Life is Beautiful

主に進化生物学の理論のブログです。不定期更新予定。

インパクトファクターは科学者の業績を[必ずしも]測らない

語り尽くされた話題かもしれませんが。

科学における論文出版は研究者にとっても最も重要かつ楽しいものだと思います。その出版論文リストは時として「業績」と呼ばれます。その業績に基づいて、科学者はその「運命」が決まります。いわば就職しやすいかどうか、大きな研究費獲得は、その業績に大きく依存することは疑いようがありません。それはフェアなことだと思います。うん、疑う余地もありませんね?

そもそも業績とは

業績とは成し遂げたことです。つまり科学者科学者として何をしたかを表すのが業績。でも論文って(あるいは学会発表ってのは)、何かを世間に公表するための手段ですから、何を成し遂げたかを説明したことにはならないはずです。

そうではなく、どういう研究をして、どのように、何を解明したのか、が業績です。

ユートピアでしょうか。いや、そんなことはないはずです。論文を出版したことではなく、論文の中身が業績です。

評価の指標:インパクトファクター

業績は他者に評価される運命にあります。それは当然だし、それでもって採用の可否が決まるのは、いまの社会では当然のこと(正確には、当然として受け入れられていること)です。

たとえば我々が人事職に就いていて、“優秀な人材”を採用したかったら、業績を評価する。そりゃそうです。

でも、その人材の候補者がたくさんいて、そのなかから採用者を選ばねばならない場合、彼ら彼女らの業績を、相対評価せねばなりません。その場合、候補者全員の論文をひとつひとつ読むかと言われると、そんな時間はないでしょう。

また、「論文」とひとくちに言っても、たくさんの種類の論文が数多のジャーナルに掲載されています。漫画でいうと、ジャンプ、マガジン、サンデーのようなものです。Nature, Science, Cell, Lancet, などの“Top Journal”から、専門ジャーナルや、ハゲタカジャーナルなど、“玉石混交”多種多様です。

ということで、一部の科学業界では、ジャーナルの「科学的貢献」を測る指標として、インパクトファクター(IF)というのが導入されています。

正確な定義は他に譲りますが、端的に言えば、そのジャーナルに前年と前々年の二年間掲載された論文一本あたり、本年に何回(のべ)引用されたかを測っています。

たとえば、2010年/11年の二年で100本の論文を掲載したジャーナルが、2012年に合計400回引用されたら、2012年のIFは400/100=4.0ということになります。

ジャーナルのIFが高いということは、平均的に見て、過去の二年間、研究界隈で「話題に」なって、他の論文でも取りざたされた論文が多いということであり、ジャーナルが科学的議論の発展に貢献していると判断されます。

そういうことで、直感的には、IF=15.0のジャーナルに論文が載った!と聞くと、ああすげえな、という気分にはなるかもしれません。

この直感が問題。

IFは論文の指標ではない

IFは、ジャーナルの指標であって、論文の指標ではないので、昨日掲載されたあなたのわたしの論文は、IFとは無関係です。 IFはいわば、他者が*1そのジャーナルに出版した論文の被引用回数を示すものです。

IFは過去の指標

さらに、IFは、二年遡った過去の論文が引用された回数によって社会へのインパクトを測っている。掲載されたホヤホヤの論文たち(だけ)ではないのです。

「なので“IF=15.0”のジャーナルに論文が掲載されました!」という公表は、ジャーナル(における過去の論文たちがどれだけ引用されたか)という威を借る狐ということだし、過去の論文の引用された回数の平均を述べているという、自身とは関係ないことを宣言しているに過ぎません。そういう態度は、科学者として、すこーし不誠実、かも?

IFは査読の公正さ・厳密さとは関係ない

さらには、IFはジャーナルの指標ではあっても、査読の厳密さの指標でもありません。もし査読の厳密さを論ずるなら、すべての査読コメント・リプライを公開すべきです。査読は採用の可否に多大なる影響を及ぼすのは事実ですが、これまで40回以上の査読に携わった身としては、査読よりもエディター(査読者と著者のやりとりを媒介する、“中立的な”立場の人;もちろんジャーナル関係者)のほうが重要だと考えます。査読者がジャーナルのカラーや方向性・スコープに与する側面は限られているので、それは自然なことでしょう。

IFは足せないので加算平均がとれない

IF合計値を気にする研究者がいるという話はよく見聞きします。しかし、次のような問題を考えてみましょう。

太郎くんは、動く点Pよろしく、地点AからBまで、3kmの旅をしました。行きには1時間かかりました(つまり平均時速は3km/hでした)。帰りは30分でした(よって平均時速は6km/hでした)。さて、平均時速はいくらでしょう?

 (3+6)/2 = 4.5と答えたくなるのが人情ですが、実際は、 3×2 =6kmの距離を、 1+0.5=1.5時間かけて旅したので、 6/1.5=4ということになります。小学校でやりましたね。これは、大学以降で習う、調和平均というものです。

このことから、割り算された値には注意が必要なのは自然なことです。

IFも定義からして、ジャーナルごとに、掲載された論文一本あたりの引用数から算出されているので、足しても意味がありません。よって加算平均をとることは意味がなくて、もしやるならせめて調和平均をとらないといけません。

もちろんそもそも、先述の通り、IFは「いまの・その論文」の重要性を測ることはしませんから、業績の評価に用いること自体が論理的におかしいですけど。

研究人口に大きく依存する

引用されるためには、論文で言及されることが必要(かつ十分)で、論文を書くためには人が必要です。よって、単純計算からも分かるように、研究人口が多い分野ではIFが高くなる傾向にあります。

年変動する

IFは一年ごとに更新されますので、年変動します。しかも主に他者の研究の影響を受けて。

人事では用いられている悲惨さ

自身の身を案じていることから多くは言いませんが、「インパクトファクター 合計」などでGoogle検索すると、大量の情報が見つかります。人事決定権のある科学者が、上のような誤りを犯し続けているのは、非常に問題です。

