食べたわ!

悪夢の一晩は無事に明け、心機一転、初めての国外生活を迎えた。よく言う「フランスでは英語は使わない」なる冗談は、そういう印象を抱く方が多くても仕方ない、という程度には当たっていた。街中やルームメイトはもちろん、研究所(CEFE)でも公用語はフランス語だ。英語で接してくれる方にも、拙い英語でしか返せない自分自身が悔しかった。しかし、人々と主体的に繋がっていく実感をおぼえた。滞在中には招待をうけ3つの研究グループで発表をさせてもらったし、分野が遠い人と知り合っていくのは楽しかった。とにかく、自由だった。また、英語を話さないスーパーやレストランの店員や、ときにはまわりの客までもが、一生懸命に英語を使って私と意思疎通しようとしてくれる優しさには、感涙をワインとともに飲み、バゲットやチーズを口に運んだ。結果、フランスに馴染む努力の一環、そしてフランス語圏を将来の居住地の可能性として高めるべく、フランス語と英語を学ぼうと決めた。美食に魅了された節は否めない。

D1/2013年の11月末。国外で刺激をたっぷり浴びた身のままに帰国した。そこから執筆開始し、12月に投稿した論文 Iritani [2015]は、修士二年の冬休みに学んだ凸解析(Kuhn-Tuckerの定理)を用いて、Iritani and Iwasa[2014]を拡張したもので、巖佐先生には解析内容も原稿も見せていない、単著論文である(解析には、実は、非常に大いなる余地がある...)。当時の私は「どんな些細な結果も論文にする」と息巻いていて、真面目系がちょっと研究者らしくなったのだろう。

しかし、同論文は投稿から査読にまわるまで(査読が完了するまで、ではない)10ヶ月かかり、更にはハンドリングエディタ(HE)が途中で降りてしまうという事件に見舞われた。これを主エディター(CE)であるSergei Petrovskii博士に申し出ると、丁寧にハンドリングしてくださって、査読・改訂後、すんなりアクセプトされた。*3査読にまわってからは一ヶ月半程度だったと思う。それまでの10ヶ月の損失は、博士課程の学生にはあまりにも大きい痛手であった。掲載は、投稿からは実に一年以上が経過したD2の12月だった。巖佐先生にメールで出版報告したところ、「おめでとう。これからもがんばってください」というシンプルな言葉を頂いた。自立に一歩近づいた気がした。

時は前後、D1/2014年1月に、モンペリエに再渡航した。研究の発展には相変わらず苦労した。たくさんの協働研究に取り組むぞ!と息巻いていたが、多くは空振りに終わった。Pierre-Olivier Cheptou博士からのサポートで執筆した論文Iritani & Cheptou[2017]は、植物の種子散布と繁殖様式(自殖率)の適応動態モデルを解析した成果である。投稿までには時間はかかったが、なんとか憧れだったジャーナル、Evolution誌にまず投稿した。結果は再投稿可のエディターリジェクト。コメントに沿って改訂して再投稿したが、別のエディターにハンドルされてエディターリジェクト。これで3ヶ月ロスト。

次にAmerican Naturalist(AmNat)誌に投稿した。しかし「似た原稿が投稿されており、査読に回すかの判断を保留する」という、今思うと投稿を取りやめるに値する理由で、査読にまわるまで3ヶ月かかった。 査読にまわってから2ヶ月後、つまり投稿から5ヶ月後、二人の査読者からの非常に好意的なレポートを受けとった。

査読者1: “This is an ambitious model, and I commend the authors for tackling such a challenging question”(意訳:野心的なモデルであり、こんなに挑戦的な問題に取り組んだ著者たちを讃える) 査読者2: “In conclusion, I like this theoretical excursion a lot”(意訳:結論、私はこの理論遊覧をとても気に入った).

..なんとも恐れ多い!こんなに褒められたことないわ!

だがHEは非常に不満だったらしく、

“I was not as enthusiastic about the manuscript as the reviewers”(意訳:私は査読者たちほどには感心していない)..

