Life is Beautiful

主に進化生物学の理論のブログです。不定期更新予定。

国際学会で僕が心がけていること

国際的な学会でいかに自身の研究を面白く伝え、顔を覚えてもらえるか、というのは、アメリカやヨーロッパでは特に重視されていることのように思います。それをどのように活かすか。僕の直近の経験談から探ってみたいと思います。

まずは経験談から

とても評判の良い学会(EEID)にラボの皆んなで行くことになっていて、講演登録を済ませたのが、3月の下旬。日本で二つの講演依頼をうけ、アメリカに戻ってきた次の日。なぜか食中毒に倒れてフラフラでした。

そして無事に登録が受理され、めでたく口頭発表できることになったのはいいけど、なんとパラレルセッションがないとのこと…

つまり参加者全員が一斉に会場にやってくる。 ラボのみんなはポスター発表で気楽。

僕一人が口頭発表。

オフィスでの背後の友人に「パラレルセッションがないとか知らんかった!怖い!(It’s scary!)」と言うと

「That’s why I didn’t apply to the talk session ;)」

意訳:「せやから私は口頭発表には応募せんかったんや」

おーーーーーい!

さあ、ナーバスもいいところです。

  1. 聴衆はネイティブ、僕は非ネイティブ。
  2. 聴衆は非理論家、ぼくは理論家。
  3. ぼくは非疫学者、聴衆は疫学者。

ということで、極力は数式を使わず、喋らなくても分かるレベルのビジュアル性で、ただただ聴衆に理解を訴えかけることに。

いわば顔芸

  • 6/17: 準備開始。

  • 6/20, 15h00: ラボのみんなのまえで練習。そこで一時間半ほど、みっちりコメントを貰う。そこでの評判は、なかなかでした。

  • 6/23, 16h00: ボスと1:1で練習の時間を割いてもらい、一時間半ほど練習。良いコメントをもらったので、大幅に変更。

  • 6/24, 10h00: ラボの皆と車でサンタ・バーバラまでドライブ。郵便局に寄り道しつつ、合計六時間。

寝て・食って・寝てるだけ*1でしたけど、Moss Landing Harborの野生のラッコが印象的でした。

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  • 6/24, 18h00: 会場到着。ウェルカムパーティに行ったり、すこし友人と電話したり、すきをみてスライドを改訂。

  • 6/25, 9h00: 学会がオープン。アットホームな雰囲気。ただし聴衆は300人以上いそう。僕はと言うと、練習は合計10回はしたはずやけど、本番までナーバスな状態が続きそう。

  • 6/26, 9h00: 学会公式のハイキング。海鳥の保護区域の外をハイキング。友人と迷子。10kmほど歩いたのち、別の友人夫妻と合流して、昼飯。

  • 6/26, 15h50: 僕の本番。アガりまくり。

しかし、リラックスできるように話しかけてくれた座長や、そのナイスなイントロもあり、あっという間の17分半のトーク。制限時間は質疑応答を含めて20分やから、我ながら完璧に近い時間配分。

かなり凝ったスライドを作ったこともあり、多くの笑をさらった。そのおかげで、終わる頃には肩の力もどんどん抜けていました。

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  • 質疑。日本語ですら苦手やのに。1人目の質問者の質問が、(僕が取り組んだトピックをAとすると)「Aは起こると思う?」というもの。質問者はいわゆるビッグネームの研究者。そこで僕はただひとこと、

“YES”

  • これで会場は大きな笑いに包まれた。友人たちはその後、その質問者の「悪意」についてプリプリしていたが、ぼくの回答もちょっとsnobbishだったので、おあいこ。

  • あとは、友人知人からの質問に答えて終了。鋭い質問だった。

  • 発表後は友人たちが心の底からトークを讃えてくれて、もう完全に僕の脳みそは「はよビール飲みたいモード」。

  • 僕はカナダで働く可能性もあったが、その可能性についてずっと検討して議論してくれていた受け入れ研究者(発表中に質問もしてくれた方)たちとバーへ赴き、そこでおしゃべり。最後に会ったのはローザンヌでのESEBなので、二年ぶりといったところ。

  • というか彼は、僕が発表すると知り、別の学会(@ポートランド)を途中で抜け出して、サンタバーバラに来てくれたらしい…!!!

  • バーには5人ほどで行ったけど、そこで話してた相手が、実は憧れの研究者たち(と途中で判明)。ここぞと、別の研究もしっかりアピールしておいた(寄生者による宿主操作の数理モデル、アリの巣の免疫の数理モデルなどなど)。

  • その後は、バーから懇親会、懇親会からまたバー、そしてバーから海での飲み会へ。海では焚き火を囲んで酒を飲む。その間、何度「I like your/Great/Lovely/Fantastic talk!」と言われたか、文字通り分からない。*2

  • 極めつけは、学会に来れなかったボスからのメール:

I don’t have to ask how your talk went. I’ve heard great things from lots of my friends and senior colleagues! Well done.

  • このうえなく、救われた思いに浸る。

  • 来週は学会で少しおしゃべりした研究者と、本格的にSkypeでチャットをすることに(lovely chatting with youって、素敵な表現のメールをもらった)。

何が大事やねん?