例を下記に付します。

http://www.saga-u.ac.jp/houmu/kisoku/igakupdf/1-04-14-02.pdf

発表論文実績の規定

基礎医学助教

pact factor の合計数が3以上(算出係数1st,Corresponding, last,指導教員は×1として,2ndは×0.5として,それ以外は×0.2として計算)又は欧文原著数2編以上

(簡易な書き方をすれば、) IF= 引用された数 ÷ 出版数 に、(引用と関係ない)著者の順序に基づいた重みをつけている。これで最後に和をとるのですから、一体何を表す数値なのか、まったくわかりません。

こうした風潮は、若い研究者に“IF主義”が根付く前に(もう遅い…?)、撤廃すべきです。発表内容を聞いて、その価値を(最終的には主観的であっても)判断すべきです。

論文のIF(の合計値)だけから研究者の「優秀さ」を評価することは、どんなことがあっても不可能です。

最低限の目安としては機能するかも?

IFはその定量的な意味合いの解釈は難しいですが、たとえば、3年以上運営しているにも関わらずIFが付与されていないジャーナルや、IFが極端に低いジャーナルの「怪しさ」を見極めるには役に立つかもしれません。*2

結論:IFを「その論文の質」と直ちには考えない。論文は読むべし!

↑このツイートには同意できる部分はありますが、

↑この後半は、決定的な誤りです。こういう情報を研究者が(正しい定義や解釈を与えることなく)流布するのは問題です。また、研究だけでなく研究者自体の評価などに用いるのも不適切です。

だめ、絶対。…は言い過ぎました。謹んで訂正します。

が、IFを、加法尺度として鵜呑みにすることが危険なのは事実です。たとえば、理論系の論文、特に数式の多い論文は、生物系では引用されない傾向にあります。 {出典追記予定}

また、IFの従う分布は裾が重い(平均値から大きく逸脱した例外が多い)ことは周知の事実、よって分散(ばらつき)が大きく、IFを用いて、当該の論文の将来の被引用回数を予測することは困難です。

高IFの雑誌は、読まれやすい

これを書かないのは、アンフェアでした。高IFのジャーナルは、たくさんの読者の目に届くところとなりますので、自然にたくさんの方々に読んでもらえる機会が大きい。

これは、高IFジャーナルに出版する大きなメリットです。また、分野全体を盛り上げることにも繋がります。なので、そういうジャーナルへの投稿をディスカレッジする意図はいっさいありません。

しかし一方で、IFのうえでマイナーな雑誌を中心に論文発表している研究者は、分布上は大多数にも関わらず、「目立ち具合」でいうとマイノリティということになります。この原則は、被引用件数の伸びた論文は、引用されやすくもあります(目立つし、他の人が引用しているし)。つまりやはり、正のフィードバックがあるわけです。

科学者の貢献を、過度のバイアスなく正当に評価するための方法は、常日頃から、私含め科学者が真摯に考えるべきことだと思います。

*1:当該の著者が、そのジャーナルに出版した論文数がとても多い場合は別であるが、ほとんどそういうことは起こらないし、もしそうなっていたら、それはジャーナルとして問題だろう

*2:とはいえ、そういうことを調べるより前に、ジャーナルにアクセスして論文を開いて、その体裁やアブストラクト、図、数式、結果、表などをチェックする方が速いと思いますが。

滝沢カレンさんの唐揚げレシピ:分析

www.instagram.com

話題の滝沢カレンさん。バラエティでの活躍は知っていたし、彼女の(優しい・人を傷つけない)言葉遣いや態度に好感を以前から持っていたのですが、彼女の唐揚げレシピを読んで驚愕しました。

天才としか思えない。僕もこんなのが書けるようになりたい。

どこまで狙ってやっているのか?いや、狙ってても構わない。狙ってやってるならそれはそれで素晴らしいと思います。突き抜けた才能を感じます。この天才的なレシピを、無粋にも、分析しました。

概要:高度なレトリックと模範的タレント要素のオンパレード

みなさん、こんばんは💕 ヘルシーに見えてそうじゃない、高カロリーに見えてそうでもない、 どちらも決めるのは胃袋ですってことにします😊

読ませる仕掛けの施しで口火を切っている。どんな料理を作るんだ!?なんのレシピなんだ!?気になってついついスクロールしてしまいます。

油物がほんとは大好きで、でも油物はカロリーがやら太るやらと可哀想な扱いされがちなので、なるべく外では油物を食べないで家で自分が作るときだけは食べていい、という決まりにしてます😉(たまにはご飯屋さんでもそりゃ食べる)

なぜならやはり味付けから肉の種類(鶏内)、油まで全部自分で確認できるからです☘️(こだわり強そうにみえてそこまで強いわけでもないのでご安心を)

為人が見える、安心できる“親近感”、そう、良い意味での庶民感。彼女は、人気者の立場に奢ることなく、僕らと同じ土俵で僕らに語りかけている。

私が家で唐揚げ作るときのお決まりをご紹介します😃

唐揚げは一度全て揚げてしもうと保存不便ですから、300gくらい買って半分は生のまま冷凍や冷蔵しますから、5〜6個を用意します😉

個数・分量が正確に明記されているのは、レシピの基本。ついつい目分量で調理を進めてしまいがちな人にも助かります。また、保存の難しさもはっきり断っている。どこまでも我々に優しいカレンさん。

私は味濃いのが好きなので今から話すことは味濃いと思いながら聴いてください。 薄いのが好きな方はこれから話すよりは自分で決めて下さいね😊

多様な人々への配慮をしています。そう、彼女はダイバーシティを重視している。なぜ多様な人物に対する情報共有が重要かを、理解している。

そしましたら、スタートです!