…そしてHE自身から50はあろうかという、客観的にも過度に辛辣なコメントが添えられていた。判定は「再投稿可リジェクト」。イケそうだ。D3の冬、学位公聴会の直前のことであったと思う。数ヶ月後、学位公聴会も終え、コメント通りに改訂し英文校閲にも出し、同誌に再投稿した。あとはエディターと意思疎通とりながら原稿を改訂していけばよいという自信があった。しかし、原稿はなぜか別のエディターにまわされ、査読にまわることなく、エディターリジェクトされた。

エディターリジェクトの理由は、「数学的な解析XXが複雑で多すぎる」第一回目の投稿時にHEから「数理解析XXがされていない」と言われたから追加したのに、である。要求に答えた結果としてそれが原因でリジェクトされたことで、ジャーナルへの信頼そのものが地に落ちた。初めて投稿してから10ヶ月目。ポスドク一年生になった春のことであった。このときの私は、出版した論文が2報だった。*4

博士課程で一番胸を張れるのが、理論の勉強と語学(英語・フランス語)の上達だった。そんな博士だった。かたや、学年こそ一つ下の山口諒さんが、巖佐先生と頻繁に議論しながらテンポよく論文を出版されていた。自分が、心の底から不甲斐なかった*5。学位を取ってから、巖佐先生にメールで「もっと論文を書かないといけません」という叱咤を頂戴した。当然だった。

一つ余談かつ問題提起をしたい。先程の、ジャーナルでの原稿の取り扱いについてである。私は、(1)「リジェクト〜。はい、別誌に投稿よろしくどうぞね」とは言わずに、「再投稿したら検討するかも」と再投稿インセンティブを与え、(2)出版時に公開される「初投稿」の日付を後ろ倒しにする*6ことであたかもジャーナルでの原稿のハンドリングが迅速かのように見せかける、という二重の搾取システムに、まったく賛同しない。再投稿へのインセンティブは、ポジティブに捉えればチャンスだが、私の例のように、別のエディター、別の査読者に原稿を回される*7というのでは、別のジャーナルに投稿するのとほとんど変わらない。「科学的正当性に対する判断」という大義名分には反論の余地はないが、学生著者の限られた時間の重要性を過小評価したシステムには道義的問題があるとすら感じる。こうした理由で、Evolution誌やAmNat誌には主著論文を投稿していないし今後もしない(選択肢を減らしても特に困っていない)。共著者としてもこれらの事実は主著者に正直に伝える。もちろん、投稿先を決定するのは主著者の自由判断である。

それと同時に、営利団体ではなく学会などの学術団体の運営するジャーナルに積極的に投稿し、それら団体を間接的にサポートするようにしている。これまで掲載されたものは

  • Evolution LettersやJournal of Evolutionary Biology(ともにヨーロッパ進化学会)
  • Journal of Ecology(英国生態学会
  • Ecology and Evolution(それらの協同運営)
  • Ecology Letters(フランス国立科学研究センター)

などが中心なのはそうした事情も背景にある。AmNatやEvolutionもまた、学会の運営するジャーナルであることから、投稿しないという意思決定については口惜しい気持ちはある。しかし、ジャーナルとの付き合い方も自分で決めたいと思うのである。もちろん、三者三様の経験や好みがあるであろう。あくまで、例として捉えていただきたい。あるいは、投稿経験のある仲間同士で標的ジャーナルを俎上にあげてみると、悲喜こもごも、様々な感想を共有してもらえるだろう。私はアメリカではこうしたトピックについての英会話も楽しんだ。In vino veritas – 英語雑談テーマとしてもおすすめである。

転機3:泳げぬまま大海へ“歩む”決意とその過程

また時は前後しD2/2014年の冬からD3/2015年の夏にかけて、スイスのローザンヌ渡航した。Laurent Lehmann研究室で、包括適応度理論の実践的手法について学ぶためだ。そしてフランス語だけでなく英語も公用語である国に住みたかった。この場に及んでなお、勉強とは呆れたものであるが、これほどまでに朝から晩まで、研究で用いる手法について手を動かし論文の計算を復元するという徹底的な訓練に集中できた時期はない。文字通り、滞在期間中ずっと、とにかく計算をしていた。そして電車に乗る間はずっと、フランス語を勉強していた。

2015年8月にそのローザンヌで開催された、ヨーロッパ進化学会にも参加した。そのときにはフランス語も少しは話せるようになっていた(飲み仲間からの、“I'm impressed with your French.”は私の小さな矜持となった)。ので、日本人研究者をパブやレストランにガイドしたりもしていた。さらに、それまで参加した国際学会や、モンペリエで知り合った方々と再会したり、果には知り合い同士をつないだりするのが、心の底から楽しかった。自分自身が、主体的に、ネットワークの中に実在し、ネットワークを提供している気がした。

