Life is Beautiful

主に進化生物学の理論のブログです。不定期更新予定。

「笑い」の理念追究

「我々はなぜ・なにに笑うのか?」というのは、我々人間の特徴を知る有力なヒントになるかもしれません。今回は、「笑い」の中でも特に、「優越の笑い」について分析したいと思います。

笑いは大事!

私は「お笑い」全般が好きなので、漫才をよく見ます。また、地元の文化的にも友達同士でジョークを言ったり、ボケ・ツッコミの二型化があるように見えたり。ジョークを口にするという環境で生活し、芸風を獲得してきたように思います。自分がオモロイかどうかはともかくや。。

信ぴょう性と検証可能性については私はここではケアしていませんが、故・Robert Provine博士の本は有名です。10年ほど前に読んだ以下二冊の本では、「笑い」の(進化)生物学的な意義とミステリーについて解説されています。

www.kinokuniya.co.jp

www.hup.harvard.edu

後者は、笑い(の伝染)だけでなく、あくびやしゃっくりの意義に関する仮説も紹介した本で、日本語にも訳されています。

www.kinokuniya.co.jp

英語学習者のバイブルとも言えるHow I met Your MotherもFRIENDSも、そしてMr. Beanも、すべてlaugh trackと呼ばれる、哄笑の機械音声をプログラムに挿入しているのは有名な話です。「ここで笑え!」というポイントを明示してくれているわけですね。日本のバラエティ番組、たとえば「マツコの知らない世界」や「マツコ&有吉 かりそめ天国」という番組でも、スタッフの笑い声(と思しきもの;機械音声かどうかは知りません)が挿入されていますね。人が笑うという行為は普遍的性質であって、しかも伝染するということもあり、我々は笑いとは切っても切り離せない社会生活を送っていると言えるでしょう。

笑いの技術

しかし実際に社会で生活していて笑いを生み出すのは簡単なことではありません。正確に言えば、「面白い笑い」を生み出すのは簡単ではありません。

「面白い笑い」とはなにか?福井直秀博士は、面白い笑いの特徴は、「落ち」あるいは「すかし」にあると説いています。

sekaishisosha.jp

同書でも引用された有名な落語に、「宿屋の仇」があります。

日本橋の河内屋太郎兵衛という宿屋の前に立った一人の立派な侍、赤穂明石藩の万事世話九郎と名のる。昨日は泉州岸和田の浪花屋という宿で、巡礼やら相撲取りやら夫婦者と部屋を一緒にされ、騒がしくて一睡もできなかったので、今夜は静かな部屋を頼むといい、宿屋の伊八に銀一朱を渡す。

 伊八が侍を二階の部屋に通すと、あとから来たのが兵庫の若い三人連れ、伊勢参りの帰りというやかましい連中。伊八は連中をうっかり侍の隣の部屋に入れてしまう。

 伊勢参りを無事に済ませて気も緩んで、三人連れは風呂で大騒ぎをした後、酒、さかな、芸者をあげてのドンチャン騒ぎだ。侍が伊八を呼んで怒ると、連中は侍と聞いて芸者を帰し寝床につく。三人の頭を合わせて寝る、巴寝というやつだ。

 三人はすぐに寝床で相撲の話を始めて熱中し、起き上がって相撲を取り始める始末だ。「ハッケヨイ、ハッケヨイ、残った、残った」、ドスンバタン、痛い!、その騒がしいこと。

 侍が伊八を呼んでまた怒ると、連中は今度は力の入らない女の話、色事の話を始める。源兵衛という男が、自分は3年前、高槻藩高山彦九郎という武士の奥方と密通し、現場に現れた弟と奥方を殺し百両盗んで今だに捕まらないと言い出す。

 これを聞いたあとの二人はすっかり感心し、「源さんの色事師、色事師は源さん」なんて大声で囃し立てるからたまらない。またもや侍は伊八を呼ぶ。

 実は、自分は3年前に妻と弟を殺されて、仇を探している高槻藩高山彦九郎という者だ。隣の部屋にいる源兵衛がその仇と分かったので、今ここで仇を討つという。

 びっくりした伊八が隣の部屋に飛び込んで源兵衛にこのことを話すと、源兵衛はさっきの話は嘘で、三十石船の中で聞いた話だと白状する。

 伊八から嘘と聞いてもむろん侍は承知せず、源兵衛を一晩伊八に預け、明朝、日本橋で出会い仇ということにし源兵衛と助太刀の二人も討つといい高いびきで寝てしまう。

 床の間に縛られ、伊八たち宿の者に見張られ、一睡もできずに夜が明けた三人組、生きた心地もしない。

 一方、侍はぐっすり眠り早起きし、宿賃を払うと出立だ。伊八が仇討ちの件を問うと、

侍(大声で笑い) 「伊八許せ、あれは座興じゃ、嘘じゃ」

伊八 「嘘!? 一人でも逃がしたらあかんと、皆寝ずの番をしとりましたのに、なんであんな嘘をおつきになりましたので」

侍 「ああ申さんと、また夜通し寝かしおらんわい」

我々は初っ端から、「ああ、そんな因縁のある人の部屋の隣でドンチャン騒ぐがばかりに、3人は命を落とすことに鳴るのか…」と期待するわけですが、最後の言葉でズッコケるわけです。スカされるわけです。見事に期待を裏切られる。このやりかたは、友人や同僚と話しているときに話し上手な人がよくやるテクですね。

そうした落ちを設ける話し方には、練習が必要です。一種のプレゼンテーションとも言えるでしょう。私は落ちがない話には価値がないとまでは言わないのですが、お笑いの典型、つまり初手技術としては、身につけておいても良いのではないかと思ったりもします。

笑いの哲学

上で話した内容は、いかに「面白い笑い」を生み出すかという点で、応用的といえます。しかし、実は「面白い笑い」には、哲学的研究が多くあります。私が面白いなと思った本では、笑いには、「優越」、「不一致」、「ユーモア」というタイプがあると唱えられています。この「優越」が今回の焦点です。

bookclub.kodansha.co.jp

なんとトマス・ホッブスは、『リヴァイアサン』の中で、笑いについて解説していたのです。ホッブス曰く、笑いとはなにか?それは、「優越」であると。優越の笑いといえばわかりにくいが、要は、「自他の尊厳を損ねる笑い」と思えばよいと思います。そしてホッブスは手厳しくも、「優越の笑い」(つまり、人の尊厳を損ねるジョーク)に対して笑うのは小心者である、とバッサリ断罪しています。

面白い例が同書では紹介されています。それは、アリアナ・グランデさんが、民放番組の「スッキリ!」に出演したときのことでした。

bunshun.jp

同番組の近藤春菜さんは、容姿いじりに対して「いやシュレックじゃねえよ」、「いや温水洋一じゃねえよ」とツッコむ芸風なのですが、グランデさんはそれに対してクスリともせず、「あなたはシュレックには似ていない、可愛いですよ」といったコメントをされたとのことです。この番組の視聴者の間では、このやりとりが賛否両論だったのは非常に興味深いところです(賛:グランデさんの人格の素晴らしさ; 否:いわゆる「ボケ殺し」)。私は、国際文化交流には慎重さがあるべきと考えているので、近藤春菜さんのアプローチは適切ではなかったのではないかなという立場です。

自虐的笑いの難しさ

尊厳を貶める笑いは、自己に対して向けることもできます。いわゆる「自虐ネタ」です。自虐ネタは、優越の笑いの構造を逆手にとり、自己を低め周りを上げ、その高低差で笑いをとるという芸風といえるでしょう。しかし自虐ネタが機能するためには、3つの構成要素が必要です。一つは、自虐ネタを発した者が社会から高い評価を受けていること。そしてその高い評価が、発話者を含む関係者(笑う側の人間と笑わせる側の人間)に浸透していること。そして最後の一つは、「笑って"あげる"、"優しさ"」です。   そもそも、社会から高い評価を受けているわけではない人間が自虐ネタを発したとして、それは、笑いには繋がりません。文字通り「笑えない」からです。そして高い評価が自己評価であってはいけません。自虐ネタを集団的笑いに転ずるためには、「その自虐を笑ってよい。それは、この人は本当は社会から高い評価を受けているからだ」という共通認識が、笑う側に必要です。最後に、自虐ネタを笑ってあげる態度が必要です。言い換えると、自虐ネタには、社会がそれを笑ってあげる優しさへの依拠や甘えがあるのです。