このままやと僕のただの自慢話、で終わりやけど、国際学会で強く心がけていることを簡単にまとめておきます。

発表前:練習・練習・練習。
  • 練習する。

  • そのうえでここは意見が割れるだろうけど、原稿は作らない。

  • 作ってもいいけど、読まない*3

  • というか、覚えるまでやるから、原稿は結局無駄になる。*4

  • 外国語の場合、せめてアクセントくらいは事前に確認しておく。大事なのは美しい発音ではない。アクセントがほぼすべて。ちなみに僕の英語はネイティブ的には、ややフレンチ・アクセントらしい(矯正中)。*5

発表前:発表を広告する
  • 当たり前だけど、自己紹介して、笑顔で、どこにいて、何をしていて、というのをお互いに交換しあう。

  • 「発表するの?」といった質問をして、お互いに口約束でもしておく。

発表中:聴衆のことだけ見つめる
  • これは普段の日常会話でもそう。
  • グループで話すなら全員の顔をくまなく眺め、見渡しながら話す。
  • スクリーンのほうしか見ないのは練習不足。
  • ぼくは、ポインタを使わないと理解してもらえないスライドは避けるようにしている。
発表中:ジョークに挑戦する
  • 趣味問題だけど、笑ってくれたほうが楽しいから。
  • すべることができるのは、すべる勇気がある者だけである。

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  • 注:In vino veritas = 「ワインの中に真実がある」…つまりお酒を飲めば本音が出てくる。ここでは、「発表中には、完全に正確な言葉遣いをしてはいないけど…」という語り口からRead 1909を引用し、最後に「懇親会(Banquet)で話そう」と表示。ここでの笑いが一番大きかった。
発表後:質問者に詰問する
  • 質問してくれた人も、完全に理解したうえで質問できるわけではない。
  • むしろ、どこまで理解や同意が得られているかを知るために、発表後にはこちらから話しかけると有効。
  • その後、「あとでメールするよ!」「原稿にコメントをもらってもいいですか?」などで、交流を深める。
発表後:懇親する
  • まあ硬い話も半分くらいにして、雑談するのも楽しい。
  • 多様な背景をもつ人たちが集まってきているはずだから、色々な話が聞ける。
  • お酒が飲めなくても大丈夫。
帰宅後:メールする
  • 僕は学会後は何人にメールを送ったか分からない。
  • 相手とどういう文脈で何を話したかをクリアにしながらメールすると、より仲良くなれる(し自分の脳みそに刻まれる)。
  • 共同研究の可能性を探る。
  • 二年前の学会で知り合った研究者(カナダのひと)とメールをして、ポスドクとして働く可能性にまで踏み込んだ(かなりポジティブな答えをもらっていた)。縁がとても大事。

こうしたことをMMEE2015(進化生態学数理モデル学会)、ESEB2015(ヨーロッパ進化学会)、EEID2017(進化生態疫学)でも心がけた。これは発表どころか、学会そのものを楽しむためのキモでもある気がする。

ちなみに、僕は怠け者なので、日本ではここまではしない。既に知人が多いからというのもある。そしてたぶん、そこまでマメでもないのだと思う。後記:すみません修士の頃には、していました

僕は英語も友達付き合いも得意でないけど、まずは友好関係を築きたい。そのための手段なんて、今御時世いくらでもあるのだから、活かさない手はない。マイナススタートなら、他の人のアベレージよりもがんばることで、ゼロに戻してようやく対等になれる。

そして最も大事なのは…

ずっと:笑顔でいること、楽しむこと、楽しむための努力をすること

*1:ラッコではなく、車中の僕の話

*2:なぜならば完全に酔っ払ったからだ

*3:無機質に読みあげるくらいなら、事前に録音したものを流したほうが良いとすら僕は思っている

*4:一部の方はご存知だろうけど、このまさに理由によって、僕は急遽発表を依頼されたりして発表すると、クソのような出来になる。急に引き受けるもんではない。。。

*5:僕は練習中の自分の声を録音しあとでそれを聞くという、地獄のような苦行をすることもある。自分の声というだけで気持ち悪いのに、その英語を聞くともう、「ああもっと頑張らなあかんな」という気持ちになる。ドMである。

論文内で「新奇性」をゴリ押しするのはちょっと、お下品

Novel Insights into Priority Claims:Cell Reporter

http://www.cell.com/crosstalk/novel-insights-into-priority-claims

何かと話題になっているこの問題。以前にも、編集長が新奇性を判断してエディターリジェクトするのが良くないという記事

lambtani.hatenablog.jp

を書きましたが、今回もそれに関連して。新規性をゴリ押しするのは下品だと思うし、すくなくともCell誌ではどのように捉えられるか。 すこし長いので要点をマトメます*1。ここでは新規性のゴリ押しを"Priority claims"と呼びます。

Priority claims can be unexpectedly false

「新しさ」は、レビュアーや著者らが見落としているだけ、という可能性がある。もしそうなら、既に発見した科学者に対する不敬にほかならない。

Novelty alone is no indication of an interesting advance

新しいからって面白い革新とは限らない。

Conversely, an interesting advance may not be “novel”

逆に、面白い革新が「新規」とも限らない。だって、「同じ発見だけど、別のアプローチで取り組みました」ということもあるでしょ。

Excessive priority claims can look like an attempt to inflate the importance of the work

過度に新規性を強調するのは、研究の重要性を誇張しているかのように見える。

なお、個人的な印象として、「新しい!」ってのを猛プッシュする論文は、不勉強・不精通に概ね基因しているような気がします。それを全世界に発信してどうする?!そしてだいたいは、下品で不格好。やめましょうね。

*1:当該のブログ内では具体例が挙げられていてなかなかに手厳しい

何月に論文を投稿すると掲載されやすいのか?

