定義
仮定Xから結論Xを導くこと。
論理形式
X now holds true. Therefore, X holds true.
命題Aが成立すると仮定する。このとき仮定より、命題Aが成立する。
分類
形式的誤謬。
説明
Tautology、トートロジー。 推論の価値というのは、仮定Xとは別の結論Yを導くことにある。 よって仮定から出発してそれを導いても、何も新しいことは分からない。 推測される結論Yを、仮定Xから示そうとした場合に、人はなぜか、Yから議論をスタートしてしまうことがある。 これは典型的で模範的なトートロジーである。だいたいは人の混乱からやってくる。
例を挙げるために特別に、セクションを設けて詳しく説明する。
例: 循環定義
次のような定義は循環定義と呼ばれる:
実数値の数列\( \{ a_{n}\} \)が \( n \to +\infty \)で発散するとは、\( \{ a_{n}\} \)が収束しないことと定義する。
また、\( \{ a_{n}\} \)が \( n \to +\infty \)で収束するとは、 \( \{ a_{n}\} \)が発散しないことと定義する。
これは数学的な文脈*1だけではなく、言葉にしにくい(抽象的な)概念を定義しようとするときに、容易に起こりうる。
明るいというのは、暗くない状態を指す。暗いとは、明るくない状態を指す。
具体的であるとは、抽象的でないことである。また、抽象的であるとは、具体的でないことである。
これは卑近な例であるが、ゼロから出発して何かに定義を与えるというのはとてもむずかしい作業なのである。 たとえば、テーブル:
テーブルとは、平な板…いや、平でなくてもよいか。板に足が4つついて…いや、3つ、1つ、いろんな足の数がある。木製…いや鉄製もある。。えーと、ということは何かを載せられて…いや、載せられないものもあるか…
少なくとも平易に「テーブルを網羅的に定義する術」が見当たらない。 こうした時、循環定義は悪魔の笑みを浮かべ、あなたのことを見守っているのである。
余談だが、テーブルを定義できない僕でも、英語のTableと日本語の「テーブル」とをconsistentな概念と一致させ、テーブルを見たときにそれをそう認識することができるは、自明な認識論で説明できそうにない。しかし、テーブル/Tableと、名前を獲得した概念がたしかに、僕らの認知を許すのは、興味深いことではないだろうか。こうした(観点に徹する)立場は唯名論と呼ばれる*2。名前がついていないものを僕らは認識できない、という考え方である。いかが思われるであろうか?
用例
「ようこそ我が村へ!ここではまず、銀行口座を開設するためには、居住証明書が必要です。あ、あと居住を得るためには、銀行口座を開設せねばなりませんので、よろしくお願いしますね」(双方が互いの必要条件になっている)
「この部屋にネコはないとする。ということはこの部屋にいるネコは全て真っ黒であると仮定してもよい。同じ理由で、この部屋にいるネコは全て真っ白であると仮定することもできる。つまり、この部屋にいるネコは全て真っ黒かつ真っ白である。これは不合理であるから背理法により、この部屋にネコはいると言える。しかし明らかにネコは見当たらない。故にこの部屋にネコはいない」
後者は、思い返してみると実は非常によくある論理であるが、ベターな例が思いつかない。
ジョークもいくつか挙げておこう。
- 「知っている人は知っている」
これはレトリックへの揚げ足取りか。
- 「オレはオレや!!他の人とちゃうんや!」
騙されるな。オレを定義しろ。
分析と雑感:Is Darwinism tautological?
Neo-Darwinismはvacuous tautology*3 であるという批判をC. H. Waddingtonは果敢に展開している
Natural selection is that some things leave more offspring than others; and you ask, which leave more offspring than others; and it is those that leave more offspring; and there is nothing more to it than that.
Darwin's Enigma: Mr Fred Harding: 9781512003970: Amazon.com: Books
Darwin Retried: an Appeal to Reason: Norman Macbeth: 9780876451052: Amazon.com: Books
これを堂々と認める立場もある。例えば
ゼロからの論証 | 三浦 俊彦 |本 | 通販 | Amazon
なお、この言説は容易に、Price方程式がトートロジーかどうかという批判に換言され得る:
Talk:Price equation - Wikipedia *4
これに対しては
Natural selection. IV. The Price equation (S. A. Frank, 2012)
などで詳しく説明されている。進化生態学者は必読。
余談: Vacuous Truth(空虚的事実)
上のネコの例に戻ろう。 同例において、発言者は、存在しないネコについて主張を行なっている。 これはいかなる命題も正当化する(偽の仮定から導かれた主張は常に真である、という論理学における基本的な事実に基づく)。 そこから導かれる結論は意味がない。論理的には正しくても、である。
より正確には、主張をもっと論理的に詰めることが可能である。 「この部屋のネコの色」について言及するのであれば、「この部屋にネコが存在する」ことを仮定せねばならないのである。 これを怠っているがために、ちんぷんかんぷんな議論になってしまっている。
これは非常に重要な推論の性質であると言える。現に、次の命題の真偽を判定できる人は思った以上に少ないだろう:
「反射律」とは、「A〜Aである」ことである。
「推移律」とは、「A〜BかつB〜Cならば、A〜Cである」ことである。
「対称律」とは、「A〜Bならば、B〜Aである」ことである。
今、対称律と推移律を満たす二項関係「〜」があったとする。 対称律より「A〜BならばB〜A」なので推移律における「A〜BかつB〜Cならば、A〜C」のCをAに置き換えることができて、「A〜A」が導かれる。よって、推移律と対称律から反射律「A〜A」が得られる。
この論証は、vacuous truthによる誤った論証である。
教訓
脳内でひよこがcirculateしているぞ!落ち着け!