Life is Beautiful

主に進化生物学の理論のブログです。不定期更新予定。

飲み会のドタキャンに思うこと

すべての文責は僕にあります。

幹事の役割

僕はこれまで、数え切れないくらい飲み会の幹事などを務めてきました*1

  • 好きなお店を選んで、好きな食べ物を食べられる
  • 人同士のつながりを促進できる
  • そもそも、参加者全員とやりとりできる
  • お店の人に挨拶したり御礼をしたりというやりとりもできる
  • 最終的に気持ち良く帰宅できる

というメリットがあるからです。その意味では、ボランティアではあっても、利己的な考えに基づいています。

しかし飲み会といえば頻繁に起こるのが、土壇場での(そして時として予告のない)キャンセル、通称ドタキャンです。 これは、幹事にとって非常に心苦しいばかりでなく、時として損失をもたらしますし、それをカバーするために他の来場者にも迷惑をかけてしまうことがあります。

その理由から、僕はドタキャンに関して非常にストリクトなポリシーを持っていました。とにかく、ドタキャンした人からは問答無用で、会費を徴収する。じゃないと僕の身がもたないし、差額で生じた赤を本人以外が賄うことには、まったく道理がないからです。たとえと呼ばれようとも嫌われようとも、それは僕には関係ない。それくらいの理念を持っています。

それでもそもそも、徴収するのは心苦しい

「来なかったよね。でもお金払ってね」と言うのは、たとえば、キャンセルの理由が風邪だったりした場合、とても心苦しいのです。その意味で、上で述べた事情以上に、僕は“悪者”に徹する必要があるということになります。

体幹事と合意形成

でも、幹事がぼく個人ならばそれでよくても、幹事を団体で行なっている場合は、事情がすこし違ってきます。ストリクトなドタキャンポリシーは、他の幹事に対してもさらに、心苦しさを与えてしまう可能性があるためです。そして、その後の、つまり将来のドタキャン事情についても話し合って決めることが理に適っているためです。

もっとも重要なポイント:僕らは無報酬で幹事をやっています。

それでも僕は、しっかり強調したいことがあります。ぼくはお金を受け取りながら幹事をすることはしません。ボランティアでやります。もっと端的に言えば、無報酬でやっています。ボランティアという単語に潜む、「好きでやっているんだろう」という概念は捨て去りましょう。無報酬。これが列記とした事実です。

決して、時間もお金もプラスにはなりません。無報酬です。会を開くために、さまざまな手配をせねばなりません。交渉だってします。大きなお金を立て替えることもあります。

そうした無報酬の幹事は、辞めるという選択肢を簡単にとることができます。だって、無報酬どころか、赤になると、それはもうモチベーションが下がる理由として尤もですから。そしてそれは、会の存続自体を不可能にします。会には20人以上の参加が見込まれることもあるわけですから、数人の(軽い気持ちの)ドタキャンで生じた赤が、20人以上の集まりを一気に崩壊させるポテンシャルがあるのです。

ドタキャンは無礼な行ないである

「行くの面倒くさい」とか「忘れていた」とかいう理由でドタキャンが起こることも有り得ます。僕は、特定の(よくある)事象から相手の背景を推論するようなことをして、相手にラベルを貼り付けることは好まない性質なのですが、断言します。ドタキャンはその人以外のすべての人に対する無礼です。敬意がありません。

幹事へのねぎらいは簡単にできる

実はぼくが、会合の幹事を務めて最も、はかりしれぬ喜びと幸せを感じられるのは、参加した人たちから「幹事ありがとう」、「お疲れ様」と労われることです。(とは言っても、ぼくは「むしろ来てくれてありがとう」、「楽しんでやってるから」と返すことでしょう。でもこうしたやりとりが起こることって、素敵なことではありませんか?)そして幹事のひとたちはそうした、敬意あふれる方たちとは、また遊びたいな、話したいな、と感じてしまうことでしょう。