クリスマスホリデーのシーズンや、サマー・ホリデーシーズンになると、ふと考える。

いま投稿してもエディターは対応してくれないのではないか…

いま投稿してもレビュアーは対応してくれないのではないか…

いや、投稿数が少ない時期を狙ったほうが、チャンスなのではないか…

こんな葛藤に、Cell Pressの編集員が答えていました。

When Are the Best and Worst Times to Submit Your Paper?:Emilie, Can I Ask You? http://www.cell.com/crosstalk/when-are-the-best-and-worst-times-to-submit-your-paper

As the year comes to a close, I am prompted to answer a frequently asked question related to annual “seasons” at a journal—when are the best and worst times to submit a paper? I think there are two assumptions behind this question: first, that there are times of the year when submissions are significantly higher or lower than average; and second, that success rates will vary accordingly. The first assumption is correct. The number of submissions at Cell is generally representative of submissions at other Cell Press journals, and there are times of the year when submissions pick up. Submissions tend to be highest in the summer (June, July, and August) and around the late fall (October and November) and are relatively lower in February and March. The summer boom is likely fueled by graduate students wrapping up projects for a spring thesis defense, faculty teaching responsibilities and classes coming to a close, and inspiration/competitive angst on the rise, with all the exciting science presented on the summer meeting circuit. Bursts of activity late in the calendar year likely reflect attempts to ensure a publication date in that year. And there are smaller but predictable surges in submission: hundreds of papers are submitted just before the end-of-year holidays.

  • 年の瀬も近づいてきたことだし、FAQに答えようではないか。それはジャーナルの「シーズン」に関するものである – 投稿のタイミングの良し悪しはあるのか。あるとしたら、いつだろう?

  • この疑問の背景には、2つの仮定が潜んでいる:(1) 平均的な投稿数に比べて、投稿数が多い時期と少ない時期が、一年の間にある; (2) それに応じて、成功率*1が変動する。

  • ひとつめの仮定は妥当である。Cell誌における投稿数は他のCell Pressのジャーナルにおける投稿数のよい代表値になっていて、 投稿数が高まる時期というのが確かにある。

  • 夏(6-8月)と秋(10, 11月)は投稿数が最も多くなる傾向にあり、2, 3月は低い傾向にある。
  • 夏における投稿ブームは、春のPhDディフェンス(学位公聴会)に向けてプロジェクトをまとめあげるPhD学生や教員たちの授業が終了し、不安やインスピレーションに掻き立てられ、そして夏の楽しい学会シーズン開始、といった事情に加速されるのであろう。
  • 年末に近づくにつれて投稿数が増えるというのは、年内の業績を高めようという試みを反映しているのだろう。
  • そして、投稿数の僅かながら予測される増加にいたる:年末のホリデー直前には数百本の投稿がある。

But the second assumption is wrong. Our editorial criteria are not influenced by submission volumes or by publication rates. We send important and interesting papers for review because they’re important and interesting. If your paper is important and interesting, we’ll get excited about it regardless of how many other important and interesting papers are submitted that week.

  • しかし二つ目の仮定は妥当でない。
  • Cell誌編集員の掲載基準に対しては、投稿数も出版率も影響しない。
  • 編集員が重要で面白い論文をレビューに回すのは重要で面白いからである。
  • あなたの論文が重要で面白いのであれば、同じ週にどれだけ重要で面白い論文が投稿されようとも、編集員の興味はくすぐられる。

この最後の言葉には励まされるしとてもフェアだと思います。 ちなみに個人的に一度、とある伝統あるジャーナルに「同じ週に、似たトピックを扱った論文が投稿されたので相対評価している」と言われて、査読にまわるまで4ヶ月待たされたことがあります。 しかも後にその論文はリジェクトされて他のジャーナルに掲載されていたのですが、全然似ていなかったのです。そんなことしていたらだめですよね。

Still, there may be one seasonal impact—not on the outcome, but on the speed of decisions. In early August and mid-December we frequently receive cover letters to the effect of, “Here is a beautiful piece of work from my lab. I will be on vacation for the next 2 weeks. It would be great to have the reviews when I get back.” And in response to our reviewer requests in those same time periods, we similarly hear, “Looks like a really interesting paper. Would love to review it, but I am on vacation for the next 2 weeks so I couldn’t get back to you till …”

  • それでも、ひとつだけ「時期」のもたらす効果があるだろう。それは結果に対してではなく、決定のスピードに対するものである。
  • 8月初頭や12月半ばには、カバーレターにこんなことが書かれている投稿を頻繁に受け取る:「私のラボからの美しい研究をここにお見せします。次の二週間はバケーションに出ますので、戻るころに査読結果をいただけると有り難いです」
  • そしてその時期にレビュアー・リクエストを送ると決まって「面白そうな研究だし査読できればどれだけ幸せかわからない、しかし次の2週間はバケーションに出ますので、○○までお返事はできません」という返事を受け取る。

So, happy holidays from me and the rest of the Cell Press crew! By all means, submit your paper anytime you want. But if you send it on New Year’s Eve, don’t be surprised if it takes just a few days longer to get news.