まず、透明度まではいかないがスーパーでよく見かけるしもらうしなの、ビニール袋を二重にします。 (豪快な方はジップロックなど)

快活なスタートを促し、手軽に始められる自信が湧きます。豪快な人もウェルカムな姿勢にも敬服。

そこに冷たい何も知らない鶏肉をいれてあげます。

何も知らない鶏肉。文豪が書くところの「泣き出しそうな空」。高度な暗喩です。レシピに暗喩を入れるというアイデアはもちろん、伝えたい情報がしっかり伝わってくる。

そう、鶏肉はこの段階では未調理のナイーブな状態だからです。塩もコショウも振っていない。彼女はそれを暗に伝えている。

やれやれとボッタリくつろぐ鶏肉に上からいくつかかけ流していきます🙇🏼‍♀️ まずリーダーとして先に流れるのは、お醤油を全員に気付かれるくらいの量、お酒も同じく全員気付く量乾燥しきった粒にみえる鶏ガラスープの素をこんな量で味するか?との程度に、ふります。

僕はここに彼女の突き抜けた文才と敬意を感じます。ボッタリという擬態語。調味料界のリーダー。全員に気付かれる。乾燥しきった粒にみえる鶏ガラスープの素。

どの段階までいっても食料に生命の息吹を込めています。ここまでくれば、食への敬意。そうですよ。だって、食事とは、命をいただくことでもありますから。

いれすぎても、いれなさすぎても、あまり変わるわけではないので気にしすぎもよくないです!

フレンドリーなアドバイス。「とにかく少し入れる」。それだけで唐揚げの香りが良くなることを彼女は匂わせている

そして匂いが取り柄な、ニンニクすりおろしかチューブ、生姜すりおろしか、チューブを鶏肉ひとつにアクセサリーをつけるくらいの気持ちでつけてあげて下さい。 あとはごま油をご褒美あげるくらいにします。

ここで突如として展開されるチューブ調味料ディスかと思いきや、それをきっと華美過ぎぬアクセサリーに擬えています。

最後に気前よく塩胡椒して鶏肉への刺激は終わります🧚🏼‍♂️ 順番は自由です😊 あとは開きっぱなしの入り口を柔らかく結んでください。あとでまた開けます。

気前よく塩胡椒。ああ、たっぷり振っていいのだなという気持ちになります。料理する身として心得ていますが、料理において塩と胡椒の加減はとても大事です。過不足なくが基本ですが、唐揚げは、鶏肉のジューシーな香りが食欲をそそります。多少なり過剰にかけすぎても、大丈夫なのです。失敗しないのです。彼女はそれを教えてくれています。

あとは自分が二の腕気にして触ってるくらいの力で鶏肉をさらに最終刺激します。 男のみなさんは自分の力を見せない程度にしてあげてください。

二の腕は、贅肉の増加を知るバロメータとも巷では言われています。“男のみなさん”はついつい、強く揉みすぎてしまうことに注意喚起をしています。

現に文部科学省の集計によると、男のほうが握力が平均的に強い傾向にあるようです。

「平成19年度体力・運動能力調査」の概要 2 調査結果の概要 1 年齢と体力・運動能力−文部科学省

http://www.mext.go.jp/component/b_menu/houdou/__icsFiles/afieldfile/2009/10/13/1285568_1.pdf

そのことも念頭に置いているのでしょう。

うわっこりゃすごい色だ!と濃さや匂いに驚かれてる方は、15分位冷蔵庫で冷やしたらもう漬けるのをやめましょう。

わぁもういい匂いだお腹すいた!と笑顔になる方は、そのまま30〜60分冷蔵庫にて鶏肉を休ませてあげて下さい。

うーん、自分はどっちだ!?この叙情的描写には、人の感情に働きかける効果があります。これを見て、躍動感、臨場感を憶えた方もいるのではないでしょうか。

それぞれの時間を過ごしてる場合じゃなくこの間にお味噌汁、お米、副菜をお願いします。

今回は、副菜はえのき茸に鰹節が入った梅を混ぜただけの苦労知らずの一品と、ニンジンとほうれん草の誰だって知ってる胡麻和えです。

すりごま、お砂糖、醤油、などで終わらせます。

お味噌汁にはあまったえのき茸が再登場してくれました、あとはバレてしまってますが、炊き込みご飯でもう大丈夫といわれた油揚げもお味噌汁に再登場してます。あとはお豆腐とわかめのいつものメンバーで助けられてます。

トントン拍子に進む、サイドメニュー。お豆腐もわかめもにも命の息吹が込められました。また、メインの唐揚げだけでは見栄にも栄養にも偏りが出ることを考慮しているのでしょう。そう、彼女はを、高みを目指している。

そんな構いをしているとあっという間に待たせている鶏肉を思い出す時間になります。

非常に秀逸です。ここまでサイドの処理を読んで、調理を執りおこなって、はっ、とする我々へのリマインド。

面白いくらいにブったりした鶏肉があるはずです。

好き好きな入れ物に片栗粉と少しの小麦粉を入れて潤い満タンの鶏肉を一気にパサパサ雪世界にしてあげます。

鶏肉はこの頃には変貌を遂げているはずですが、それ実に見事に表現しています。潤い満タン。雨でも振った世界は、小麦粉によって銀世界の彩りに変えられることが、想起されます。

あ、その前にみなさん激熱油は用意できてますか?😅 私はたまにの油物なのでここは贅沢御免でオリーブオイルを170度くらい熱々にします。(飛び跳ね、指を入れるなど命かけてしないでください)