個人レベルでもその通り

会合はもちろん、より小さな集まりでも、上の話は同等です。何人いようが関係ありません。会合のサイズが大きいから、1人抜けても効果は小さい?いいえ、そんなことは絶対にありません。

まとめ

  • メールでも電話でもいいです。早めにキャンセルを教えてください。予定を入れたのならすぐカレンダーに書き込んで、忘れないでください。
  • ぼくら幹事のエフォートを、評価してくれとはいいません。それでも、絶対に過小評価しないでください。
  • 会の成立は、人々の交流に必要不可欠です。幹事の方にねぎらいや御礼の言葉をかけるのって、そんなに難しいことではありません。幹事の僕に「御礼を言え」とは決して、地球の公転の向きが変わってもいいません。それでも、他の幹事の方への敬意を忘れないでください。
  • せっかく人の輪を広げるために、会合に参加するのです。素敵なつながり方を目指したいです。

*1:京都大学の理学部にはクラスという概念があり、飲み会が開催されることがあります。僕はそのクラコンの幹事役(のひとり)でした。

テストステロンと思想

竹内久美子さんによる、テストステロンとリベラル思想の連関についての記事が話題だ。

 

https://www.google.co.jp/amp/www.sankei.com/column/amp/180328/clm1803280004-a.html

 

「日本型リベラル」なる思想の持ち主とは、彼女いわく「共産主義社会主義が失敗に終わり、所詮は絵空事でしかなかったと判明した今でも、その思想にしがみついている人々」のことであるそうだ。

 

彼女は彼女なりに、動物行動学的な観点から、ヒトにおいて婚外交渉がこれまで起こってきたということを前提として、そのようなヒト社会では精子競争が起こってきたのかどうか分からないとする意見を、痛烈に批判している。

 

ヒトにおける婚外交渉つまり浮気の歴史を認めたくないから、精子競争などという概念を持ち出して、史実を捏造している、と。

 

また同じような例としてカジャール族を挙げている。女の子が生まれると一族が歓喜するのは、売春させて儲けるチャンスが高まるからに他ならない、と。この事実は、科学者によって歪曲され、隠されてきたと彼女は考えているようだ。

 

まずここまでの段階で、彼女は誤謬を犯している。ストローマン、かかしを殴る、とも言うものである。そのような「捏造者」の存在を根拠として示さずに、捏造者を批判しているのである。

 

論理とは、仮定から出発して結論を導く手続きの体系のことである。このもとでは、偽の仮定から出発するとすべての結論が正当化される。だからこそ、仮定の妥当性を吟味することは実務的に必要である。ここで彼女が怠ったのは、そのような捏造者の存在を明確化することである。

 

そのような、史実を隠蔽することを目指した研究者はいるだろうか?まずはそこからだろう。もしもいないのであれば、彼女がフルスイングで批判した結果は、全て空振りに終わる。

 

後半:テストステロン

 

後半は見るに耐えぬ、差別的論調である。

 

まず彼女は、男の魅力はテストステロンで第一義的に決まると考えているようだ。そもそもここでいう魅力とは何か?我々ヒトは、テストステロンという生物学的な要素によってのみ、パートナーを選択するであろうか。経済、性格、タイミング、そして大切に思う気持ち。多様な要素でパートナー形成は成立すると僕は思う。

 

ここでテストステロンを一義的な要素と断定することは、ヒトの思考を軽視しすぎである。ヒトの思考はどこまで及ぶか。なぜヒトには哲学的な考え方が可能か。ヒトとは何か。こうした、人類がその歴史を懸けて取り組むべき科学的命題を放棄したも同然である。

 

ヒトは、生き物である。ゆえにテストステロンの影響はたしかにあるだろう。しかし、パートナーとの関係を、そうした成分でのみ語ることは、叡智への冒涜であり、さらには優生学的で差別的な、恥ずべき思想である。

 