  • それじゃ、私と、Cell誌の関係者から、"Happy holidays"と申し上げたい。よいでしょう、好きな時に投稿して下さい。しかし大晦日に投稿されても、我々からの返事にすこしばかり時間が必要でも、驚きはしないでくださいね。

投稿する自由はありますよ。すっきりした気分で紅白歌合戦を観て、「行く年くる年」を観るのも悪くないでしょうから。ただ、師走は大晦日に駆け込みで投稿するよりも、原稿と共に新年を迎えて推敲を深めてから投稿してもよいかも。どうせどの編集員も査読者も、大晦日に投稿があってもハンドルできないのだから。

ということで結論:好きな時に投稿すればよい。

*1:アクセプト率と思えばいいだろうか

知っておきたい誤謬7: homunculus fallacy(ホムンクルスの誤謬)

定義

原理上、無限に後退させることが可能な推論。

分類

形式的誤謬。

論理形式

Phenomenon X needs to be explained. Reason Y is given. Reason Y depends on phenomenon X.

Homunculus Fallacy

説明

論理形式がやや分かりにくいが、終わりのないループによって、命題を示すこと。Infinite regressとも。

この終わりのない推論はただのトートロジーと同じというわけではない。 現象Xを、原理Yによって示した結果、原理Yが現象Xを内包してしまっていた、というパタンである。 この誤謬は、いくらでもスケールを広げたり、レベルを大きくできるようなメカニズムを用いて、命題を示してしまった時に起こる。

用例

  • 自我の起源を考える。「どこか別の世界の誰かが自分を操っている」という原理で自我の起源を説明すると、「操っている誰か」の自我の起源は非自明である(これをさらに操っている者はいない、という可能性は常に否定できないため、永遠にこの推論は終わらない)
  • よくできた生物の世界は、「デザイナー」によって作られたものだ(創造説)。これで地球上の生物の起源や多様性が説明される。(すると、この「デザイナー」をデザインした存在の可能性を否定することは出来ない)
  • ホムンクルスの誤謬:感情の起源を考える。感情というのは、それを操作している小人(ホムンクルス)によって生ずる感情の反映なのである。(ではそのホムンクルスを操るのは誰?メタ・ホムンクルス?)

分析

一般に、無限を(無垢な)推論で扱うときには、最深の注意を払わねばならないことが知られている。脚注にふたつほど例を挙げる*1。だが、この誤謬の本質は、プロセスの原理を、同じプロセスを用いて説明するという点にあるのであって、 「無限の推論」が常に許されないというわけではないことには、注意をせねばならない。

派生的誤謬:悪魔の証明

悪魔が存在することを証明することはできないし、悪魔が存在しないことを証明することもできない。 これはAppeal to ignoranceと呼ばれる。

用例

  • 「悪魔は存在すると思う。だってさ、存在しないなんて証明はないし、できないでしょ?」(「証明が存在しないこと」が、「存在しないこと」の根拠として用いられてしまっている)
  • 所有権証明の困難性:ローマ法以来の古い歴史を持つ。ある(財的価値のある)物の所有権を積極的に証明しようとすると、困難に陥る。たとえば、「父から継承した」ことを示したとしても、「父が祖父から継承した」ことを示さねばならないのである。こうしたプロセスをずっと繰り返すうちに必ずほころびは出てくる。これにより、所有権を証明することは実質的に不可能なのである。
  • 痴漢あかん:「きゃー!この人、痴漢です!」「お、俺はやってない!!!」「じゃあ証拠を見せろよ!」(痴漢で「冤罪であること」を証明するのは、非常に困難である)

教訓

僕の中にいるリトル本田の中にいるリトル・リトル本田の中にいるリトル・リトルリトル本田の中にいるリト

*1:

  • ヒルベルトパラドックス:無限の部屋数(1号室、2号室、3号室、…)をもつホテルに、たくさんの客(ただし簡単のため有限人数)がやってきた。フロントによると、部屋は満室らしい。これでもどうしようもない。しかし客の1人が、「それでは、それぞれ自室を二倍した部屋に移るように、いまのお客さんにお願いをしてください」とフロントに提案した。1号室の客は2号室に。2号室の客が4号室に。3号室の客は6号室に…という塩梅である。すると、(無限にある)奇数の部屋は全て空室になり、やってきた客は全員、泊まることができた。めでたしめでたし…

このヒルベルトパラドックスは論理的に誤った推論ではない。しかし、実は現代数学には「無限に必要な操作」に関して厳密である:

  • 選択公理:さきほどのホテルにある無限の客室はすべて「ダブル」で、どの部屋にも2人が宿泊しているとしよう。簡単のためその2人を「ペア」と呼ぶと、ペアもまた無限にあるということになる。ホテル側は朝食券を用意し、ペアのうちどちらかにだけ(代表として)渡すことをするという。ホテル側は、無限にあるペアから代表を選抜し、朝食券を渡せるのだろうか?