唐揚げにオリーブオイル。贅沢御免。揚げ物は温度が大事。170度というのは、実はかなりスタンダードな値です。

熱々に見えなくてもそこは想像を絶する熱さです。

170度にいきましたら、パサパサ鶏肉をおにぎりを一握りの気持ちで「いってこい」の後押して油へ...🔥 すぐさまなんかしらの反応見せたら、あ、楽しくやってるな、と見過ごしてあげてください。

鶏たちをついにお見送り。水槽にお魚を放すくらいの気持ちなのでしょうか。あるいはこの描写は我々に、大空いっぱいにはばたく鶏を思い描かせます。

何の反応もしてくれなかったら一旦取り出してください、油がまだ170度ではありませんそれは。😅 そして全体的に薄茶色になったら一旦油取りが紙(料理用)みたいのに移しさらなる高温に油を熱くします... 180〜190度にして、懲りずにまた唐揚げを油へ沈めて下さい。

「懲りずに」。カレンさんは、我々のモチベーションをエンカレッジしてくれています。失敗は怖くない。諦めることが一番怖い。彼女はそう説きたいのでしょうか。

だんたんとキャピキャピ音が高くなってきたら、ほんとに出してくれの合図です❣️ しっかりここではコミュニケーションとってください。 これ以上茶色な唐揚げみたくない!ってタイミングでもいいです。

オノマトペに楽しさを感じます。ここまでくると、料理人も匂いにやられて、お腹が空いているのです。コミュニケーションは、もちろん、キャピキャピしている鶏さんとです。どこまでもウィットを忘れません。

みなさん、「何事も早くがいい」と言われても、先に190度など高温にしてしまうと焦げたり中はまだあったまってないですから、気をつけてくださいね😋

温度が高すぎると、外ばかり揚がってしまい、中にまでは火が通っていないというのは、料理をしていれば知るところの事実です。

そんな鶏の唐揚げの物語でした📕

そう。これは鶏の唐揚げの物語だったのです。彼女は、物語のひとつのエピソードに、鶏の唐揚げをのせた。完璧に読ませられていましたね。

安全第一で無理矢理な時は油物は控えてくださいね。 でもたまーの大量油は身体もそこまで困らないとおもいます。

もちろん、油料理には危険が伴います。彼女ほどの影響力のある人物だと、こうした注意喚起も必須です。まだ火を管理できない年齢の子どもたちも、読んでいるかもしれませんからね。彼女の物語を。

是非、よろしくお願いします😊

さあ、スーパーへ鶏を買いに行きましょう。

入店直後の「お勉強はお断り頂いております」

先日、といっても夏前のことだが、京都駅近くの喫茶店に足を運んだ。そのお店はチェーン店だが、電源タップとWifiをどの店舗でも置いているところで、たいへんお世話になっている。

そのお店に到着して席を確保して注文後、論文を書き始めた。

すると店員にすぐさま、「当店は、お勉強でのご利用はお断り頂いております」と言われてしまった。そうか、そういうルールだったのか、とすぐには納得できなかった。

問題点

予備校近くの喫茶店では、熱心に勉強する学生で座席が埋め尽くされ、客の回転が低下してしまうことがよくある。それが原因で、「お勉強はお断り頂いていおります」という張り紙がなされている。

若い頃は、「それはルールなのだ」と納得していた。店側には、ルールを決める権利が(多かれ少なかれ)あるのは間違いない。たとえば「喫煙可能かどうか」などはそうであろう。

しかし、以下の点を問題提起したい。

1. 「勉強」の定義

そもそも、どこからが勉強なのだろう。予備校のテキストを開くのは勉強だろう。しかし、論文を書くのは勉強か?

あるいは、店側がルールを作るのだとしたらどこからが勉強と判断されるのだろう。“なんとなく、そう”見えたら勉強?

駄々をこねたいわけではない。本を読むのはOKで、予備校のテキストを開くのはアウト?簿記試験問題集は?TOEFLのスピーキング練習をかねて、留学生とおしゃべりすることは?人生そのものの課題を頭の中で考え込むことは?

2. 時間の使い方も店が決めてよいのか

僕なら唇がカラカラになるが、スモールサイズのコーヒー一杯で、おしゃべりを三時間も四時間もできる人はいると思う。そういう人たちにも、店側は注意するのだろうか。

人の時間の使い方は、人次第である。おしゃべり。本を読む。ぼーっとする。良い。いろんな二時間三時間があって、人はそれを求めて、喫茶店へ足を運ぶ。

勉強もきっとそうだろう。好きだからする。ヤバいからする。いろんな理由があっても、二時間三時間は平等に与えられている。

たとえば僕は、二時間以上居座った場合、必ずおかわりをする。店への感謝の意も込めて、である。JR六甲道駅タリーズは僕の行きつけだが、その電源タップ利用可能席には、「二時間以上居座った場合、必ずおかわりをしていただけると…」というルールが明文化されている。

僕はこちらのほうが正当に感じると思うし、僕は店の持続性のためにも、このルールを守るようにしている。もちろん、義務ではないのである。

第一、こうすることによってお互いに気持ちよく関われるではないか。コーヒーは美味しいし、最近はレシートをおかわり割引チケットにできる店も多い。

店には、客の時間の使い方を規定する権利まではないのではないか。もちろん、周りの客に迷惑がかかる行為は論外であるが。

そんなにめんどくさい客なら来なくていい、とお考えかもしれないが、僕には「勉強お断りルール」よりも「二時間経ったらおかわりしてくれると嬉しいなの気持ち」のほうを、尊重したい気持ちにならざるを得ないのである。