テストステロンが低い男たちが、日本人的リベラル思想に走るのではないか?という彼女の結論には、深い無理解と無意識な差別的思想、そして強引で無意味な断定的発想とが絡み合った、複雑な背景がありそうだ。

 

テストステロンだけが、パートナー形成を決めるのか。テストステロンが低い男たちには、自由な思想はないのか。テストステロンが低い男たちだけが研究者なのか。彼女は京都大学理学部にて日高敏隆を師として動物行動学を学んだ経歴を持っているらしい。しかしその事実は、このような無茶苦茶な論調をサポートしない。

 

 

ヒトの社会は、問題が山積みである。テストステロンは生物学において重要な役割を果たす要素であり、なにか我々はヒントを得られるかもしれない。それでも、テストステロンに遺伝的な背景に基づくような個体差があるのだとすると、そうした差・多様性を認める社会を我々が作っていくべきなのではないか。ぼくはそう思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

研究発表と漫才

学会発表が好きです。直前まではガクガク緊張しているし、準備には考えられないほど時間がかかるし、練習しないとうまく話せないのですが、それでも僕は発表が好きです。

 

たぶん、僕は発表を通じて、人と「コミュニケーション」をするというのはもちろん、なんとなく演劇というか、普段の自分とは少し違う「パフォーマンス」をしている気分になるのだと思います。聴衆が笑ってくれると嬉しいのです。

 

そしてパフォーマンスを通じて聴衆とのコミュニケーションを図るというのは、なんとなく漫才に似ている気がします。

 

僕には漫才はできないと思いますが、これからもたくさんの方々を楽しませながら、自分自身も楽しい発表を行いたいと思います。

 

 

 

 

「チカラ」に依存しない生き方

女子力。

思考力。

判断力。

想像力。

世間は「チカラ」で溢れています。孫悟空フリーザを倒せたのもこのおかげです。でも僕は、何にでも「チカラ」を添える言葉遣いは、あまり好きではありません。

「◯◯力」は、曖昧で、乱暴たりうる。

たとえば「思考力」という言葉を拾ってみましょう。思考+力です。「思考」とは、スーパー大辞林によると:

意志・感覚・感情・直観などと区別される人間の知的作用の総称。物事の表象を分析して整理し,あるいはこれを結合して新たな表象を得ること。狭義には概念判断推理の作用による合理的抽象的な形式の把握をさす。思惟。〔明治期につくられた語〕

さもありなん。しかし、この"知的作用の総称"の「力」とは一体、何を指すのでしょうか。定義できますか。

もちろん、他者の個性に定義が必ず要求されるとは思いませんが、こうした曖昧な概念の言葉を、あたかも具体的で共通認識があるかのごとく社会的に用いるのは、果たしてどれほど意義があることでしょうか。

そして、個人に力を、外から付随させることって、実は危険で乱暴なことではありませんか?

多義的で誤解を生む可能性がある

曖昧さに基づく詭弁は、多義性に基づく詭弁と切っても切り離せない関係にあります。たとえば「判断力」という言葉。判断する力とはどういうこと?即決する傾向のこと?合理的な判断をする傾向のこと?

こうした正確な定義なしに、その言葉を用いてなにかを理解することは、真の理解へは繋がりません。

 力がないわけではない

もちろん人にはそれぞれ、得意不得意があります。それは個性の一部です。その意味では、力の存在を否定することはできません。たとえば人によって筋力や体力は違います。病気になったときの治癒力も違います。アルコール分解力、とかもそう。

しかしそれらは、原理的には定量評価できるものです。抽象性がありません。我々はしっかり認識できます。

また、「馬力」や「馬鹿力」は比喩表現です。筋力や体力の瞬間的な増幅を表す言葉、と理解すればよいでしょうか。

権力

政治力。統率力。こうした概念のチカラは、権力によって決まります。つまり、肩書き抜きにした個人・個性から生まれる力ではありません。Powerです。

他の言葉で置き換える

力という言葉に支配されていた我々を解放し得るのは、その言葉を別の言葉に置き換えてみるという、批判的な作業です。

たとえば例によって「判断力」という言葉。これを定義する言葉はどんなもの?あるいは、どういう性質が、判断力を形作るのか?