一見すると「できないわけがない」ように思えるが、実はこの操作を保証するには、定義や定理、命題ではなく公理(axiom)を課す必要があるのである。一種の前提でありルールのようなものである。このルールがあると、色々と都合がよい…し、それどころか、このルールがないと、論理上の困難が現れ、数学の体系の根幹自体が危うくなってしまうのである。

だがこのルールを採用するとまた、不思議なことが起こることもまた、知られている。詳しくはバナッハ・タルスキのパラドクスを参照してほしい:

バナッハ=タルスキーのパラドックス - Wikipedia

現代の数学にはいまでも、このような公理の問題が残されているし、この問題が解決されることはない。このように、数学の根幹を支える「無限」という概念には、文字通りの無限の深淵さがあるのである。

ではなぜ数学的帰納法は許されるか?ということを考えると、どつぼにはまる。「超限帰納法」「整列可能定理」について調べられるとよい。選択公理も関わってくる。

知っておきたい誤謬6: Masked man fallacy(覆面男の誤謬)

最初のおことわり

今回のポストはとても中途半端で散文的になってしまいました。査読をうけていないのがその一因です。 それでも公開するのに踏み切ったのは、意見や議論を受け付けたいという目的からです。 従って、このポストの内容を科学的弁論に採用することはおすすめしません。 しかし、意見を仰いで少しでも改善していきたいと考えております。 もちろん「生半可な知識でブログをすることの罪深さ」を自身で弾劾することは、決してしません(ブログを綴ることには、科学におさまらぬ自由が保証されている)が、 1人の科学者として恥ずかしく思うと同時に、読んでくださる方には感謝しきりです。ありがとうございます。

定義

ある対象Aが特性Pを満たす一方で、別の対象Bは特性Pを満たさない、という仮定から、AはBではない、と結論付けること。

分類

形式的誤謬

論理形式

A is P, but B is not. Hence, A is not B.

説明

覆面男の誤謬、あるいはEpistemic fallacy(認識論的誤謬)。 この覆面男というのは次のような例のアナロジーである:

I know/recognize who Bob is. I do not know who the masked man is. Therefore, Bob is not the masked man.

(Masked-man fallacy - Wikipediaを一部改変)*1

認識を事実とすり替えて推論してしまうことである。 そう、これは科学における実在主義(科学的実在主義)に対して非常に批判的な矛になり得る。

用例

そもそも覆面男自体が比喩的なものであるが、この誤謬の適用される命題は非常に幅広いことを示したい。

  • 「神が存在することを示す確たる根拠のひとつは、私の中に存在することである」(前者は事実的問題、後者は認識的問題)

  • 「なぜ、◯◯理論は間違っている、とあなたは主張できるのですか?」「なぜなら、実験して測定するとそういう結果になったためです」 (測定結果が事実に一致するという誤謬に陥っている。そうではなく、その測定条件や誤差について言及し、その測定がいかに「悪くないものか」を論ずるべきであろう) *2

分析

上の例を見るとわかるが、そうなると「実験してデータをとった研究や、現象の観察的研究はすべて、誤謬である」というヤバい結論に至りかねない。 だから科学(あるいは、科学的実在主義)の根幹には、「現象」から「データ」への「観察写像」がよい近似になっているのであれば問題はない、というドグマがあるはずである。 その意味で、観察行為はすべて現象の近似であり、モデリングなのである。

このように、「認識≠事実」は超越論的実在主義と呼ばれる立場をよりはっきりとさせる誤謬であると言える。 「社会科学に対して、自然科学のように未発見・未認識の存在を模索するアプローチを適用するのには問題がある」 という立場と 「社会科学に対して、自然科学のように未発見・未認識の存在を模索するアプローチを適用するのに問題はない」 という立場との対立が顕著であるようだ *3

すこし話がそれたので端的に言えば、「認識が事実と一致するとは限らない」ということ。認識と事実の不一致は、たとえば確証バイアス(自身の仮説や考え方にマッチするような証拠ばかりが優先的に認識され、結果として集まった状況証拠に、認識に伴うバイアスが生じてしまうこと)などによって容易に起こる。 僕の考えでは、世界が秩序をもって*4存在するのだとしても、それを観察・認識できないのであれば、存在しないと仮定するのが妥当であるかどうかは、真剣に吟味される価値がある。 たとえば「確率ゼロで起こる事象」については我々は普段、ナイーブに「存在しない事象」と見なしてしまいがちである。 だが、飛行機に乗っている時に「隣の人が大きなくしゃみをしたせいで機体が揺れ、最終的に飛行機が墜落してしまう確率」をどう理解すればいいのか分からない。このジョークのような確率は事実上ゼロであろうが、これを我々は(頭の中で)仮想することは可能である。

ちなみに僕は理論研究家として「全てのモデルは不完全である」という認識だが、「全ての観察も不完全である」と考えている。だが「全ての事実は完全である」という主張は全知全能のパラドクスを導く*5ので、ここでは強く主張はしないでおく。

なお余談だが僕は仮面やピエロのような、表情を隠すためのものに対して並々ならぬ恐怖感を抱いてしまう。これはピエロ恐怖症と呼ばれる、(いちおう)精神疾患のひとつと認定されるものである。 なぜ怖いのかも僕は自身で理解している*6

雑感

僕は自分で軽度のアスペルガーであるという認識である*7が、このことを友人に打ち明けるとたいてい (いや、嬉しいんですよ、ありがとうございます。むしろ重い話をしてすみません)、 「そういう自覚があるなら、そんなことないんだと思うよ」という言葉を頂く。 この解釈には、非常なる慎重さが要求される。自己言及のパラドクス*8と覆面男の誤謬とが交絡している。 ここは素直に、論理を突き詰めるのではなく、自身と仲良くしてくれる友人を大切にするのが良さそうだ。 *9