ちなみに、「自虐ネタ」が機能するための条件を満たしていない「自虐ネタ」には、次のような問題もあります。

  • 自虐ネタ内容に同意すると、相手の尊厳を傷つける。
  • 自虐ネタ内容に反論すると、相手の意見を否定する。

つまり悲観的帰結しか導けないのです。私はこのことを、自虐ネタの縮退性と(勝手に)呼んでいます。自虐ネタ Xを引数とする2つの異なる関数、「同意関数」と「反対関数」が、多かれ少なかれ類似している「否定的態度」しか値をとれないようになっているのです。つまり自虐ネタ集合は、空間としてはちょっと「潰れている」ように思われるのです。

優越の笑いの問題

こうして自虐ネタを例として考えてみると、優越の笑いの背景には、社会的通念が必要ということがよくわかります。「社会での認識や態度はA。話者のポイントはB。A>Bである。ゆえに面白い」という、社会の価値観やそのフレームからは逃れられない論理が働いているのです。私がlaugh trackの利用や、バラエティ番組の華美な強調テロップに問題があると感じるのは、そうした理由からです。番組が面白いと定義した点で笑うのは良くない。

日常的にも、誰かが誰かをけなし、それを笑う、という状況はあると思います。そのとき、笑う人もいます。でも私は、何も考えずに笑ってはいけないと思います。自分が面白いと感じた、見事だと感じたときにこそ、笑うべきであると思います。だから私は、自分にとって面白くない「優越の笑い型」ジョークにはスルーを決め込む傾向があります。もちろん、「私はどんな優越の笑い型ジョークにも笑わない」とは言えないわけですが。

極端に言えば、社会的通念を悪用した笑いには笑ってはいけませんし、「なんとなく面白いから」でも笑ってはいけないと私は思います。

優越の笑いを用いるのは、簡単ではないのです。そして、そのやりかたでは、社会の価値観から自由になれていないのです。そして笑う側をも、その社会的通念の中に閉じ込めてしまうのです。だからこそ、「優越の笑い」のイデオロギーに抗うためには、理念確立が必須だと感じるのです。そして、優越の笑いを、社会的通念をうまく利用して別の笑いに転ずる。この技術が「優越の笑い」エンドユーザーには必須なのです。

最後に

ちなみに私が、「社会的通念」をうまく利用した芸風だなあ、と最近感服した芸人は、ふかわりょう さんです。ふかわりょうさんは、競争激しいお笑い業界のなかでも、長く活躍されている方です。その理由が少しわかった動画があります。

www.youtube.com

他のネタもぜひ観ていただきたいのですが、社会で人々が認識していなかった現象をうまく抽出し、「あるあるネタ」として名前をつけているのです。これは、現象をモデリングするという技術とも似たところがあるのではないかと思います。この点は(私の好きな芸人である)有吉弘行さんもとても得意なことで、先述の「笑いの哲学」では、「不一致の笑い」の技術として解説されています。ぜひ読んでみてください!

Oxfordで学位審査してきた

10/7-13の間、Oxford大学に行き、学位審査の外部委員として仕事をしてきました。初めてのOxford、初めての審査ということで、少し緊張しながら渡航したのですが、かえがたい経験をしました。日記を兼ねて綴っていた内容なので長いですが、ひょっとしたら参考になる部分もあるかもと思い、こうして公開しています。

依頼着弾: 件名“Hi”のeメール

ある日、Stu Westさんからメールが届きました。彼と知り合ったきっかけはこちら:lambtani.hatenablog.jp 現在はOxford大学で進化生物学教授として働いておられ、scientific papers made easyという素晴らしい本を出版したばかり(素晴らしい本です!これを読んでから自分のwritingスタイルが変わったとすら感じます)。2021年には私も、性比の進化に関する一連の理論研究を、共著論文で発表しました。

メールの内容は、学生の“viva”の外部審査員になってくれないかというもの。日本からは遠いし申し訳ないのだが旅費も払うしヨーロッパをタダ旅行する良い機会だと思って検討してくれないか、という話でした。

Viva(ヴァイヴァ)というのは、イギリスの学位審査会議のことで、外部審査員と内部審査員と候補者の三人で、学位論文について徹底的に議論して、候補者に研究内容をdefendさせるというものです。特長は、この三人以外には部屋には入れないこと、そして口頭発表が無いことです。その外部審査員として、私が呼ばれたのです。

メールを読むと、内部審査員はAlan Grafen教授。動物行動学を理論化、つまりformalizeした方です*1。特に、Zahaviの「ハンディキャップ原理」を定式化したという論文*2は、今でも金字塔的研究として高い評価を受けています。ちなみにAlanの日本での評判は、「intenseな人」。正確には全世界共通の評判がそうです。そして本人もそれを知っているし認めています。私や周りも、本人に冗談でintenseだと言いました。ここまで状況証拠が揃っていないとここには書けません。*3そんな方と議論できる機会自体が貴重だとまず思いました。

結局、何人かの人に相談して決意を決め、お話を引き受けることにしました。なぜ戸惑ったかというと、自分がそんな重荷を背負うと思えるだけの矜持がなかったからです。学位を取ったのは7年前で、まだまだぺーぺーッスから自分、という自覚が抜けないのです。しかし、こんなチャンスは人生でもう無いかも、とも思ったのです。引き受けます、と返事すると、相当喜んでもらえました。そうなるともう引き返せません。ほな、やったろやないか。

渡航前の準備

しばらく経って、Oxford大学の事務からメールが届きました。実はその頃、私はコロナにかかっていて数百通ものメールを見落としており、返事がとても遅れてしまいました。同じメールのリマインドで気づき、正式に承諾のサイン(といっても、フォームを送信するのみ)を送り、大学から学位論文と審査のためのガイドラインを受け取りました。

そのガイドラインは書類としてはなかなか分厚く、目を通すのを早々に私は諦めました。しかし幸いにもチェックリストがあったので、まずは事前にやるべきことを確認しました。

  • 学位論文を隈なく読む
  • vivaの日を決める
  • 旅程を決める
  • 飛行機をとる

まあ、あたりまえのことです。書類が分厚いのにはわけがあります。候補者がdefendに失敗したとき(rejectionあるいはmajor revision)に、不服申立てをする権利は当然あるわけで、大学はフェアな判断をするために、さまざまなルールを明文化しておかないといけないわけです。時として訴訟にもなりますからね。大変だけど、理にかなっていることだし、まあ仕方ないねと思いました。

旅程を決めた後

そうこうしているうちに、内部審査員のAlanからメールが届きました。とても優しく丁寧で分かりやすいメールで、「dinnerを一緒に食べよう」ということになりました。そして、vivaのために滞在する期間の、St John's collegeというところの宿を予約してくれました。ちなみに、晩御飯を食べようねという話を、Alanはやりとりするなかで三度の電子メールで、言及してくれていました。後からわかったのですが、Alanはその約束をとても楽しみにしてくれていたそうです。詳しくは後述。

次に、Stuからメールが届きました。Vivaのためだけに来てもらうのは勿体無いから、ラボのメンバーとお話しする機会を作ろう、と言ってくれました。Vivaが終わってからしばらく滞在していいとの事で、New Collegeに残りの滞在期間の宿をとったよと言ってくれました。

Collegeとはなんぞ

さて、二つのcollegeを行き来することになって疑問に思ったのですが、そもそもcollegeとは何でしょうか。これは、Oxfordの特殊なシステムに付随する大学組織のことです。Oxfordは、研究に集中するUniversity of Oxfordと、学部生が学業し生活するcollegeとが合わさった組織になっています。学部大学と大学院大学のようなものなのですが、 collegeごとにいろんな専攻があり、それらは重複しつつ幅広い分野を学ぶことができます。

Collegeには教授がチューターとして在籍していて、色々な相談にも乗ってくれます。その教授たちは大学院にも職を持つのですが、給与は、大学院とcollegeとで分担しているのだそう。Stuは100パーセント大学院から給与が出ていてcollegeでのデューティーは特にはないそうです。学生にとって、大学院にもカレッジにも居場所があるのは良いですね。

旅費

厄介そうなのが旅費。ガイドラインを見てみると、建て替え方式。レート次第で足が出るのは辛いですが、基本的には食事と宿泊費をあわせて一日150ポンドまで面倒をみてくれるそうで、かなり余裕がありました。今のレートで言えば27000円程度。かなりの余裕があります。

さらには、ホストとなる研究者にもお金が出ることになっていて、私をもてなすのに必要になった経費は(身内の飲み代なども含めて)すべて研究費から出るのだそうです。もちろん上限はあるはずですが、これはすごい。人と会ったり話すことは研究においてもっとも重要な機会であることが共通理解になっている。