自己紹介には、巖佐先生の名はもう要らなかった。大げさでなく私は、飲み会のヒーローだった(もちろん、研究のヒーローではない)。というのも、日本から持ってきた日本酒やお茶っ葉を、学会で知り合った人に振る舞い配るという“水商売”を行なっていたのである。懇親会の開催されていたキャンパスの小さなベンチコーナーで気分よく酔歩していた私は、仲よさげに話している2人の研究者のグラスに日本酒を注いだ。中洲川端の日本酒バー店長もびっくりする気前の良さである。ついでに、進んでないくせに研究の話もした。自己紹介すらしていない。私は酔うと、英語でも饒舌になる。そのお二人とは、やたらと話が噛み合う。「んお?あんさんら、何者や?」...と、名前を尋ねてびっくり、私の専門の包括適応度理論研究の世界的リーダー、Stuart (Stu) WestさんとTroy Dayさんだった(Stuとは後々、一緒に論文も書いた: Iritani et al. [2021], Abe et al.[2021])。研究者の自立の方向性としては疑問符こそ残るものの、そうした水商売の中でできた紐帯は強く、StuもTroyも、翌日以降の学会で出くわすたびに、いろんな人を紹介してくれた。

水商売を果たした学会も無事に明けて帰国してからは、申請していた学振PDにも海外学振にも不採用だったことや、外国での自立活動があまりに楽しかったこと、そして電子応募の手軽さから、国外ポスドクに応募し始めた。ちなみにこの頃には精神的なストレスも大きく、学位を取る半年後には無職であることを想像し、家庭教師のトライの求人募集を調べる傍ら、10年後にもこの状況が続いて両親や兄姉に見捨てられた挙げ句に橋の下で生活を送ることになったりするのではないか、などの想像を逞しくしていた。

就活は実際、なかなかうまくいかなかった。思い切ってTroyにメールを送った。すると、研究費で雇えるかも知れないと言われた。だが、奇遇にも、Mike Boots博士から、Exeter大学の研究員としてUC Berkeleyで働く機会を頂いた。2016年1月のことだった。Troyに事情を説明すると、世界的に大きな大学であるUC Berkeleyに行けと言われた。UC Berkeleyで働くことが決まった。学会でTroyと会うと、いつもこの話をする。周りの人に「Ryoは僕のところに来てくれなかったんだよ~」と、バーでの笑い話にして頂いている。

しかし当時の私は、大海の先の地平線ばかり見ていて、泳ぎ方を知らなかったし、ずぶずぶと深みへ歩みを進めていた。自己のことだからこそ辛辣な言い方をすれば、泳ぎ方を自分が知らないことすら知らなかったと思う。外国に数年住むとなると、溺れて沈んでしまえば、取り返しがつかないかもしれない。

転機4:浮遊・連動・呼吸

泳げぬ自覚すらない私だったが、私の研究者人生を決定的に影響を与えたであろう助言をご紹介する。

一つ目は「作図の高品質化と自動化」である。私の作図は雑だった。グラフを出力し、ラベルをちまちま変えたり、更新するたびに貼り直したりするのが苦痛だった。そして図より数式のほうが重要だと思っていた。しかし私はそれまでの論文にあるような、雑で手作業更新の多い図作成方針をやめた。研究のコンセプト図を作ること、見やすいグラフの作成を学んだ。見栄えの印象は重要であるという人間の特性を受け入れた。これは、科研費の申請書や、発表スライドのデザインでも然りである。そしてそれらをより効率的に行うべく、Matheamticaファイルひとつでラベル・配色・フォント・サイズが見やすく調節されたグラフのPDFファイルを指定ディレクトリに出力させる、というセミ自動化を学んだ。これらを組み合わせた、プレゼン・マテリアルの質には、相当の自信がついた。真面目系は、ラクするためなら不惜の努力をする。

二つ目。これは立木佑弥さんからの助言で、「研究には、“いつ終わるか”ではなく“いつ止めるか”しかない」というものである。プレゼン準備・図作成・申請書・論文・解析、どれも「終わり」はない。止めた時が終わる時だ。特に数理解析は、いくら真面目にやっても不満な点があるので、自己満足との戦いだ。あらゆる研究過程で、やめる決断が必要であると思う(勿論、現在の私にとって、学生時代の粘り強い挑戦は、間違いなく貴重な経験だ)。さもないと終わらない。主体的に終わらせる。