教訓

Seeing is believing, independently of the truth

*1:Wikipediaには、ライプニッツの法則の誤った適用、とある。この観点には非常に感心した。

*2:なお、ここには複数の誤謬があるが特に、「測定して認識にいたった」から「事実がそうである」という論理にはギャップがある、というのがここでのミソである

*3:具体的にはたとえば以前に取り扱った、規範的命題と、事実的命題とのギャップが議論の的になるのではないか、と私は推察しています。しかし、不勉強につき、理解しきれていません。どういった論点があげられるのかをご教示願いたいです! なおランシマンによると「自然諸科学と人間の諸科学との間に は,本質的に基本的な相違があるということを肯定する人々と否定する人々との間の論争は, 二百年以上も決着のつかないまま続いている」

*4:平和に、という意味ではない

*5:「なんでも行える全知全能の神が存在すると仮定すると、その神は「自分で出来ないこと」を見つけられるか?」という問題。できないなら全知全能であることに矛盾する。できるのであれば、自分で出来ないことが見つかってしまい、また矛盾する。パラドクスである。

*6:道化師は歴史的に、たとえばサーカスで「薄給でこき使われる、まるで奴隷のような存在」であった。その中の人が笑顔で客に接するためには、あのような化粧をし表情を誤魔化すしかなかったのだろう。 よってあの仮面や化粧で作られた笑顔の下に、笑顔はない。「内心なにを考えているのか分からない人」に対する心理的不信感が自然選択によって進化してきたのではないか…とまで言うと、これはover-discussionか。

だが、「恐怖症」が「予測不能性に基づいている」というのが僕の理解である。これは、高所恐怖症の友人による私信そして、「先端恐怖症」のせいで「傘を横向きに保持しながら歩行する人へのフラストレーション」を抱くようになったぼく個人の経験に基づく。あれ、身長を考えると子どもたちに対して非常に危険な持ち方であるから、絶対にやめてください

*7:時々、笑うタイミングやジョークが分からない、相手がどういうニュアンスで言っているのか分からない、相手の気持ちが分からない、という気分になることがあるためである

*8:「私はうそつきです」のパラドクス。

*9:ある友人は、ぼくの「俺ってアスペルガーやと思う?」という(絡みづらい)質問に対して、「もしそうだとしても個性だとしか思わない」という返答をくれた。僕はこの友人を一生大切にする。

知っておきたい誤謬5: Ecological fallacy(シンプソンの誤謬・生態学的誤謬)

定義

部分的な集団同士を比較した時の平均的な傾向と、全体集団同士を比較したときの平均的な傾向とが、一致しないがために、 集団間の比較による(統計的な)推論が機能しないこと

分類

非形式的誤謬

背景・説明

Simpson’s paradox。名前は、「発見者」にちなむ。*1

The Interpretation of Interaction in Contingency Tables on JSTOR

ことの発端は、我らがカリフォルニア大学バークレー校にて実際に起こった「事件」である。1975年のScience論文が驚きをもって迎えられた。

Sex Bias in Graduate Admissions: Data from Berkeley | Science

学部への入学生の男女比(男:女 の割合)を調べた所、大学全体の男女比は、著しく男に偏っており、性差別嫌疑をかけられる。 しかし学部ごとの入学者における男女比を調べたところ、この傾向は逆転し、女バイアスの入学傾向にあった。 さらに調べてみると、女受験生には、合格率の低い学部にチャレンジするという統計的な傾向が見受けられた。

つまり、競争率が高い学部で男受験者がおおくの割合で振り落とされていたが、 そうした学部は合格者数自体が非常に低いために「女性合格者数」も(当然)少なく、他の、競争がゆるい学部(大きな学部)での男受験生・合格者数の多さに引っ張られ、全体の男女比が見かけ上は男にバイアスしてしまったのである。

こうした分析により、バークレーは「社会的お咎めなし」ということになった。

この誤謬*2 はおもに、次のような原因を持つ(網羅的ではない):

  • 部分集合内における分散を考慮しないこと

  • ではなく割合で議論してしまうこと

重要なのは(いつもどおり)、 推論がうまく機能しないということ。何かを過大評価している?過小評価している?それとも公正に評価している? こうしたことが何も分からないのである。

用例

おそらく数値例を出したほうが分かりやすい。

例. 平均値合戦

数学のテストの点数を高校Aと高校Bで比較する。

  • 高校Aは理系90人(平均80点),文系10人(平均60点)

  • 高校Bは理系10人(平均90点),文系90人(平均70点)

どちらの学校が数学に関して好成績と言えるか?

(シンプソンのパラドックス | 高校数学の美しい物語 を一部改変)

高校A全体での平均値を計算すると78点で、高校Bのそれは72点なので、どうやら高校Aのほうが好成績か…? しかしよく見ると、理系平均でも文系平均でも、高校Bが、高校Aを上回っているのである。これでは、どちらのほうが「好成績か」を比較することができない。

これは、サンプル内における分散の無視が原因である。 こうした比較は、実証研究の核とも言えるものであるが、「比較する意義・目的」を考えるべきである。

  • そもそも、高校全体間で点数を比較する意義はあるのか?
  • 逆に、どのような時に専攻別で点数を比較すると、何がわかるのか?