「平等性と公平性」イラストを再検討し、一歩先へ進む

追記@11/16

下記の画像を人種間格差において用いた例なんてあるのか?という疑問をお持ちの方が居たようですが、その反応に僕は戸惑っています。知らない方がいたことを知らずにいて、すみません。

www.washingtongrantmakers.org

earlylearningntx.org

まあ、探せばいくらでも出るんですが、僕は格差・差別・偏見において、無知であること・無意識であることは、とても重大な問題という立場です。

また、systematic oppressionという言葉を用いたら、それは何?と言われたことも、僕にとってはショッキングでした。

en.wikipedia.org

Systemic oppressionとも言いますが、既存のシステムが、特定のグループに属する人たちにとって、ベースラインが不利な設計になっている状態を指します。

ま、ご自身で調べてみれば分かることって、たくさんあって、僕はそれ全てに答える立場にはないです(部分否定)が、systematic oppressionについては、また別のエントリーを書くかもしれません。いずれにせよ、無知の人たち自体に“罪”はないが、知らない差別・格差・偏見の存在を認めることから始めるのは、悪いアイデアではありません。

www.youtube.com

追記@11/15

本エントリーでは、問題の画像が、人種間格差とその“是正”を強調する文脈で頻繁に用いられているという背景をご理解の上で、お読みください。 *1

【みなさんありがとう】

lambtani.hatenablog.jp

このブログポストが話題です(なのか?)。やはり、数理モデルは、問題を数値化・可視化して、描像をクリアにしてくれるなと思いますし、あのブログを読んで、少しでも考えるべきことが生まれた方々は、日本社会をこれから改善していく力を持っていると思います。

【本題】

とか書いていると、スピリチュアルな方向に行きそうになりますが、今回話題にしたいのは、平等性・公平性。

ググれば出てくるし、必ず一度は見たことのある、この画像。

https://miro.medium.com/max/3600/1Sbu0UfWk6FZGoUIYFGqrUA.png

Equality(平等性)とEquity(公平性)の違いを一発で「理解」できるように可視化したこのイラストは、実に見事。

言い換えれば、こんな塩梅でしょうか。 *2

  • 平等であること:全員に同等のサポートを施すこと。
  • 公平であること:全員が同等な結果を達成できるようなサポートを施すこと。

最近では、東京大学における“女子優遇”制度がSNSで話題になりました。参考:

家賃補助は女性優遇か? - 教養学部報 - 教養学部報

つまり過程が平等であることではなく、結果が平等になるような社会にせねばならない。そうした認識が取り沙汰され、徐々に意識の変化に向かっているのは素晴らしいことです。僕も、こうした動向から多くを学んでいます。

このように分かりやすいイラストには、数理モデルの予測の可視化と同様、明解な説得力があります。

【問題】

先述の通り、あのイラストは、平等性と公平性の根本的な違いをクリアにする、重要なイラストです。それは間違いない。じゃあ社会は、equityを達成することに向けて動くべきだろう。個人でもそれを始められるだろう。そう思うわけです。

しかしあのイラストには、決定的な問題が潜んでいます。特に、racial equityの観点では。

下を読む前に、考えてください。何で問題なのでしょう?僕も、調べ、勉強し、深く考えるまで、まったく気づきませんでした。これこそが無意識のバイアス。

*1:The problem with that equity vs. equality graphic you’re using | Cultural Organizing

*2:日本語での解説も、様々なキュレーションサイトでなされています。たとえば: buzzap.jp

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格差の助長原理:正のフィードバック構造

※本記事は、FBでの投稿をうけて、すこし違う形で文字起こしを行なったものです。コメントをくださった方々から少なからぬ影響を受けてはいますが、文責はすべて私の負うところにあります。

Naomi Pierce博士が国際生物学賞受賞!

第35回国際生物学賞記念シンポジウム「昆虫の社会性と共生をめぐる生物科学」Commemorative Symposium for the 35th International Prize for Biology「Biological sciences related to insect sociality and symbiosis」 -国立科学博物館

月末は、これに参加します。Naomi Pierce博士は、長いキャリアを通じて進化生態学において顕著な業績を残した研究者です。心の底からお祝い申し上げます。

このシンポジウムは二日間の構成です。テーマは、昆虫・共生生物学。一日目は「研究者向け」、二日目は「一般向け」ということで、日本中から老若男女が発表を聞きに集うことが予想されます。

僕自身、聴講をとっても楽しみにしています。

老若男女

今回ハイライトしたいのは、その二日目のシンポジウム。豪華たる面々の招待講演者たち。全員、男性。

仮に、日本の昆虫・共生の研究者の男女比が9:1かつ無限集団であるとすると、ランダムに招待された講演者たちが全員男になる確率は、  \left( \dfrac{9}{10} \right) ^{10} \approx 34.87 \%です。これだけ見ると、ランダムから期待される数値的には、たまたま起こったとも考えられます。

そう、ほんのたまたま。確率30パーですから。ほなしゃーない。…のか?

たまたま?

ではもうすこし考えてみましょう。例えば、その「たまたま」を引き起こす要素は何でしょうか。

上の推論では男女比が9:1という仮定から出発しているのですが、よくよく考えてみると、そもそも現時点で9:1に偏っている事自体が問題でしょう。もちろん、問題にしたいのは、9:1という仮定ではないのです。そもそも現実として、5:5からは大きく外れていることです。

ちなみに、9:1から8:2、7:3、と、5:5に近づけるにつれて、上の%数値(確率)は小さくなります(下図)。ランダムサンプルされた10人の講演者たちが全員男性である確率は、5:5の場合には、1/1024、すなわち0.1%まで低下します。

f:id:lambtani:20191112225848j:plain
図1: 横軸「男女比(男が占める割合)」に対し、縦軸に「ランダムにサンプルされた10人が全員男である確率」をプロットしたもの。オレンジ線:34.87%線。男の占める割合が低くなるにつれ、急激に確率値は小さくなる。男女比0.7以下だと、「ほとんど有り得ない」確率でしか起こらないことがわかる。