三つ目に、より技術的な側面であるが、AndyGard-ner博士からの助言を紹介する。それは「生物学的な式変形をすること、生物学的な解釈を必ず与えること」である。数理生物学において、Mathematicaなどの数式計算ソフトにはまだできないことがある。それは、導出された数式に、生物学的な解釈を与えることである。たとえば、移動分散率をdとすると、1-dは移動しない確率である。Mathematicaではこれを降べきの順に-d+1と表示させる(もちろん、並び替えるための関数は存在するが)。さらにたとえば、同じパッチ由来の個体との競争(局所競争)を回避できる確率1-(1-d)^{{2}}という量が、無限島モデルに基づいた包括適応度理論では頻繁に現れるが、Mathe-maticaはこれを展開し、2d-d^{2} と表示してしまう。これは、確率dで分散したら局所競争を確率1で回避でき、1-dで分散しなかった場合は、割合dだけいる移入個体と競争すれば局所競争を経験しない、ということでd\cdot 1+ (1-d) \cdot d =d(2-d) だ。複雑な量になればなるほど、無機質な操作だけでは生物学的な意味が不透明になることは想像に難くないだろう。これが起こる要因は、解析(たとえば微分)によって意味のあるパーツがバラバラになることが多いためである。

もちろん、解釈を与えるといっても、それは、「こじつけ」ではない。手元にある数式を、仮に「親式」とする。親式を微積分・方程式を解くなどの解析的な「操作」によって得られる式を「子孫式」とし、その操作が非自明な場合を考える(たとえば、常にゼロを返すような操作は、自明である)。すると、親式が持っていた情報は、子孫式に「遺伝」(継承)される。遺伝されたその情報は、乖離(上の例でいうと2d-d^{{2}})・融合(d(2-d))することもあるが、いずれにせよ、いかにそれらを明確に統合・分解するかという過程には、研究者による解釈が必然的に介在する。これらは、計算機による決定論的・確率的シミュレーションだけでは困難であることも多いため、数理解析の大きな意義と言える。私はこの、生物学的な意味の提示を目指した系統的な数理解析に、相当の自信を持っている。その矜持には、現在所属している数理創造プログラムの研究員としての活動も大きな助けとなっているが、学生の頃に我武者羅に勉強していたために数学へのハードルが無いというのも大きい。学生の頃の勉強は無駄でなかったと今では確信している。

上の三要素はあくまで私個人のケースだが、私自身に欠けている技能であることとして具体的に意識・習得したのが肝である。泳ぐためには手足で水を掻き、思考・感覚で全身を律動させ、タイミングよく息継ぎして前へ進む、という総合的律動が必要である。同じく研究でも、問題点・目的・解決方策と実践という具体的なアプローチが必須である。研究の“才能”とか“素質”とか“◯◯力”ではない。研究のスキル・問題点・課題などは、あらゆる原因が具体的である。あるいは、具体化する必要がある。そうすると自分では解決できない要因も認知できて、社会問題として共有できる(たとえば博士課程の経済支援問題などはそうであろう)。

たとえば、仮に「論文執筆力」という力が存在するとする。あるいは「論文執筆力を身に着けろ」という助言を賜ったとする。その力とは、一体、何か?そもそも論文を執筆するとは、論理的に文章の構成、丁寧な図の作成、英語の文法の知識、文章の簡潔化、結果の見せ方、書くモチベーション、身体的な体力、思考を集中させるための休憩、長期的にそれを継続・実行するだけの充分な睡眠、研究しない時間を作って休憩、等など、数え切れぬほどに多次元なスキルや習慣の総体である。執筆力という一次元に射影されて情報量が少なくなった曖昧な概念としてではなく、自身の研究に必要な技能を照らし合わせ、それを具体的に課題として明確に意識し、質問・勉強・訓練・技能習得できないだろうか。それが難しいなら、その弱点を補う方法を考え、実践できないだろうか。 「水泳力を身につけるのだ」という決意を胸に、ただ手足をバタバタさせて沈みゆくだけでは前に進めない。人はそれを「溺れる」と呼ぶ。世間の言う「○○力」にも、全く同じ論理が適用できると感じる。分析して具体化すべきだと思う。

転機5:「自立あっての協働」を知った

学生の頃は、単独研究はしていても協働研究がうまくいかないことから、自分の能力を疑い続けていた。だがそもそも、自立あっての協働なのだ。たとえば泳げない二人が手をつないで泳ぐのは困難だし、陸上から海でバタバタしている人を引き上げるのは、協働研究という観点からは困難である。モンペリエでの協働研究の試みの多くが空振りに終わったのは、私が自立に程遠かったからだ。もちろん、学生の頃から協働研究を主導した方々は素晴らしいと思う。しかしそれが学生時代にできなかったとして、何も自己批判する必要はないし、ごく普通のことであると思う。