つまり「高校○○のほうが高校✕✕よりも優秀であった」と論ずるのであれば、その前提をはっきりさせるべきなのであろう。詭弁によく見られる、前提を曖昧にする論調の一つとも言える。

なおこの誤謬、2015年にPNASで出版された論文にも見られるのである:

Gender contributes to personal research funding success in The Netherlands

オランダでは女性のほうが男性に比べて競争的獲得資金(grant)のアクセプト率が低い…というもの。 おや?どこかで聞いた話だな?ということで反論論文。

No evidence that gender contributes to personal research funding success in The Netherlands: A reaction to van der Lee and Ellemers

当該の論文がシンプソンの誤謬に陥っていることを明確にしている。 いやぁ…………これは、題材が題材だけに、むちゃくちゃ恥ずかしいですよ。 レビュアーは出てきなさい。 これは掲載取り下げしてもいいレベルだと思います、PNAS。タイトルがキャッチーなだけに。

分析と雑感:包括適応度理論

以下は長くなるので、進化生態学者むけ。

さて、これを進化生態学的なシチュエーションに置き換えてみよう。その論文が、最近(また!)PNASに出た論文。*3

The general form of Hamilton’s rule makes no predictions and cannot be tested empirically

2013年にも同様の論文。*4

Limitations of inclusive fitness

詳しくは説明しないが、クラス構造を明確にせずに遺伝子頻度の変化を計算しているミスを犯している。 ただ、「実証研究においてHamilton’s ruleを適用するのは一般には難しい」ことは意識せねばならない。 また、直感的な正しさに訴えかけすぎたという功罪も僕は認める。 というかそういう論文はすでに出ている(Akçay and van Cleve 2016):

The lineage's eye view of fitness | Philosophical Transactions of the Royal Society B: Biological Sciences

よりモダンな理論では、lineage fitnessが意味を持つ量である。そしてそれが数学的に包括適応度と等価であることが示されているのが

Invasion fitness, inclusive fitness, and reproductive numbers in heterogeneous populations - Lehmann - 2016 - Evolution - Wiley Online Library

で、Peter Taylorはグラフ理論と包括適応度理論との融合的研究を試みている:

Inclusive fitness in finite populations—effects of heterogeneity and synergy - Taylor - 2017 - Evolution - Wiley Online Library

より具体的に、次のようなシチュエーションを考えてみよう:

残した子供の数を、アリルAとアリルBで比較する。簡単のためハプロイドとする。

  • アリルAは、環境Xで9個体(平均8個の卵)、環境Yで1個体(平均6個の卵)を残した。

  • アリルBは、環境Xで1個体(平均9個の卵)、環境Yで9個体(平均7個の卵)を残した。

どちらのアリルのほうが進化的に有利か(たくさん卵を残せるか)?

全体を比較すると、アリルAは、1個体あたり7.8個の卵を残し、アリルBは1個体あたり7.2個の卵を残している。先ほどの数学テストの例と同じである。 しかし環境X,Yごとにみると傾向は逆転するのである。 よってこの「平均だけを見る」推論は機能しない。

ここでの理論的解決策は、各環境を経験する確率に関して平均をとり、そこで初めてPrice方程式を適用してHamilton’s ruleを導くこと (Açkay & van Cleve 2015, Lehmann et al. 2016)。 そう、繁殖価を考えること。Fisher (1930), Grafen (2006), Barton (2011)

The Genetical Theory Of Natural Selection : Fisher, R. A : Free Download & Streaming : Internet Archive

A theory of Fisher's reproductive value | SpringerLink

The Relation Between Reproductive Value and Genetic Contribution | Genetics

ちなみにこうした繁殖価は、Next-generation theoremを用いれば一発で導出可能。

Next-generation tools for evolutionary invasion analyses | Journal of The Royal Society Interface

もっと参考文献を挙げたいが、理論武装っぽくなるのでこのへんで。

重要なのは、「異なる環境にさらされると、同じ遺伝子コピーでも、違った子供の数を残すことがある」という点である。 実証研究でこれが難しいのは事実であろう。 しかしこれは理論の失敗ではなく、実務的な困難さなのである。

こうした論争によって、不幸せが生み出されている。

教訓

でも幸せならOKです!👍…幸せならね。

*1:ecological fallacyの"ecological"は、生態学者が犯しやすい、という揶揄の意味ではなく、群(集団)と個別(個体)との傾向の不一致に関する誤謬であるからである。

*2:Simpson’s paradox、というふうに「パラドックス」として扱う流儀もあるが、ここでは推論として機能しないという理由で、誤謬とした

*3:これはあくまでE.O.WilsonがNAS会員だから出版された論文なのである。いわゆるNAS会員による「権威論文」でしかない。要注意!!

*4:これもNAS会員論文。

知っておきたい誤謬4: Circular reasoning(トートロジー・循環論法)

定義

仮定Xから結論Xを導くこと。

論理形式

X now holds true. Therefore, X holds true.

命題Aが成立すると仮定する。このとき仮定より、命題Aが成立する。

分類

形式的誤謬。

説明

Tautology、トートロジー。 推論の価値というのは、仮定Xとは別の結論Yを導くことにある。 よって仮定から出発してそれを導いても、何も新しいことは分からない。 推測される結論Yを、仮定Xから示そうとした場合に、人はなぜか、Yから議論をスタートしてしまうことがある。 これは典型的で模範的なトートロジーである。だいたいは人の混乱からやってくる。

例を挙げるために特別に、セクションを設けて詳しく説明する。

例: 循環定義

次のような定義は循環定義と呼ばれる:

実数値の数列\( \{ a_{n}\} \)が \( n \to +\infty \)で発散するとは、\( \{ a_{n}\} \)が収束しないことと定義する。