ただ、経費は実費・立替。そのためレシートをすべてとっておく必要があり、それが少し大変そうでした。とはいえ、(イギリスの研究員としてw)アメリカで働いてた時も同じでしたし、こまめにレシートを撮影しメモを残し、ケースにいれて保管、という方針でなんとかすることに。Alanがことあるごとに「レシートはちゃんととってあるか?」とリマインドしてくれました。

ちなみに、飛行機代は、ノロノロしてるうちに吊り上がってしまい、エコノミーなのに56万円しました。流石に申し訳なくて、StuとAlanに陳謝。しかし「全部払うから問題ないよ!」と言ってくれました。

とにかく、お金の心配はしなくて大丈夫そうでした。ややこしすぎるため、日本国内移動費は、自分の研究費から出すことにしましたが、まあそれは仕方ないと諦めました。また、wifiルーターも日本で研究費を使って借りました。

学位論文を精読する

さて、私は年に20件程度は論文の査読をしますし、論文審査には慣れているのですが、なんせ学位論文は、内容も厚いし大変。全部で200ページ程度の論文を、計画的に四日間にわけて読みました。ラボにもよるとは思いますが、私が審査した学位論文は、イントロと議論に挟まれる形で出版論文がいくつか束ねられていました。今回の候補者は学生として生産性が高く、審査自体は「楽」な方だったと思います。しかし、学位審査というのは、出版されてるからOKということでなく、学生の理解を確かめ、解析の過不足を指摘し、全体の構成を分析し、科学者としての貢献を見る、という作業です。何度も何度も読み返し、気になるポイントをありったけ書き出し、メモとして残し、自分なりの整理を行ないました。

この作業は、非常に自己教育的でした。とてもよく知っている分野に、よく知っている手法について、自分なりに不明確なポイントを抽出するだけでなく、自分が理解していても相手が理解しているかどうかを確かめたいポイントを具体化するのです。ここが、論文査読とはまったく違うポイントでした。What I know is not what you know, and what I do not know is not what you do not know. 当然、相手の理解を確かめるために、基礎的な質問をすることも必要です。

計画的に、しかしそれなりに時間をかけたこともあり、全体を隈なく読んで自分なりの論点は整理できたので、自信を持って空港に向かいました。

Oxford Day 1

朝の飛行機にも無事に乗り、ロンドンで一泊してOxfordへ行くことにしました。ロンドンにはいくつか空港がありますが、今回選んだのは後述のわけあってヒースロー。そして調べてみると、ヒースローからOxfordには直通バスが走っており、それを利用することにしました。

なお、入国審査は自動化されており、とても簡単!行列は長かったのですが、すんなり入国できました。昔はもっと面倒くさかったですよね。日本のパスポートの偉大さには感謝です。

さて、Oxfordには大きなバス駅があり、ヒースローのターミナルでバスのチケットを購入しました。3ヶ月以内なら往復に使える安いオープン・チケットがあったので、それを購入しました。仕組みはよくわかりませんでしたが、TheAirlineという会社が運行するThe National Expressバスを利用し、100分ほどで終点のOxford City Centreまで行きました。

ちなみに、私がロンドンからOxfordへ向かうその日は、アーセナルとマンシティのビッグマッチ。チケットを買って観戦したい気持ちと、パブで観戦したい気持ちと、審査前にコロナ感染リスクを高めたくない気持ちの間をと……れず、大学宿で観ることを決意。しかし、当たり前なのですが、大学の宿の部屋にテレビなどあるわけがありません。また、日本で契約してるスポーツ観戦ストリーミングサービスが外国で視聴できるわけもありません。結局、試合を観るのではなく、部屋でスコアをライブ更新する陳腐な応援となりました。とほほ。とはいえ、アーセナルは実に12試合ぶりにマンシティに勝利!数年間の長い負の歴史に終止符を打ち、幸先良いVivaスタートを切りました。

観光

宿が予約されてあるSt John's collegeまで歩いて行き、受付に行き、チェックインを行う前に荷物を預かってもらうことにしました。予約をどのように伝えたら良いのか分からなかったのですが、自分の名前よりも教授の名前を伝えたら一発でした。「I'm a guest of Professor Alan Grafen.」

チェックイン時間までに、brunchのお店や、自然史博物館、数学研究所に足を運びました。ペンローズタイルも拝むことができました。

Oxfordの数学研究所のThe Andrew Wiles Building。床はペンローズタイルになっている。

それにしても伝統ある建物には圧倒されるばかりでした。そしてOxfordは大学ダウンタウンよろしく、見渡せば学生たち。観光客も多い感じはしました。(珍しいらしく)天気も良かったので、観光は大満足でした。

St John's dinner: “Formal dinner”

Dinnerをとるとは言ったものの、場所はどこかわからないし、きっとAlanほどの方なら素敵な場所に連れて行ってくれるのだろう、ということで、嵩むながらも頑張って持ってきた、シャツ+ジャケット+革靴に着替えました。Alanとは待ち合わせをしていたので、時間通りに場所へ向かうと、ガウンを着たムッシュと遭遇。Alanでした。挨拶を交わし、dinnerに行く前に、ラウンジでゆっくりすることにしました。

このSt John'sのラウンジというのが、コーヒーやフルーツやソフトドリンクが無料提供された静かな場所で、圧倒的な福利厚生の充実を感じます。

ラウンジ。下段にはコカ・コーラなどの種々のソフトドリンク。紅茶・コーヒー・果物・水はいずれもフリー。ただし、ペットボトルでの提供はありません。素晴らしい!

そのラウンジで手渡されたのはシャンパングラス。そして、ガウンを着た知らない数人の方々。うち一人は、St John'sの学長とのことでした。挨拶を交わし、ダイニングホールへ行くことに。そう、レストランというのはSt John'sのレストランのことだったようです。

するとそこは壮観も壮観。ガウンを着た学生たちがびっしり座った、美しいHallでした。そのHallのなかでも敷居が物理的に高いステージのようなテーブルに我々は着席しました。そこはハイテーブルと呼ばれるところで、特別な来賓席なのだそうです。Alanは私にしきりに、学長の隣つまりセンターに座るよう言いました。総選挙も行なっていないのにいいのだろうかと思いつつ、Alanがとにかく丁重にもてなしてくれたので、それを断るのは失礼にあたると思い、自身の場違い感を恥じつつも甘んじて着席。すると学長が裁判官のようにガベル)でテーブルを叩き静粛を知らせ、開会の挨拶を行いました。「携帯電話で話すのはナシ。遅刻した人は入れません。楽しんでください。」そうした宣言がなされ、dinnerが始まりました。

Dinner前の聖歌。

まず時間ピッタリに前菜が通され、赤ワイン・白ワインを堪能しました。学長に話を聞いてみると、このdinnerはどうやら、Formal Hallと呼ばれる会で、ガウンを着たり着飾ったりして、人を招待しながら、dinnerを楽しむ場なのだそう。小綺麗な格好で入ってよかったです。ちなみに私は魚を食べるはずだったのに肉が届き、給仕さんが慌てて戻っていきました。そして給仕さんが、学長に頭を下げていました。ハイテーブルのゲストに失礼を働いてしまった、と落ち込んでいましたが、学長は、気にすることはない、君は素晴らしい仕事をした、と伝えていました。優しす。

そんな楽しいdinnerではAlanと、色々な話をしました。私がRobert MacArthur、William D Hamildon、そしてRonald A Fisherを尊敬していて、数理生物学を始めるうえで多大な影響を受けたということ。指導教官だった巌佐先生との話。Alanの提案した血縁度の解釈法には、「Grafenの秤」という日本語表現が定着していること(これは、とても喜んでいました)。生物学における数学教育の必要性。理論を構築するとはどういうことか。 本当に貴重な時間だったと思います。

夕飯が終わり、ラウンジに戻り、コーヒーを楽しむことに。しかし、私は時差ボケもありしんどさが残っていたので、9時頃にはお暇を頂きました。

ちなみにAlanはこのFormal Hallの美味しい食事が大好きなのだそうです。確かにワインとご飯が信じられないほど美味しかったです。ただ私は、伝統あふれる場に圧倒され、細かい匂いや風味などまでは味わいきれなかった感は否めません!次回に期待。

