Life is Beautiful

主に進化生物学の理論のブログです。不定期更新予定。

知っておきたい誤謬6: Masked man fallacy(覆面男の誤謬)

最初のおことわり

今回のポストはとても中途半端で散文的になってしまいました。査読をうけていないのがその一因です。 それでも公開するのに踏み切ったのは、意見や議論を受け付けたいという目的からです。 従って、このポストの内容を科学的弁論に採用することはおすすめしません。 しかし、意見を仰いで少しでも改善していきたいと考えております。 もちろん「生半可な知識でブログをすることの罪深さ」を自身で弾劾することは、決してしません(ブログを綴ることには、科学におさまらぬ自由が保証されている)が、 1人の科学者として恥ずかしく思うと同時に、読んでくださる方には感謝しきりです。ありがとうございます。

定義

ある対象Aが特性Pを満たす一方で、別の対象Bは特性Pを満たさない、という仮定から、AはBではない、と結論付けること。

分類

形式的誤謬

論理形式

A is P, but B is not. Hence, A is not B.

説明

覆面男の誤謬、あるいはEpistemic fallacy(認識論的誤謬)。 この覆面男というのは次のような例のアナロジーである:

I know/recognize who Bob is. I do not know who the masked man is. Therefore, Bob is not the masked man.

(Masked-man fallacy - Wikipediaを一部改変)*1

認識を事実とすり替えて推論してしまうことである。 そう、これは科学における実在主義(科学的実在主義)に対して非常に批判的な矛になり得る。

用例

そもそも覆面男自体が比喩的なものであるが、この誤謬の適用される命題は非常に幅広いことを示したい。

  • 「神が存在することを示す確たる根拠のひとつは、私の中に存在することである」(前者は事実的問題、後者は認識的問題)

  • 「なぜ、◯◯理論は間違っている、とあなたは主張できるのですか?」「なぜなら、実験して測定するとそういう結果になったためです」 (測定結果が事実に一致するという誤謬に陥っている。そうではなく、その測定条件や誤差について言及し、その測定がいかに「悪くないものか」を論ずるべきであろう) *2

分析

上の例を見るとわかるが、そうなると「実験してデータをとった研究や、現象の観察的研究はすべて、誤謬である」というヤバい結論に至りかねない。 だから科学(あるいは、科学的実在主義)の根幹には、「現象」から「データ」への「観察写像」がよい近似になっているのであれば問題はない、というドグマがあるはずである。 その意味で、観察行為はすべて現象の近似であり、モデリングなのである。

このように、「認識≠事実」は超越論的実在主義と呼ばれる立場をよりはっきりとさせる誤謬であると言える。 「社会科学に対して、自然科学のように未発見・未認識の存在を模索するアプローチを適用するのには問題がある」 という立場と 「社会科学に対して、自然科学のように未発見・未認識の存在を模索するアプローチを適用するのに問題はない」 という立場との対立が顕著であるようだ *3

すこし話がそれたので端的に言えば、「認識が事実と一致するとは限らない」ということ。認識と事実の不一致は、たとえば確証バイアス(自身の仮説や考え方にマッチするような証拠ばかりが優先的に認識され、結果として集まった状況証拠に、認識に伴うバイアスが生じてしまうこと)などによって容易に起こる。 僕の考えでは、世界が秩序をもって*4存在するのだとしても、それを観察・認識できないのであれば、存在しないと仮定するのが妥当であるかどうかは、真剣に吟味される価値がある。 たとえば「確率ゼロで起こる事象」については我々は普段、ナイーブに「存在しない事象」と見なしてしまいがちである。 だが、飛行機に乗っている時に「隣の人が大きなくしゃみをしたせいで機体が揺れ、最終的に飛行機が墜落してしまう確率」をどう理解すればいいのか分からない。このジョークのような確率は事実上ゼロであろうが、これを我々は(頭の中で)仮想することは可能である。

ちなみに僕は理論研究家として「全てのモデルは不完全である」という認識だが、「全ての観察も不完全である」と考えている。だが「全ての事実は完全である」という主張は全知全能のパラドクスを導く*5ので、ここでは強く主張はしないでおく。

なお余談だが僕は仮面やピエロのような、表情を隠すためのものに対して並々ならぬ恐怖感を抱いてしまう。これはピエロ恐怖症と呼ばれる、(いちおう)精神疾患のひとつと認定されるものである。 なぜ怖いのかも僕は自身で理解している*6

雑感

僕は自分で軽度のアスペルガーであるという認識である*7が、このことを友人に打ち明けるとたいてい (いや、嬉しいんですよ、ありがとうございます。むしろ重い話をしてすみません)、 「そういう自覚があるなら、そんなことないんだと思うよ」という言葉を頂く。 この解釈には、非常なる慎重さが要求される。自己言及のパラドクス*8と覆面男の誤謬とが交絡している。 ここは素直に、論理を突き詰めるのではなく、自身と仲良くしてくれる友人を大切にするのが良さそうだ。 *9

教訓

Seeing is believing, independently of the truth

*1:Wikipediaには、ライプニッツの法則の誤った適用、とある。この観点には非常に感心した。

*2:なお、ここには複数の誤謬があるが特に、「測定して認識にいたった」から「事実がそうである」という論理にはギャップがある、というのがここでのミソである

*3:具体的にはたとえば以前に取り扱った、規範的命題と、事実的命題とのギャップが議論の的になるのではないか、と私は推察しています。しかし、不勉強につき、理解しきれていません。どういった論点があげられるのかをご教示願いたいです! なおランシマンによると「自然諸科学と人間の諸科学との間に は,本質的に基本的な相違があるということを肯定する人々と否定する人々との間の論争は, 二百年以上も決着のつかないまま続いている」

*4:平和に、という意味ではない

*5:「なんでも行える全知全能の神が存在すると仮定すると、その神は「自分で出来ないこと」を見つけられるか?」という問題。できないなら全知全能であることに矛盾する。できるのであれば、自分で出来ないことが見つかってしまい、また矛盾する。パラドクスである。

*6:道化師は歴史的に、たとえばサーカスで「薄給でこき使われる、まるで奴隷のような存在」であった。その中の人が笑顔で客に接するためには、あのような化粧をし表情を誤魔化すしかなかったのだろう。 よってあの仮面や化粧で作られた笑顔の下に、笑顔はない。「内心なにを考えているのか分からない人」に対する心理的不信感が自然選択によって進化してきたのではないか…とまで言うと、これはover-discussionか。

だが、「恐怖症」が「予測不能性に基づいている」というのが僕の理解である。これは、高所恐怖症の友人による私信そして、「先端恐怖症」のせいで「傘を横向きに保持しながら歩行する人へのフラストレーション」を抱くようになったぼく個人の経験に基づく。あれ、身長を考えると子どもたちに対して非常に危険な持ち方であるから、絶対にやめてください

*7:時々、笑うタイミングやジョークが分からない、相手がどういうニュアンスで言っているのか分からない、相手の気持ちが分からない、という気分になることがあるためである

*8:「私はうそつきです」のパラドクス。

*9:ある友人は、ぼくの「俺ってアスペルガーやと思う?」という(絡みづらい)質問に対して、「もしそうだとしても個性だとしか思わない」という返答をくれた。僕はこの友人を一生大切にする。