ここまで来れば、ああそうか、9:1というのは、「たまたまだ」という結論を引き出す上での甘めの評価だったのだなと気づきます。

「せやかて工藤、おらん人は呼べへんやろ?」

でも実際問題として、「特定の分野Xの女性研究者」が存在しない場合もあります。

その場合は男性しか呼べない。そりゃそうです。

でもこの問題は、次のように仮想的な状況を考えるだけで、簡単に「おかしい」と気づくことができます。

太郎君は、ある学会で、シンポジウムを企画することにしました。テーマは『開花植物における、種子散布と花粉散布が、空間構造に与える影響を理解するための数理モデル』!いいですね。最近それに関する論文を出したばかりだし、意気込んでいます。 しかし、いざ講演者を探すとなると、…あれ、女性研究者がいない?じゃあ、呼べないな。仕方ない、男性陣で固めよう。

ちなみに『開花植物における、種子散布と花粉散布が、空間構造に与える影響を理解するための数理モデル』の研究をしているのは、きっと太郎君だけですから、女性演者を呼ぶことは当然、できません。

この問題から示唆されるのは、太郎君のスコープの狭さ。企画したはいいが、あれ、、、女性研究者が見つからないな?それはきっと、多様性を持ち込めるだけの何かが足りないということかも。

深刻なまでの正のフィードバック

9:1は仮想的で極端な値ですが、将来はそうなってもおかしくない。それだけの理由があります。アカデミアの競争的構造による、正のフィードバックです。

国際生物学賞のシンポジウムに招待されるというのは、彼らの活躍から考えたら、妥当なことですし、素晴らしい栄誉だと思います。これが、将来のさらなる活躍に繋がるはずです。

つまり、アカデミアは、活躍すればするほど、活躍しやすくなるシステムになっている。

しかし逆に言えば、活躍の機会を与えられなかった場合は、将来の活躍の機会が損なわれる可能性があるということです。資本主義ですから、常に相対的な意味です。そう。損なわれるのです。

女性の機会が損なわれることは、将来的に、さらに女性の機会の損失につながる。これが続くとどうなるでしょう?

一旦、女性の活躍が難しい社会が確立して安定化してしまうと、男女が公正に機会を与えられる社会へとシフトすることは、とても難しくなる

現在は7:3だとしましょう。ランダムサンプルで男性バイアスに機会を提供することは、将来の8:2、9:1を本当に招いてしまうかもしれない。最悪のシナリオでは、女性ゼロ。

これこそが正のフィードバック構造の本質で、2つの安定な状態のうち、片方の(社会的に望ましくない)安定な状態が実現し、存続してしまう(双安定という)のです。

このような双安定性を崩すためにはズバリ、大きな力を加えるしか無い。そのために、「ランダムにサンプル」するのではなく、男女に「平等」に「是正」した機会を提供すること。それは僕たちの役割です。

社会マイノリティへの機会の提供は、常に頭に置かないといけない。

シンポジウム企画:演者探しにエフォートを惜しまない

学会でシンポジウムを企画するのは素晴らしいことです。初対面の研究者たちと交流し意見を公開する場を提供する。科学への重大な貢献です。僕もそういう場を持ってきました。

たとえば僕は2016年以降*1、4度(数理生物学会JSMB2016・ヨーロッパ進化学会ESEB2018・日本進化学会SESJ2019・個体群生態学会POP2019)のシンポジウムを企画しました。

その際の男女比は下記の通りです。

  • 2016, JSMB:2:2
  • 2018, ESEB:4:4
  • 2019, SESJ:3:2
  • 2019, POP:2:2

バランス良いですね(自画自賛)。ちなみにESEBでは、学生・ポスドク・ファカルティ等のバランスも考慮しましたよ!!!…というのも、2018ESEBは、査読形式(投稿されてきたアブストラクトを審査し、企画者が演者を選定する)だったからですが。

で、僕が演者を探すためにどうするか?

ひたすら、関連の女性研究者にメールを送った。そのために、web上を這いずり回る

そう、必死こいて探すのです。見つけるためには、探さなきゃだめです。企画者には、その責任があります。

多様性

「多様性重視」。社会は少しずつ、そうした意識を持ち始めています(僕自身もです)。マイノリティの機会損失は、正のフィードバックによって、簡単に最大限格差を導きかねません。これは、社会にとっても大きな損失だし、社会で生きる人たちには、それと向き合う責任があります。

日本に生きる僕たちにとって、まだまだ意識しにくいことかもしれません。しかし、地球や社会に大きな変動が起こり、人々の価値観がガラッと変わることは、有り得ます。そのようなときにも、十分な多様性を確保しておくことで、科学は変動についていける。対応していける。社会での価値を持つことができる。

多様性を確保することは、持続的なシステムのための、目的かつ手段です。ただの、綺麗事の大義名分ではないのです。

研究者の方々へ…

研究者の皆様は、電子メールアドレスをweb上に載せておきましょう。じゃないと、招待メールすら送ることができません!

*1:2015年以前は、いまほどの意識はなかった

被災地における「専門家“ボランティア”不足」…?

このたび、大雨や氾濫被害をうけた方々には、お悔やみ申し上げます。私も、少しでも、募金を通じて、貢献できればと思います。

ボランティアの方々には頭が上がらない

そんな中、11/2-4の三連休を利用して、ボランティアとして現地に赴いていらっしゃる方もいるそうで、現地への直行バスも運営が始まったようです。

www3.nhk.or.jp

こういうニュースを見るに、若くてアクティブな方々の気概と行動に、本当に感謝するし、勇気づけられます。

ボランティア不足

被災地にボランティアが足りないという報道があります。

www3.nhk.or.jp

ボランティアが足りない。ボランティアの人員に、地域差がある。これは問題です。体力の問題で、自分たちでは作業に従事できないひとたちもいるからです。

しかし…ボランティアの方々の心・行動力は本当に尊敬するとして、本当に頼るべきは「ボランティア」なのでしょうか…?