St John's の客室の残念だったところ

まあ、これはAlanには直接伝えたことなのですが…

  • バリアフリーとは程遠い!何度も急な階段を登らないといけない! 重いキャリーケースを持っていると、階段での持ち運びが地獄。泣いた。
  • 一時間ごとに鐘が鳴る! 夜中でもお構いなく鐘が鳴るので、1時間毎に目が覚めました。ご丁寧にも4時には4度、5時には5度の鐘が鳴るため、夜中に目覚めては時間を自覚させられたのが、時差ボケ野郎にはしんどかったです。多少は耳栓が役に立ったと思います。

Oxford Day 2

内部審査員Alanとの打ち合わせ

Vivaを行う前日、Alanと打ち合わせをすることに。どのようにvivaを進めるかについて話し合っておかないと、候補者にとっても審査員にとってもunhappyな時間になってしまうためです。

ここでもAlanとたくさん話をしました。

  • 内容についての質問が厳しすぎるのは良くない。候補者を次のステージへ送り出すためにencourageする場、というコンセンサスが肝要。
  • 候補者がdefendできる余地を残すことが大事。もちろん、かんたんすぎる質問はだめではあり、generalな質問を行い、候補者の考えを聞く。

そうした一般的議論の後、各章について、自分はこう思った、こういう質問をしようと思う、いやそれはどうだ、ああそれは重要だ、といった議論を、休憩や雑談を挟みつつ、4時間ほど行いました。このように、審査において透明性の三角形とでも言うべき関係を保つことは非常に重要だと私は思いました。このあたりが、論文の査読や、学会発表、そして(私が知る)日本の学位公聴会とは、全く違うところです。その話し合い自体も非常に勉強になりました。

Stuとの散歩

その後は、Stuと待ち合わせをし、8年ぶりの再会。ビッグハグからのスタートです。しばらく歩いて喫茶店Flat whiteをテイクアウトし、Oxfordをキャンパスウォーク。Oxfordについてはもちろん、研究情勢、共通の友人の話も含め、本当に色んな話をしました。

1時間ほど歩いたら、Stuのうちに近づいたということもあり、Stuの家でソファに座ってダベることに。そこにパートナーのAshleighも帰宅し、三人で雑談をしました。Stuの趣味はボードゲームなのですが、「スーツケースにスペースある?」と聞かれたのでイエスと答えると、Gods love dinosaursをくれました。持続可能な生態系サービスを構築・維持することで恐竜を増やしていくゲームです。Stu自身のゲームのレビューはこちら

夕方になると、Stuに山崎の梅酒を託し(これはイギリスでも買えることが発覚し、一人がっくり)、部屋に戻りました。食事をとろうかと思いましたが、あまりにしんどかったので、日本から持ってきたBase Foodのパンを齧って寝てしまいました。

Oxford Day 3

Viva本番前

Viva本番となるとさすがに緊張もするので、事前に尋ねたい内容を再確認しておきました。取りこぼしがあっても、事前に内容をAlanに共有しているので、安心は安心なのですが、自分の言葉で尋ねたいですよね。

なお、St. John's collegeの朝ごはんは、なにやらハリーポッターに強くインスパイアされたもの(いや、たぶん逆だと僕は思う)らしいのですが、私はハリー・ポッターを一話も観たことがないという貴重な人材なのです。しばらくはこの立ち位置はキープしたいものです。

Viva 本番!

さてさて。待ち合わせ時間に行くと少し時間があったので、Alanと、最近のSchur-convexityとmajorizationについて議論しました。生態学・進化学においても必ず重要なクラスの理論になると思うので、その内容を熱意を持って説明しておきました。Vivaの時間になると候補者が登場し、挨拶をかわし、入室。150分の長い議論が始まりました。

準備通り進められていたので、基礎的なものからchallengingな質問まで、準備しておいたものは一通り尋ね、議論もしました。私は英語は学生の頃に練習していたということもあって「普通には話せる」のですが、その経験がとても活きたような気がします。言いたいことをまず日本語で考えて英語に変換するのではなく、最初から英語を話す、というのは、意識的訓練では身につきにくいのかも知れませんが、私は幸いそれはできるので、議論自体はスムーズに進んだと思います。とにかく、「英語を話し、聞き、書く練習」はしておいたほうが良いと思います。ChatGPTは(まだ)、あなたの代わりに話してはくれません。

Viva終了

Vivaが終わると、候補者は出ていき、私とAlanは書類仕事。内容を忘れぬうちにviva報告書を書き、二人でその内容について一文一文同意をとりました。私がサインすれば完了というところまで済ませて、二人でPubへ向かいました。Vivaの後こそPubでしょ!という文化がいかにもBritishでいいなと思いました。私とAlanは先に二人で一杯やっていたのですが、あとからStuたちがやってきました。Stuは、「候補者よりも審査員が先にPubで飲んでるの最高だな!」と笑っていました。

Pubではとにかくたくさん話をしました。打ち上げはいつも最高です。

Oxford Day 4

楽しい打ち上げは私は23:00ごろにお暇したので、無事に起床。その日はちょうどチェックアウトで、New Collegeという別のカレッジに移動しました。今日は、Stuのラボを尋ね、みんなと研究の話をする日です。荷物を預けてNew Collegeから生物学科の建物に急ぎ足で向かっていると、なんと…

修士の頃に同じラボで研究していた友達とバッタリ。なんたる奇跡!! 彼はMedDocを取得したのち、Oxfordに留学していて、渡英10日が経った頃とのこと。喜びのハグを交わし、別の日にお昼ごはんの約束をかわしました。

Stuのラボがあるカレッジに着き、まずはマスターの学生と議論。その後は、お昼ごはんにでかけ、帰ってきてポスドクや博士の学生とも議論。結局、5時間ほど、学生やポスドクたちとずっと議論することができました。夜にはインド料理屋さんへ行き、美味しいご飯を食べました。

StuはそのままNew Collegeまで送ってくれて、そこでもハグを交わし、一旦サヨナラ。viva業務は無事に終わりを迎えたのでした。

(ちなみに翌日は、僕の渡英を噂で聞きつけてくれた人と会って研究議論を交わしたりしながら過ごし、翌々日に飛行機に乗って無事に帰国を果たしました)

大変で楽しかった

このviva審査の経験を一言で述べるなら、とにもかくにも大変で忙しかったです。しかしよく考えると、自分の一連の論文を事細かに読んでもらう機会そのものが貴重で、自分がそんなアカデミック・サービスを提供できたことはとても嬉しかったです。

また、Oxfordの町並み、環境はとても素敵で、歩いているだけでも楽しかったです。共同研究の話もしたし、また来なくてはと思いました。

*1:さて、Maynard Smithがそうなのでは?と思われた方もいると思います。私はその意見には基本的には賛同しませんが、Maynard Smithさんの仕事も重要なものが非常に多かったのは間違いないと思います

*2:https://doi-org.kyoto-u.idm.oclc.org/10.1016/S0022-5193(05)80088-8

*3:しかしそういう冗談を受け入れて笑ってくれる時点で、やはりintenseなscientistと、generousなpersonとは、両立するのだなと思います。

任期付きポジションの是非

きっとこれからも永遠に俎上に載るであろうこのトピック。

色々な意見があるとは思いますが、(ただいま任期付きポジションにある)私個人の考えを書きます。

まず、「任期付きポジションの完全撤廃」は良くないと思います。任期付きには任期付きの良さも無くはなくて、とにかく「講義等の他の義務なく研究に専念できる」というのは大きなアドバンテージです。もちろん、立場が不安定になるというディスアドバンテージも大きいのですが、スタイル次第では、「講義の義務をこなしつつ研究もする」というポジションよりも、タイミングや都合上、適合する人もいるのではないかと思います。

また、私個人の偏った考え方になりますが、「学位をとれた、即、自立済」は、一般的には成り立たない命題だと思います。実際、学位を取ってから論文が出ない人の研究スタイルには、なにか問題があるのではないかと私は思いますし、私はそう判断します。あるいは排反でないですが、ビッグラボで「うまく」こなした人がそういうポジションを埋め尽くしてしまうのではないかとも思います。*1

かといって、「若手はすべて任期付き」も良くないと思います。日本の博士課程の学生が、ただでさえ不安定な立場で研究を続けてきて、その先にも不安定な立場がまずは確実に待ち受けているという現実に直面したとき、アカデミアは人材をごっそり失うことになると思います。長期的永続のための必要条件は短期的永続なので、少なくとも短期的に維持するシステムのデザインが必要だと思います。