また、\( \{ a_{n}\} \)が \( n \to +\infty \)で収束するとは、 \( \{ a_{n}\} \)が発散しないことと定義する。

これは数学的な文脈*1だけではなく、言葉にしにくい(抽象的な)概念を定義しようとするときに、容易に起こりうる。

明るいというのは、暗くない状態を指す。暗いとは、明るくない状態を指す。

具体的であるとは、抽象的でないことである。また、抽象的であるとは、具体的でないことである。

これは卑近な例であるが、ゼロから出発して何かに定義を与えるというのはとてもむずかしい作業なのである。 たとえば、テーブル:

テーブルとは、平な板…いや、平でなくてもよいか。板に足が4つついて…いや、3つ、1つ、いろんな足の数がある。木製…いや鉄製もある。。えーと、ということは何かを載せられて…いや、載せられないものもあるか…

少なくとも平易に「テーブルを網羅的に定義する術」が見当たらない。 こうした時、循環定義は悪魔の笑みを浮かべ、あなたのことを見守っているのである。

余談だが、テーブルを定義できない僕でも、英語のTableと日本語の「テーブル」とをconsistentな概念と一致させ、テーブルを見たときにそれをそう認識することができるは、自明な認識論で説明できそうにない。しかし、テーブル/Tableと、名前を獲得した概念がたしかに、僕らの認知を許すのは、興味深いことではないだろうか。こうした(観点に徹する)立場は唯名論と呼ばれる*2。名前がついていないものを僕らは認識できない、という考え方である。いかが思われるであろうか?

用例

  • 「ようこそ我が村へ!ここではまず、銀行口座を開設するためには、居住証明書が必要です。あ、あと居住を得るためには、銀行口座を開設せねばなりませんので、よろしくお願いしますね」(双方が互いの必要条件になっている)

  • 「この部屋にネコはないとする。ということはこの部屋にいるネコは全て真っ黒であると仮定してもよい。同じ理由で、この部屋にいるネコは全て真っ白であると仮定することもできる。つまり、この部屋にいるネコは全て真っ黒かつ真っ白である。これは不合理であるから背理法により、この部屋にネコはいると言える。しかし明らかにネコは見当たらない。故にこの部屋にネコはいない

後者は、思い返してみると実は非常によくある論理であるが、ベターな例が思いつかない。

ジョークもいくつか挙げておこう。

  • 「知っている人は知っている」

これはレトリックへの揚げ足取りか。

  • 「オレはオレや!!他の人とちゃうんや!」

騙されるな。オレを定義しろ。

分析と雑感:Is Darwinism tautological?

Neo-Darwinismはvacuous tautology*3 であるという批判をC. H. Waddingtonは果敢に展開している

Natural selection is that some things leave more offspring than others; and you ask, which leave more offspring than others; and it is those that leave more offspring; and there is nothing more to it than that.

Darwin's Enigma: Mr Fred Harding: 9781512003970: Amazon.com: Books

Darwin Retried: an Appeal to Reason: Norman Macbeth: 9780876451052: Amazon.com: Books

これを堂々と認める立場もある。例えば

ゼロからの論証 | 三浦 俊彦 |本 | 通販 | Amazon

なお、この言説は容易に、Price方程式がトートロジーかどうかという批判に換言され得る:

Talk:Price equation - Wikipedia *4

これに対しては

Why do people still use Price's Equation even though it is not a model but a mathematical identity? - Quora

Natural selection. IV. The Price equation (S. A. Frank, 2012)

Natural selection. IV. The Price equation - FRANK - 2012 - Journal of Evolutionary Biology - Wiley Online Library

などで詳しく説明されている。進化生態学者は必読。

余談: Vacuous Truth(空虚的事実)

上のネコの例に戻ろう。 同例において、発言者は、存在しないネコについて主張を行なっている。 これはいかなる命題も正当化する(偽の仮定から導かれた主張は常に真である、という論理学における基本的な事実に基づく)。 そこから導かれる結論は意味がない。論理的には正しくても、である。

より正確には、主張をもっと論理的に詰めることが可能である。 「この部屋のネコの色」について言及するのであれば、「この部屋にネコが存在する」ことを仮定せねばならないのである。 これを怠っているがために、ちんぷんかんぷんな議論になってしまっている。

これは非常に重要な推論の性質であると言える。現に、次の命題の真偽を判定できる人は思った以上に少ないだろう:

二項関係「〜」*5 において、

「反射律」とは、「A〜Aである」ことである。

「推移律」とは、「A〜BかつB〜Cならば、A〜Cである」ことである。

「対称律」とは、「A〜Bならば、B〜Aである」ことである。

今、対称律と推移律を満たす二項関係「〜」があったとする。 対称律より「A〜BならばB〜A」なので推移律における「A〜BかつB〜Cならば、A〜C」のCをAに置き換えることができて、「A〜A」が導かれる。よって、推移律と対称律から反射律「A〜A」が得られる。

この論証は、vacuous truthによる誤った論証である。

教訓

脳内でひよこがcirculateしているぞ!落ち着け!

*1:なお実数列が収束するという挙動に定義を与えるのは、知っていれば難しくない。

*2:おそらく、人が「名前をつけ」、「分類する」のは、認識することが目的にあるのだろう

*3:vacuous tautology、あるいはvacuous truthについては、下で詳しく説明する

*4:現にそのような論文も出版されているほどだ…

*5:ややこしければ、等号(=)をイメージして頂けると具体的で分かりやすい