■僅かばかりのフィードバック

以上のことからわかるように、私は本当に恵まれていて、極めて幸運だった。もちろん、私は他者の実績に「幸運だ」という評価をあてはしない。しかし私の場合はどう判断しても、幸運という首の皮一枚でつながったギリギリ状態だった。幸運を引き寄せられたのは、自身の主体性、自己の確立、自立への強い飢餓があったからかもしれない。人と積極的に関わること、そのために英語・フランス語を学び使用すること、結果が出ないのに学会に出て発表だけはする*8こと、そして何より、自分で論文を書くこと、自分の生き先を自分で決めること。自立への徹底的な執着心があった。

私のマインドセットあるいはモットーに、「ネットワークよりフットワーク」がある。ネットワークは、社会に既存のものであり、環境(アカデミア)に備わったものであると言える。しかし、フットワークは様々な手で、主体的に身につけられる。私は、ネットワーキングは多かれ少なかれ個人が集団に調和して埋め込まれる受動的な過程なのに対して、フットワーキングは個人の主体的な行為であるように思う。Yoh Iwasa's studentのままでいたら、ネットワークの中でちやほやされて、いい気分になれただろう。だが泥沼ズブズブの自分を掬い取り、陸へ立つことを目指すには、自分の手足を動かすしかなかった。

学生の頃、論文が出ないのはとても苦しかった。他者への嫉妬は積もるばかりだった。あるいは、執筆しても論文投稿後の不運に見舞われた。未来の不確実性に備えることはできないが、過去から学べることは多いはずだ。私は研究者のサクセスストーリーだけでなく、分析的な苦悩ストーリーも若者にとっては参考になるだろうと考えた。本稿はそれゆえ、羞恥に満ちた内容になった。私よりも若いステージにある方には、他者との比較や競争意識よりも、自立と協働の両立へ向けて、自信を持って研究を楽しんで欲しいと感じる。研究者としての道を選ばないとしても、研究で培ったスキルや経験は社会のどこでも貴重だし、研究をやめるという意思決定は、敗北や恥ではなく、新しい段階への輝かしいステップだ。若手にとって助けとなる激励を、私自身が今後の活動を通じて、幅広い人達に及ぼしていきたいと考えている。最後に、モットーを要約する。人生は一度きりな ので、教訓とまでは言えないが、皆さんがどう考えるかは、ぜひ、知りたい。

  • 論文を書く。書けないなら理由を解明・対策する。
  • 分析する。本質的な情報を落とした過度な射影をしない。
  • 解析・プレゼンの質にこだわる。マテリアルの効率的な自動化を検討する。
  • 人と話す。学会とセミナーへ出る。質問をする。英語を使う。
  • 何事も主体的に終わらせる。
  • 自立する。自立するとは何か、そのために何をすべきかを検討・実践する。
  • ジャーナルとの付き合い方を主体的に決める。
  • 受動ネットワークより能動フットワーク。
  • 自立あっての協働。
  • 楽しむ。

*1:この点については、巖佐先生が、私に明確な助言をくださっていたことは断っておく:「あまり勉強しすぎると、アイデアが凝り固まって、自由な発想ができなくなってしまう」。私は「僕の苦労は天才にはわからへんのやろな」等と、なんとも失礼な解釈をした。

*2:この経験から、私も若手研究者の論文を査読する時には、華美でなくとも称賛の言葉を含めるようにしている。

*3:降りてしまった HE とは 2019 年の国際学会で再会して話をし、和解に至った。

*4:結果として同論文は、Journal of Evolutionary Biologyに掲載され、Stearns Prizeの学生論文賞の最終候補にまで残った(受賞は逃した)。しかも、AmNatに投稿したときには見落としていた、同論文のベースになっていた先行研究での計算ミスを発見し、真面目系らしく論文中で指摘するという結果にも繋がった。AmNatに掲載されていたら、私たちの論文にも同じミスが系統的に残っていただろう。

*5:もちろん山口さんも勉強はされていた。バランス良く研究と両立されていたのだ。私にとっては見習うべきロールモデルの一人である。

*6:そうすると、真の初投稿は記録にカウントされない。

*7:Evolution誌にはこのあとも一度投稿したことがあるが、またこれが起こった。

*8:だが学会中は陰鬱で、素晴らしい研究者の受賞講演は欠席して海を見ているなどもあった