「万年助教が出てくるから」という批判もありますが、アカデミアや教育って、そういう人たちで維持してきた側面もあると思います。これもバランス問題で、要は「研究という知の追求行為への熱意を欠く人」がすべてのポジションを占めてしまうのが問題なのであって、ずっと助教として教育やシステム維持に貢献された方の存在や貢献事実を否定するのは良くないと思います。

前提としてそもそも、「任期なしポジションに就いているということは優秀な証」といったエリート意識的な社会評価を自分にも他人にも適用するのは、やめたほうがよいと思います。*2 そもそも、私は「優秀だ」を褒め言葉として受け取れない(具体性を欠くため)し、アカデミアは能力主義であるべきではないので。

いろんな意見があるということはいろんなポジションが望ましいということなのかもしれませんが、一番良くないのは対立構造を深刻化させることだと思います。「若手は〜」とか「シニアは〜」という主語で語り尽くせるほど、問題は単純ではないのでしょうね。かといってじゃあどう表現するか、という問題があるのだと思いますが、人の人生はそれぞれ一度きりなので、カテゴリ化は難しいのではないでしょうか。*3

ということで、任期付きポジションも任期無しポジションも、あったほうが良いのだけど、そのバランスが現在非常に悪い(任期付きが多い)ということなのだと思います。

私が学生に伝えたいことは「“うまくこなす”を主成分ベクトルとするなかれ。知識・熱意・哲学を、育て続けよう。」

*1:実際、学位をとって7年経って思うのは、「学位とってからも、元の指導教員と論文を書く」というのは、分野とか色々事情はあれど、私にとっては避けたいなと思えることです(批判ではありません)。もちろん、学生の頃にやり残したテーマの出版であったり、対等な立場で議論して共同研究として出版するのであれば、わかるのですが。

*2:研究費獲得歴も、同じです。集中型の大型研究費とるなら素晴らしい研究成果を出す「責任」が生じるだけで、「能力の保証」が生じるわけではないのです。やはり、そんなに単純ではないのです。

*3:かといって、「複雑だな」を結論にしてはいけません。複雑なものを複雑なまま客観的に理解することは、私はできないと思います。

理論生態学:発表・学習・研究の道標

▶1. 講義

 1.0 実は:どんな講義もとって良い

カリキュラム(つまり必修・選択履修かどうか)は大学の事務的手続きで定められているのであって、学びたいという主体的意欲があるのであれば、どんな講義を受講しても良い。単位として認定されるかどうか、というのは、副次的に付随する結果である。もちろん単位取得は最低限行なうべきだが、それ自体を目的とすべきではない。学生のうちは、何を学んでも良い。色々な講義に出て耳を傾け、自分の興味を見つけると良い。学習目的がはっきりしていなくても、タイトルやシラバスから「何となくこれ面白そう」と思ったものは何でも受講すれば良い。有限の人生において、色々な専門家の講義を聴くことに集中できる機会というのは非常に貴重である。それこそが大学生にとっての最大の権利である。

私の場合:

  • 文学部英語 (毎週予習してきてその場で発表するスタイルのややスパルタな講義だった。講師の先生は言葉がキツめで正直怖かったが、その先生に褒められたときの嬉しさは、格別だった。脳みそから報酬物質がドバドバ出るのを感じた。)
  • 農学部生態学 (市岡 孝朗 先生が講師だった。数理生態学の内容にも触れられていて、非常に刺激的だった。)
  • 他大学の臨海実習

などを受講していた。いずれも非常に重要な機会であったと、今になると痛感する。

 1.1 自主学習:予習の活用

大学の講義は、その場で聞いてその場で理解するようにはデザインされていないことが多い。意外かも知れないが、だからこそ予習は絶大な効果を発揮する。

私が頻繁に口にするのは、「予習は復習を兼ねる」である。自分の到達地点を確認することなく前には進めない。また、自分の到達地点を確認するだけでは、前には進めない。新しいことを学ぶためには、これまでに学んだことへの理解度を見返ることが必須である。まずは予習してみると良い。そうすると、復習すべき箇所が見えてくる。

私の場合:

  • 高校生の頃は、先々に予習をしていた。すると、自分の理解度・到達点がはっきりして、復習せざるを得なくなった。そのサイクルを高校で確立させられたのは、幸運であった。
  • 格通知を受け取った年の3月、ε-δ論法を自習した。
  • 微積分学の講義のため、自分で演習問題に取り組んだ。
  • 初年度の夏休みは、後期で取り扱われるはずの内容(確か、広義積分など)についての自習を進めた。

予習することのメリットは枚挙にいとまがないが、講義の内容がスッと頭に入ってくる自己高揚感と、それに伴って「勉強がどんどん楽しくなる」という実感はあったように思う。

 1.2 講師の活用

予習したとて、聞いてもわからないところは必ず現れる。講義内容に直結する疑問は講師に積極的に質問すると良い。これは受講生の特権である。

ただ、講義の内容とは直接関係がないこと、あるいは教科書を開けば載っている基礎的なこと、を質問する前に、一歩復習を要検討である。講師は講師ではあっても、個人の家庭教師ではない。質問者自身が調べてみたり、自分の中の疑問を明確にしてから、疑問を文章として手短にまとめ、そしてメールなどで尋ねた方が良いと思われる。講師も有限の人生を生きる人間だし、講義後は疲れていることも多い。その場で答えないといけないというプレッシャーを与えることが目的でない限りは、落ち着いて考えるだけの余裕を講師にも与えた方が、双方にとって良いだろう。

▶2. 演習形式の講義・自主ゼミ・輪読

 2.1 準備

発表内容についての予告をする方が良い。そうすると担当講師含む聴講者たちも、どこまで読んでくれば良いのか、目安を立てることができる。また、概要について話すことで、一貫的な理解を深めることができる。予告するうえでは、

  • 概要
  • 日付と時刻
  • 分からなかったところ

などを提示すると良い。

ゼミ・輪読は、周りの学友や講師から直接的に問題点を指摘してもらえる絶好の場である。個人の趣味にもよるが、たくさんの問題を解くことや、急いで進めることを目指すよりも、少数の問題や定理や具体例にじっくり取り組み、徹底的な分析と理解を試みる方が良い。

もちろん、題材の難易度にも依るが、問題を徹底的に突き詰めることは研究において最も重要な姿勢である。説明したい内容については、一文一句のがさず理解することを目指すべきである。そのうえで、分からないところを分からないと述べ、自分なりの理解と、題材の当該記述を、比較すると良い。教科書が根本的に間違っていることや、数式のミスタイプ(タイポ)も往々にある。

たとえば、ロトカボルテラ競走モデルの背景にある現象論的な仮定は何か?密度依存的な死亡と密度依存的な繁殖成功低下とは、どのようにモデルで区別されるか?こういった仮定を理解し尽くすことは、研究実践の上でも有効な訓練である。

特に大事なのは、「分かったふりをしない」である。自分を誤魔化すのが最も良くない。そして発表において他人をも欺くのは、損しかない。「だいたいこんな感じ」といった理解ではなく、徹底的に理解し尽くすことを目指す。必要に応じて参考文献を読み解くことも必要である。

 2.2 発表

自分の理解と、記述内容とを、相対化すべきである。そうした内容に実のある発表ができれば、及第点である。

しかし、内容だけでなく、形式も大事である。発表は、講釈ではなくコミュニケーションであることを覚えておくと良い。そのために、

  • はっきりと
  • ゆっくりと
  • ネクサス(主語と述語/結論)を明確に
  • 「えーっと」を減らすことを意識しながら
  • 自己混乱に気をつけながら
  • 話しつつ頭の中を整理しながら

話すと良い。また、

  • 定理は明文化する
  • 演習問題は前提を明文化する
  • 論理関係を明確化する
  • 図を使う

と良い。聞いているものは前提を簡単に忘れる。書いておくと前提の共有になるし、凡ミスを防ぎやすくなる。

発表はどうしても岡目八目なところがあることも覚えておくと良い。符号のミスなどはその典型である。書き間違い・言い間違いを指摘されることを恥と思う必要はない。だが自分の理解が怪しいような状態で発表を「こなす」ことを目指すのは良くない。有益な場とは、題材に関する参加者の相対理解が深まる場である。

なお、個人的には、アウトラインこそ確認する必要はあるだろうが、ノートを見ずに発表することを目指すと良いと考えている。それくらいに準備の段階で見通しよくかつ理解を深められていると、発表がオマケとなりうるほどにまで、実力がついたことの証左となる。もちろん難しい。だが、数学を学ぶ学生は特に、こうした理想形を意識しておくと良い。まあもちろん、発表時間がたんまりある場合にしか、この方法は採用できない。