ニュース番組「ゼロ」では、「専門家ボランティアが不足している」という解説がありました。

しかし、「専門家ボランティア」っておかしくないですか…?専門家ですよね。プロですよね。それで生計を立てていらっしゃるんですよね。そして作業には危険が伴うわけですよね?

お金を出して、雇う存在なのではないでしょうか。

地方自治体が、いや、国が、雇用を創出すべきなのではないでしょうか。

もちろん、経済的事情でそれが簡単ではないのは理解しています。でもね。ニュース番組やニュースサイトが本当に伝えるべきは、事実だけでなくて、「復興には人員が必要で、それを可能にするための経済的なシステムであること」なのではないでしょうか?

president.jp

だって、こんなのに、こんっっっな不透明なことに、税金から5000万円以上を計上する首相ですよ?

もちろん、事実と意見は別です。でも、こういう「ボランティア」ベースの復興を、僕は納得できません。

みなさんの考え方がとても気になります。

でも、ぼくはこういうニュースに、涙が出そうになります。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20191013/k10012129691000.htmlwww3.nhk.or.jp

ありがとう。

言葉の構造:なぜ英語での会話に飛び込むのは困難か?

僕は英語を話す環境に生きています。人と話すのは好きですが、英語は得意ではありません。いまでも、英語で発表する直前は異常なまでに緊張します。

実はむしろ、日本で多くの留学生と接していた僕は*1、英語にちょっとした自信すらありました。

まずそうした自信が脆くも崩れ去ったはじめての経験は、スイスのローザンヌに住んでいた頃です。ローザンヌは、フランス語圏の地域です。毎日、学科の友達と12時に建物の一階で待ち合わせてランチに行くという習慣があったのですが、そのメンバーが、スイス・イギリス・フランス・ブラジル・イタリア・コスタリカといった様々なバックグラウンドの人々で構成されていたため、ランチでは英語が“公用語”として用いられていたのです。そのランチでの英語での会話には、ほとんど全く、入り込むことができませんでした。時々助け舟を出してくれる友人や、「ついてこれた?」と直接的に聞いてくれる友人も居て、本当に救われました。

しかし言い訳の仕様もない英語での会話の困難さが、ここアメリカでは僕にとって、更に顕著です。初めてアメリカに住み始めた頃には、ローザンヌ同様、聞き取りさえままならず、とても苦労しました。しかし、その後の努力(というか、ドラマ F.R.I.E.N.D.S 鑑賞)によってかよらずか、会話の内容を把握して、新しい話題の枝葉を提供できるようにはなりました。それでも、会話に完全に入り込んでいくのはとても難しいと感じた(し、今でも感じる)のです。

その理由を自分なりに考えてみました。

そもそもの言語としての違い

これは言うまでもないことだとは思いますが、我々はローマ字アルファベットとは全く異なるアルファベット(ひらがな)を使います。また、ドイツ語・オランダ語といったゲルマン系の言語はもちろん、フランス語・イタリア語・ポルトガル語スペイン語といったロマン系の言語とも共通点の多い英語は、そうした言語を母語*2として話す人たちには、発音はまだしも、文法などが比較的容易であることが想像されます*3

しかしこれを完全な「理由」として挙げるとなると、同じようにローマ字アルファベットをアルファベットとして用いない人たちはどうか、という自然な疑問が浮かびます。たとえば僕の経験では、中国や韓国出身の留学生や研究者たちは、僕よりは少なくとも「流暢」に、英語を話しているように聞こえます。そうなると、アルファベットという根本的な理由以外のファクターがあるような気がします。

文化の違い

これは、日本語を母語とする人たちを一括りにするかのような言論にはなってしまうかもしれませんが、ご容赦ください。

僕の認識している限り、日本人の会話には、ひとつの強い規範があります。それは、「他者が喋っているときにはそれに重ねない」というものです。実際、僕がそれをされると、少し…いやかなり、迷惑な気持ちがします。そしてその感情は、多かれ少なかれ、共有して頂けるのではないでしょうか…。

こうした美徳的価値観から形成される感情そのものも面白いのですが(「期待されないこと」というネガが規範を形成するのでしょう)、焦点は、そもそも我々には「会話を行なうときは、しゃべるのは“順番”に」という習慣があることです。それはturn-taking conversationと言われます:

Turn-taking - Wikipedia

ここは、少なくともアメリカでの会話とはだいぶん異なるという印象を受けます。

ではなぜそもそも、こうした文化の違いが生じたのでしょう?それは言葉の構造が密接に関連しているのではないか、というのが僕の今回の(科学的には、いかにもアヤシイ)考えです。

言葉の構造の違い

もう少し踏み込んで考えてみます。僕たちの用いる日本語はどのような構造をしているでしょうか。次の例文を考えてみます。

「私は昨日、トムがスーパーでりんごを買うのを見かけましたよ」

主題は、私がトムを目撃したということかあるいは、その目撃の瞬間にトムが何をしていたか、の2つだと思います。が、もしも後者が主眼であれば、日本語では

「昨日トムが、スーパーでりんごを買っていましたよ」

という表現のほうが自然だと思います。そこでここでは、目撃したということを主張していると仮定します。2つの文章は、主眼こそ違えど、構造(つまり見た目)は同じで、いずれも結論を導く動詞である、「見かける、買う」が最後に来ています。ということは、聞き手は、話を最後まで聞かなくては、相手の伝えたいことが、分かりません。

このことが、日本人を、言語によらぬ「聞き上手」たらしめているのではないかと考えられるのです。ちなみにこの文法構造はSOV型と言われ、目的語(Objective;動作の対象となるモノ)が動詞(Verb)の前に現れる傾向にあるのがその特徴です。

一方でみなさんもご存知の通り、英語の構造はSVO型であり、結論・主眼となる動詞が、主語の直後に置かれます。すなわち、(動詞の後の展開はさておき)結論・オチが早い段階で、文の中で明らかになるのです。

たとえば、先程の例を英語に直すと、

I saw Tom buying an apple at a supermarket yesterday.