質疑、あるいは参加者からの質問に答えるのは、難しくも本質的なものである。

  • 質問は、最後まで聞き、質問に返答を重ねない
  • エス・ノーで答えられることはまずそれを答えてから具体的な内容を説明する

と良いと思う。このあたりは、古田先生の「大学院で幾何の勉強を目指す学部生の方たちへ」に、至言がたくさんある。

▶3. 自主学習

 3.1 教科書をいかにして選ぶか

講義と関係なく教科書を読むことは、素晴らしい。だが残念ながら、適切な教科書を選ぶというのは(研究者歴を積んだとしても)とても大変である。読みたいから読む題材を選ぶのに、「読んでみないとわからないので選べない」という鶏卵問題に陥る。

前提として私は、多かれ少なかれ似た内容の本を何冊も取っ替え引っ替え読むより、一冊を精読することが、学生のうちは望ましい(ただし、研究する作法が身につくと、拾い読みするのが普通になる)と考える。つまり、一冊を選び抜くことにまずは注力すべきである。その際、初学者だけの見識で本を選ぶのはやめた方が良いこともある。指導教官や先輩の情報を活用して、読む本を決める方が無難である。もちろん、学生だけで決定することも良い経験にはなるので、あくまで無難である、と述べるにとどめる。何より、定評のある本はインターネットにもそれなりに情報があるが、信頼できるプロに聞くのがベストである。Amazonのレビューを頼るなど、もっての外である。

問題をさらにややこしくするのが、「独習に向いた本」と「輪読に向いた本」という二型の存在である。極論、たとえばマセマなどのかんたんで(はっきり言って単位をとることを目的としているだけの)薄い本は、わざわざ複数で輪読する価値がないであろう。一方、難しくて専門知識満載で行間がたっぷりで分厚い本を初心者が一人で読むのはやめたほうがよいだろう。これらは、本人が実際に手にとってみないとわからない。つまり、「"良い"本」という端的な形容は客観的に定義ができない。目的による。人による。知識レベルによる。それだけだ。

こうした理由もあって、一般に、(「おすすめできない本」はまあ、存在するのだが)「おすすめの本」に客観的指標は、一切無い。読み手、薦めた人の背景、社会的立場(学生?PI?)、といったあらゆる要素で、「おすすめの本」は不確定である。「Bさんを知るAさんがBさんにおすすめしたい本」は存在するかも知れない。web上で「おすすめの本」を検索しても、それは眉唾だらけで、時として営利性しかないことも多い。*1

まずは、目的をはっきりさせ、本屋に足を運ぶ。手にとる。読む。買うかどうかを決める。自分の立ち位置(理解度)を省みる。横着しない。そもそも、本は「とりあえず買って積ん読か〜」でも良いのだから。

なお、英語で書かれた本(洋書)の場合、研究者が内容を書評にまとめ、「論文」として出版していることも多い。書き手の主観は強く反映されているし、正式に出版された書評である以上、どうしても礼儀第一であり、率直な批判的感想のみを見込むことは難しいが、興味ある本の書評はまず読んでみても良いかも知れない。

ちなみに数理生態学に関して言えば、古典的名著やバイブルとでも呼ばれる本はそんなに多くない。というのも、多くの本はトピックやシステム(たとえば島の生物地理学)をベースに、現れる数式(たとえばマッカーサー・ウィルソン)を説明する、というスタイルであるためだ。ゆえに、トピック専門の本を読む機会が多いはずだ。数理解析を学びたいのか、それとも、系への理解を数式を通じて深めたいのか。このあたりは、教科書を読む目的そのものと照らし合わせながら決めると良いだろう。

 3.2 教科書を読むには

教科書を読むのは難しい。その背景には、新しい言葉遣いや概念の定義、あるいは独特の表現があることと、そして特に、行間の蘊蓄が不確定要素として紛れ込むことがある。行間全てを読み解くには、

  • 好意的分析(著者の意図を汲んだうえで記述内容を分析する)
  • 批判的分析(著者が間違っていることを分析して、正しい記述に直す)

を使い分ける必要があるため、非常に困難であり、ある程度の訓練が必要である。疑いすぎると本を読むモチベーションの減衰につながり、逆に信じ込むと新しい何かには繋がりにくい。一貫してやはり、誤魔化しなしで読むことを目指すと良い。

ノートを作ってまとめる、というのは学習過程としてとても有効だ。単純に、増えていく記述は過去の自分にとっても嬉しいものだ。しかしノートをとる量は程度問題である。読んで理解するよりも読んで書くことが唯一の目的となると、それは教科書を写しているのと変わらない。一方で、数学を含む学問には、「写経」により鍛えられるという節がある。個人的には、本当の意味での写経を考慮し、例えば「目をつぶって唱えられるほどに頭に染みつかせることを目的としつつ、染み込ませるべき内容についてはノートをとる」といった塩梅でバランスを取ると良い。

なお、新しい概念に出会うことは頻繁にあるだろう。ノートの最後のページを単語帳にしたりすると、いちいち以前のページを探すことなく、意味を思い出すことができる。付箋を用いたり、あるいは全て電子化して、OCR検索が可能なようにしておくのも良いだろう。

私は、大学三回生の春から卒業までの間、ノートをナンバリングしていた。大学院に入ってからやめてしまったが、50冊近くはいったと思う。さて、今、その内容をどれだけ覚えている、あるいは身につけていることだろうか。たぶん数冊程度だろう。でも、まあ(自分の脳みそは)そんなものだ。

▶4. 研究を行なうにあたって

 4.0 数学の学び方?

私が言うのもおこがましいかも知れない。だが、数学や関連分野には、

  • 「定義」/ 「公理」
  • 「定理」/「命題」/「系」
  • 補題
  • 「例」

といった、様々な主張概念が登場する。これらのニュアンスであったり意義は知っておくと良い。

定義(Definition)は、なにか概念を決め、文脈をはっきりさせる。基本的に、矛盾がないのであれば何も定義して良い、というある程度の自由さがある。たとえば、非常に大げさであるが

1+1=2である。この式を、自然数の基本性質と定義する。

といった定義づけも可能である。別の本を読めば別の定義や名前になっていたりする。「本書/ここでは、…と定義する」という脳内補足をしてもよいだろう。ただし、学術界に広く浸透した概念(“常識的”概念)に対しては、いちいち定義を与えないことも多い。そもそも定義は文脈依存的である。したがって、ある程度の記憶が必要となる。ちまたで耳にする、「数学はすべてが整合的」という言論は、まあ概ね正しいと思うのだが、「整合的になるように人々が設計した」と考えておいたほうが良い。つまり、ややこしい定義を見たら、「こう定義しておくと、都合がよい、あるいは整合的なのだな」という信頼があったほうが学習効率は良いだろう。定理や命題にたどりつくことなく定義でつまる、というのはもったいない気がする。もちろん、著者や既存理論が根本的に間違っている可能性も否めないが、もしそれを発見している場合は、もはやその教科書を読んで理解する必要が薄れているとも言えるだろう。

公理(Axiom)は、概念を限定的に定義づけると約束するためのものである。定義よりも自由度が低く、公理は文脈ごとに決めるというより文脈ごとに採用するものである。「〜が成立するものと約束する」というニュアンスである。約束は効力を発揮し続けるし、約束を勝手に変更することはできない。そういう意味での限定性である。生物学で現れる公理は常識的なものに限られており、マニアックな公理は現れない。有名な公理には選択公理がある。

定理(Theorem)とは、定義から論理的に導かれはするが証明するのが自明とは言えない(と考えられる時代が少なくともあった)ような主張のことである。 たとえば、フェルマーの最終定理、ペロン・フロベニウスの定理、ラウス・フルヴィッツの定理ポアンカレ・ベンディクソンの定理、などがある。

命題(Proposition)は、定理と呼ぶほどでもないが、証明しておきたい主張である。

(Corolary)は、命題や定理の主張における仮定をキツめにしたり、特殊な場合を考えたりしたときに、直ちに導かれる結論のことである。たとえば、ラウス・フルヴィッツの条件は、\(n\)次元ヤコビ行列のすべての固有値の実部が負であるための必要十分条件を定めるが、\(n=2\)の場合などを考えると(それは高校生のころに学んだ、2次方程式の解の配置問題であって)「系」である。

補題(Lemma)は、ある命題や定理を証明する途中で紹介・証明・応用される主張である。

は、定理や命題や定義において、特殊なケースを考えるというものである。実は、この「例」には、システムのエッセンスがぎっしり詰まっていることもある(極端に単純化されていて、考えるまでもなく当たり前であるような例は、「自明な例」と呼ばれる)。いくつか鍛錬を積んでみるとおわかりになるかと思うが、自明でない例を構成して、それについて理解し尽くすことは、たいへん難しい作業である。「非自明だが簡単な例」はいわば「良い例」であり、数学者の口からもよく出てくる言葉である。例を通じて概念を理解するということは非常によくある。だが、その例に囚われすぎることなく、より一般的な定義や定理の仮定を知っておくことは非常に重要である。あわよくば、良い例良い反例(非自明で簡単な、今回の場合には定義や仮定に当てはまらないような例)の両者を構成することを目指すと良いだろう。

 4.1 数理解析

研究を実際に行なうにあたって、数理解析は最も本質的な作業である。勉学では、他社の設定した問題に、解答があることを前提として取り組んできたが、研究での数理解析は、解答の存在が自明化されていない。答えがないかも知れないのに、取り組まねばならない。言い換えると、数理モデルを用いた理論研究では、自分が出題者かつ回答者かつ答えの存在を知らない者というのが基本構図である。

とはいえ、行える基礎的解析キットとでも呼ぶべき、最低限の基礎はある。私はこれを、「まずは最初にやる解析」、として「初手解析」と呼ぶことがある。数理生態学の場合は、モデルを作ったらまずは、

  • 無人化によってパラメータ数を減らして
  • 平衡点を求めて
  • 平衡点まわりで線型化して
  • 固有値を求めて安定性を調べて
  • 相図を描く

のが初手解析である。線型安定性解析と呼ばれるものだ。まずはこれが脊髄反射でできるようになることを目指すと良い。もちろん、高次元になると、多項式の根の位置を調べるためにはラウス・フルヴィッツなどの、複雑な条件式を調べる必要がある。こうした解析技術は多いに越したことはない。

とはいえ、まだまだできることがある。線型安定性解析をするだけなら、計算機でオートマ化できなくはない。つまり、初手解析は機械的操作である。真にイノベーティブな研究者を目指す上では、さらに行える解析手段があると良い。

たとえば、数理生態学では、多種が共存するかどうかを調べるときに当然ながら固有値を利用するわけだが、ロバートメイは、ランダムな行列には固有値の漸近的分布理論(ウィグナーの理論)が存在することを利用し、「安定性の分布」を調べた。これは、線型安定性解析から一歩踏み出した、イノベーティブな研究である。

初手解析は、必要であって充分ではない。あくまでスタンダードである。それがスラスラとできるようになったら、そのことを誇りに思い、自己を称え、喜びを噛み締めつつ、自分の個性や核をなすとも言うべき、「次手解析」について、思慮を巡らせると良い。どんな数学も、次手解析には有用である。

 4.2 数値計算・プログラミング

論文を書くには計算機技術は必須である。なぜならば、すべての図が計算機によって作成されるからである。計算機を扱うには慣れが必要なのは自明であるから、一刻も早く慣れ親しんでおくと良い

どの言語を選ぶか、については決定的指針が無い。私の時代では、C言語が主流であったが、最近はPythonやJuliaといった言語を使う学生も多いと聞く。どの言語にも、得意なことと不得意なことがある。これも、詳しい方に聞くと良いだろうし、あるいは信頼に足るプラグラミング言語資料はweb上にも少なからずある(特に公式のものは素晴らしい)。まずはHello worldから少し四則演算や行列演算などを試してみると良いのかも知れない。

ちなみに私はMathematicaでしか数値計算をしない。はっきり言って、これはちょっと公言が恥ずかしい。そもそもMathematicaはまじめに計算しようとしすぎるために計算速度が遅い、と世間では言われる。しかし、パフォーマンス・チューニングは、どんな言語でも可能である。もちろんそのためには専門知識が必要ではある。計算速度の速い言語を選ぶか、計算速度をプログラミング技術で補うか、という意思決定次第だろう。何より、一つの言語を学ぶと、派生的に色々な言語を学びやすくなる。まずは学んでみること、そして手を動かすことだ。たとえば論文の図を部分的に再現することを目指す、といったことは、良いモチベーションになるだろう。他人の整頓されたコードをもらって、いじりながら動かして挙動を学ぶこともアリだろう。

たとえば、ロトカボルテラの競争モデルには、大雑把に言って四つの挙動があり得るが、アイソクラインを用いたそれらの分類の図を作ることを目指す、などは初学者には良い演習問題である。あるいは、ヒステリシス効果があるような力学系は常識の範疇で構成することが可能なので、その分岐図を描いてみることも良いだろう。

ちなみに、意外に思われるかもしれないが、数学的素養と、プログラミングの素養とは、無関係ではない。数値計算のあらゆるアルゴリズムには数学的背景があるので、数学を学ぶとプログラミングのコツが掴みやすくなる。高速フーリエ変換などは、数学として非常に豊かな理論が数値計算的にも非常に有効である好例だ。もちろん、数学を学ぶだけでは不充分なのではあるが、それでも、数学はいつでもどこでも役に立つのである。

▶︎5. 研究

 5.1 研究-勉強バランス

これは永遠の課題である。私は今でも、勉強に時間を割きすぎる節がある。この点に関しては、私は二枚舌である。

  • じっくりと学びじっくりと研究することは非常に重要である。最低限、確保すべきである。
  • 効率よく学び効率よく研究を進めることも非常に重要である。必要に応じて学ぶべきである。

インプットとアウトプットのバランスを保つことを常に意識すると良い。すでに行なった計算を整理することや、それをプレプリントに上げるなどの工夫があると良いとの意見もある*2。私はこの点に関して、決定的に有益なアドバイスを与えられる立場や状況にはないと思う。だが、どんな勉強も(研究にとって直ちに有益かはともかく)人生を豊かにすることは間違いないだろう。

▶︎6. 「力」に惑わされれないように

世の中、「女子力」「料理力」「研究力」といった「力」ワードがありふれている。しかし、これらすべては、曖昧で明確な定義がなくて、「〜力が足りない」といったアンパンマン的な発想を招くだけで、問題解決には決してならない。断言するが、絶対に、「〜力が不足している」は、無意味な課題である。

幸い、研究においては、かなり多くの問題点が、明確化可能である。詳細は

lambtani.hatenablog.jp

をご覧になってほしい。博士課程というのは、問題を明確にして分析することが目的なのであるから、自身の問題を分析することも目指してほしい。

*1:そもそも、異ンターネット上には、全く信頼に足らない情報(のほう)が多いことを、前提として知っておくべきである。

*2:Yuji TachikawaさんのHPに至言がある

社会で自律した研究者

研究が研究者の仕事であるということは間違いない。

しかし、研究者というのは、壮大な科学分野の中の一個の人間であり、コミュニティの中の一つの点である。つまり社会との交わりなくして、あるいは他の研究者の存在なくして、成立しない、常に相対化された存在なのである。

常に人と関わるということ。それはつまり、常に人に影響を与える存在であるということだ。

その意味で、研究者というのは責任重大である。講義したり勉強を教えるのはもちろん、研究指導、セミナー運営、有機的な組織運営…コミュニティ成立にともなう、ありとあらゆる責任があると言ってよい。

多様な研究者がいることは良いことだ。いろんなスタンスがあって良いだろう。しかし、社会との接点に対して無自覚であることは、研究者としての責務の放棄である。常に自分より若いステージの研究者に、研究者は見られている。心は見えないので、行動を見られている。どのような研究者になりたいか?心は真似できないが、行動は真似できる。研究者の行動は、次世代のコミュニティのあり方を大きく左右する。

これはどんな会社でも多かれ少なかれそうかも知れない。しかし、研究者の「ニッチ構築」効果は、会社と比べても顕著だ。会社は、内部改革を経て変わることや、社会情勢の結果で一新されることがある。畳まれるのは一つの形だ。一方アカデミアは、新しいことをするために前人の轍を歩むという性質上、引き継がれ続けるものが多い。これは、研究の内容に限った話ではなく、職業研究者のあり方そのものにもあてはまる。

学生の模範になる、なんて必要はない。だが、自分の態度、精神、研究、行動、あらゆるものが、見られている。プロの研究者であるということは、それら総体をどう律してしているか、ということに懸かっている。