Tom was buying an apple at a supermarket yesterday.

an appleまで聞けば、あとはどうでもいい情報が並びます(もちろん、「昨日」を強調したいなら、Yesterdayを最初に持ってくるなりすればよいでしょう)。そこまで聞いた段階で、聞き手は口をはさむことが可能です。

f:id:lambtani:20181103101707j:plain

SVOとSOV型

Wikipediaによると、SOV型・SVO型の頻度は次のようであることが知られているようです。

Subject–verb–object - Wikipedia

この2つのタイプが言語のほぼ90%を占めるようです*4。韓国語と日本語はサンスクリット語から影響を受けているのは知っていましたが、文法の観点においても共通点があったとは。

ちなみに同頁には、他の構造を持つ言語も紹介されています。まったく知りませんでしたが、ドイツ語・オランダ語はすこし特殊な構造を持っているのですね。

11/6追記:以下は韓国語との比較であり、論旨が散漫です。

韓国語との比較

言語構造上は似ているにもかかわらず、僕個人的な経験に基づけば、韓国出身の方々や、韓国在住の方々は、日本人に比べると、平均的には、英語をそつなく話す印象があります(旅行や交流などに基づく、僕自身の印象です)。

なにが違うのか。韓国における英語教育の状況を調べてみました。

Education in South Korea - Wikipedia

English is taught as a required subject from the third year of elementary school up to high school, as well as in most universities, with the goal of performing well on the TOEIC and TOEFL, which are tests of reading, listening and grammar-based English. For students who achieve high scores, there is also a speaking evaluation.

小学校三年生から、義務教育課程における英語学習がスタート。日本では中学1年生からですから、3年早い段階で、英語に触れる機会が訪れるということになります。

その3年でどこまで差がつくのかは不明ですが、英語教育への投資は家庭レベルで一般的らしく、

Because of large class sizes and other factors in public schools, many parents pay to send their children to private English-language schools in the afternoon or evening.

英語塾に子供を行かせているということや、

There are more than 100,000 Korean students in the U.S. The increase of 10 percent every year helped Korea remain the top student-sending country in the U.S. for a second year, ahead of India and China. Korean students at Harvard University are the third most after Canadian and Chinese. In 2012, 154,000 South Korean students were pursuing degrees at overseas universities, with countries such as Japan, Canada, the United States, and Australia as top destinations.

そもそも米国には10万人もの韓国からの学生が住んでおり、毎年10%増えているのだとか。一般的に見て、国外への留学はかなり行き渡った文化・戦略のようです。

ちなみに日本は、この資料によると、2016年度時点では96,641人の学生が留学に出ているとのことです。年度が異なるので単純な比較はできないのですが、人口比になおすと、韓国は(2012年データによると http://ecodb.net/exec/trans_country.php?d=LP&c1=KR&c2=JP)5020,0000人のうち 154,000人が留学ということですから、総人口に対して0.3%に相当する留学生が国外に出ているのに対し、日本では0.076%に相当する留学生が国外に出ているようです。それだけ、留学に対する積極性の差があるようです。

在留邦人総数

ちなみに外務省によると、125万8263人が在留邦人総数として2013年にはカウントされているようです。 そして韓国からアメリカ(その他の国での状況は分かりません)への移民者数は、2015年段階では106万人と推定されているようです。 https://www.migrationpolicy.org/article/korean-immigrants-united-states これだけ、国外移住への意識がある中で、国内人口も増加していて、それだけ日本との根本的な状況が異なり、言語的な構造のみでは、英語学習に関して結論を直接的に導くというのは無理があるということがわかります。

つまり、教育状況とか、留学にに対するハードルの低さ(精神的・規範的なもの?)などの様々な要因が絡んでいるということです。単一要因ですべてが決まることはないですからね。

それでも

こうした言葉の構造の違いを理解し、それに基づく英会話のペースを理解するだけでも、英会話への参入はグッと簡単になります。 もし他人が喋っているときに遮るのがひじょうに気後れするのであれば、会話の終焉あたりで飛び込めばよいのです。僕は最近ようやく、それができるようになってきた気がします。話を聞いて、タイミングよくjump-inすればよいのだと思うようになりました。

まあ、そんな難しいことを考えず、主張したことを正当に主張する。そのうえでコミュニケーションがうまくいかないのであれば、それはそれで改めて考える。それでいいのだと思います。

*1:日本でのラボには国外からの研究者がたくさん訪れてきていたというのと、学部生のころには留学生に日本語を英語で教えるというチュータ・ボランティアをしていたため

*2:ここで僕の立場をはっきりさせていただければと思うのですが、僕は決して、「母国語」という言葉を用いません。もちろん、国の「公用語」は存在します。個人には「母語」も存在します。しかし、(個人が第一言語で話す)言葉というのは、その人が国に対して持っている関係性 — 国籍等 — とは無関係に定義されるものであるはずです。たとえば、日本語での教育を受けた後にアメリカに移住した方々の「母国語」はどう定義すべきでしょう?

*3:もちろんこれは、発展途上国で「充分」な教育を受けた者による思想かつ、そうした人たちと知り合う機会のほうが多いという、明らかなバイアスの結果であって、一般的な傾向ではありません。なので「比較的」という言葉を用いました。

*4:11月4日、追記:この分布の単純計算は、系統的相関を無視しているので、本当はあまり意味がありません。言語は(文化的に)進化していくものですから、系統樹から論ずるべきことだろうと思います。