あらゆる研究室において、心理的安全性が重要なのは間違いない。だが、プロとしての規律のない態度では、ヌルい研究室になるだけだ。自立的で自律した研究者。私は、それを目指したい。

なぜ関係なさそうな数学を学ぶと良いか

私は数学が大好きなので、数学を勉強する習慣がありました。免許合宿では待ち時間に『解析演習』で解析演習問題に取り組み、友人との海外旅行には『多様体の基礎』、遊びに行くにもアルバイトに行くにも、先々に数学書を懐に忍ばせていました。

ただ、数学は得意とは決して言えませんでした。それでも数学が素晴らしいのは、難しさの勾配が非常に緩やかで、論理さえ追えれば(大学数学レベルであれば)必ず再現可能で、そして自分の頭に一旦 自然なものとして身につけば忘れてもすぐ思い出せるということがあります(それだけではありません)。

そんな私は、今は数学を用いて生物現象を表現・解析・予測運用するという研究をしています。学生のころは手法も限られていたし、そこまで複雑な数学を用いることはないだろう、と思っていたのですが、いざ研究を始めてみると、やはりというべきか、複雑で難解な数学的問題に直面することが、ままあります。「こんな数式、無理やろ」といった絶望感に打ちひしがれ、数値計算のみで済ませるということもありえます。*1 すると、数値計算の技術をひたすら磨くという方向にエフォートを割かざるを得ません。そして一方で大学で学んだ抽象的な数学概念を直接的に運用する機会は少ないと感じます。すると、頭に定着していた定義・概念・定理も、忘れられていきます。

それでも私が比較的、誰でも再現可能なレベルで解析的な立場から研究を続けられているのには、深層記憶への定着…というとカッコつけすぎですが、いわば「あ、これ、昔○○でやったやつだ!」という進研ゼミ・スタイルの活用があります。私は、大学の図書館で難解な数学書を開いて眺める(読むとは限らない)のが趣味だったのですが、そのときにちらっと眺めた数式が、姿も形も文脈も全く変えて、自分の研究対象として目の前に舞い降りることがあるのです。その数式は、10年前に眺めたものかもしれません。あるいは耳学問かもしれません。それでも、不思議なことに記憶には残っていて、ハッと気づいてきっかけを得て、webや教科書で検索して純粋数学的背景を調べることに至るのです。数学というのは、一旦概念が定義されると、そこに(自然に)付随する性質を調べることが可能な学問なので、そうした性質を利用すると、形式的な計算が可能になったり、その声質なしには無理だった計算を進められたり、あるいは結果的に数値計算の効率も向上したりするのです。

たとえば、いろいろな無限和を計算する文脈が、確率論ではあるのですが、だいたいの(!?)無限級数和(正確には、母関数)は、Fisherの超幾何級数で表現することが可能です。あるいは、指数関数が関与するような式の逆変換(\( y=f(x) \) と書かれていた式を、\( x = ...\)として書くということ)も、Lambertの\(W\)関数として書くことが可能であることも多いです。さらには、なにかの値が非常に小さいという条件で所与の積分を実行するときには、シュワルツ超関数理論(超関数微分や、付随する部分積分などの諸定理)が現れることもあります。

数学というのは、裏で何もかもが有機的に繋がっています。そして一見異なるように見える計算も、圏論という立場からは本質的には同一(そして唯一)、ということも多くあります。

大学生の間は膨大な時間があるので、そのときにはわからない、どう「役立つ」かわからない、といった数学を学ぶと良いと思います。どんな数学も、直接的に、あるいは間接的に*2、役に立ちます。あわよくば楽しみながら、なんでも勉強して挫折してまた勉強して、繰り返すと良いと私は思います。数学を学ぶというのは一生続けられる趣味ですから、たとえ役に立たなくても、人生を豊かにすると思います。

*1:しかし数値計算の方法は、コード等を一行一句で明文化しないと、結果が再現できないこともあります。

*2:私は、新たに必要な数学を学ぶ必要があるとき、抵抗が一切ありません。それは、大学生のときに、わからないなりに何でも勉強する習慣が身についていたことが大きいと思います。つまり、数学を勉強するという習慣そのものが、間接的に役に立っています。

共同研究の始まり

このツイートには大変同意するところがありました。思うと共同研究の開始はいろいろな形があるのですが、一緒に仕事をしたいと思わない相手とは仕事ができません。もし「あくまで仕事だから」という形で共同研究を始めたとして、どちらかがどちらかを搾取(含 便乗)するという形になってしまいかねません(必ずしもそうなるとは言っていません)。せっかく研究(⊆仕事)をするなら、一緒に働きたい方としたいものですよね。アカデミアは能力主義ではないので。

私は論文数は多くありませんが、過去にどういう形で共同研究を始めたか、書いてみたいと思います。順不同ですが、どのステージで誰に対して共同研究を依頼したかも記録しておきます。指導教員や雇用主は含めません*1。 私は現在研究員(任期付)ですが、その前はポスドク、更にその前は学生でした。

■ 主著論文

メールして学会で議論した(学生→PI)

よくあるパターンだと思いますが、発表を聞いたり論文を読んだりしてから、研究者に話しかけたパターンです。 私はそのとき学生でしたが、そのPIの方はなんと丁寧にも、私の指導教員に、私との共同研究許可のメールを送ってくださいました。 そもそも指導教員とは雇用関係もないとはいえ、指導教員には私を指導する責任があるわけで、そうした了承というか同意があるのは、お互いに安心だと思います。

文献調査および該当箇所の記述を依頼した(ポスドク→学生)

私は理論解析・執筆を担当していましたが、実証研究文献調査について、学生に手伝ってもらったことがあります。共同研究は「手伝う」程度では成立しないので、文献の内容を一緒に議論したり、図をどう見せるかといったことでアイデアをもらったので、最終的に共著論文という形で執筆しました。

外国から日本に呼んで知り合いになり訪ねた(学生→PI)

昔から憧れていた研究者を呼ぶ機会があったので日本に呼んでしまい、その一年後に、その方を尋ねて渡航しました。指導教員のコネが特にあったわけではありませんが、そのときに、呼ぶだけの機会があった点で私はラッキーでした。

研究内容かぶってそうだったので、メールして「一緒にやろ?」ってお願いした(独立研究員→学生+PI)

ふえぇ…いままで頑張ってきたのに…ふえぇ… ってなって寝込んでしまったので、思い切ってメールして一緒に研究しました。

特定のデータを説明するための仮説を理論で定式化してほしいと頼まれた(ポスドク←研究員)

以前から知り合いだった方だったので、広い意味では冒頭のパターンに該当するのだと思います。 しかし、私はポスドクという立場だったのに、こうした依頼を受けてしまっていて、それを許してくれた当時のボスに感謝です。 最終的に、私が定式化・解析・執筆した論文は私を主著として執筆しましたが、共著論文や、同等貢献論文も書きました。

いずれのパターンでも、私は、「一緒に研究したい、と思える人を選んでいる」と言えます。繰り返しますが、アカデミアではみんな高い能力はあるのだから…

■ 共著論文(全部ではない)

SNSを見て、おもろそうな私に特定の計算をしてほしいと頼まれた(研究員←研究員)

SNSでも始まる共同研究!SNSで愚痴垂れてばっかりでなくてよかった。。まあ、コロナ禍だからこそかも。

勉強会を立ち上げて、アイデアを共有した(研究員→研究員)

内部で勉強会を立ち上げて、アイデアを交換したり共有する会を定期的に開き、でてきたアイデアから論文を書きました。 私はあくまで共著者ですが、主著者の方が、アイデアをうまくまとめ、エレガントな論文を書いてくださいました。

SNSを通じてやりとりして、「一緒にやるか!」で始まった(研究員とPI)

コロナ禍にあって、たくさんのウェビナーシリーズができましたが、そのほとんどが、ヨーロッパ時間ベースか、アメリカ時間ベース。仕方ないとはいえ、「太平洋ゾーンは科学をやってないと思われているのか…?diversity/inclusionとは…?」という思いが少しあった中、日本の学会で知り合ったニュージーランドの研究者とやりとりを開始。定期的ミーティングをセットし、共著論文(投稿済)・主著論文(投稿しそう)・グラント(二回蹴られたけど)を書きました。

共著論文を一緒に書いていた方のなかには、私のこれまで関わってくださった方のなかには、能力だけを買ってくれた人もいるかもしれません。でも、そういうスタートを切った共同研究は、私はなかなか続きません。

みなさんはどうやって共同研究を始められましたか?

*1:そもそも指導教員とは一報しか一緒に書いていないのです