これは、判断力という言葉にマスクされていた部分をより深く理解するための、思考トレーニングになります。

安易にチカラを受け入れてはならない

「想像力の欠如」という言葉はよく耳にします。たとえば、誰かとのコミュニケーションがうまくいかないときに、その相手を形容するときに用いられたりします。

しかし相手の「チカラ」のせいにすることは、進歩を助けるでしょうか。生産的なのは、なぜ想像力などという(ぼくからすれば、空虚な)ものが要求される状況になったのかを批判的に検討し、反省することなのではないか。

あるいは、相手の想像できる範囲を察して、ビジョンを共有するというオープンな営みを、無理やり閉じさせてしまいやしないでしょうか。

別の例。「女子力」というと、料理をよそったり、作ったり、編み物をする人たちを形容するときに用いられるわけですが、それはつまり、「女子」というラベルやカテゴリから、「女子らしさ」を勝手に定義して、相手をそこに嵌め込むということです。

女子らしさってなに?

相手をなぜ、カテゴリにはめこんで形容したりするの?

そしてそれは、あなたは本当にその人と向き合うことになっているのか?

チカラフリー

以上のように、曖昧な「力」という言葉から自らを解放することは、文字通りに、柔軟な思考や分析を助けることが多いので、とてもオススメです。力に囚われたままに世界を見ることよりも、あなたの人生を豊かにする可能性があります。

………はて、豊かな人生とは、いったい何か?

そんな疑問も即座に、そして自然に頭に浮かぶようになれば、少しずつ世界の見え方が変わってくると思います。

もちろん、考える葦を目指さない自由もありますが、僕は世界をどう見るか、世界がどう見えるか、周りはどう見ているか、を突き詰めたい。そういう気質なのだと思います。

論文投稿時によくある誤解

論文投稿時によくある誤解4つ。直訳はしません。

crosstalk.cell.com

フォーマットがエディターの決定に影響する?

Wrong. Often, I see papers submitted in an all ready-to-publish format, and it's clear that a lot of hours were put into the aesthetics of the paper. But all of this hard work, while appreciated, won't impact the editor's decision. The science is what matters, not the paper's appearance.

  • 誤りである。ジャーナルのフォーマットに完璧にあわせて投稿するのは時間の無駄である。決定には関係ない。論文の見た目ではなくサイエンスそのものが大事。

Tip: What is important for submission is the general article format. Other requirements such as character count, figures, and journal-specific rules should be loosely followed. This can assist the editors in understanding why the format was chosen. A good rule of thumb is to ask yourself: if you were a reviewer, would you be satisfied with the information provided? Is the manuscript clear and logically ordered?

  • 全体としての論文フォーマットが大事。文字カウント、図、ジャーナル特有のルールにはゆるく従うべき。これによって、なぜそのようなフォーマットを用いたのか、エディターが理解しやすくなる。
  • 好ましいrule of thumbは、自問自答してみることである:もしレビュアーなら、論文内で提供された情報に満足か?原稿はクリアで論理的に整合的か?

カバーレターは長ければ長いほど良い?

A cover letter is required for submission, but it shouldn't be a dissertation. I've seen authors bury the significance of their paper in a lengthy letter. It's understandable; after all time spent in the lab, it's tempting to try and capture every detail. But editors value cover letters that are to-the-point and concise. Tell us what's important about the paper, how it's relevant for the journal, and what the take home message is.

  • カバーレターは投稿に必要である。しかしそれは論文であってはならない。
  • 長ったらしいレターに論文の重要性を埋め込む*1著者も散見される(気持ちはわかる)。
  • 研究室で過ごした長い時間を鑑みて、あらゆる詳細をキャプチャしたくなることだろう。
  • しかしエディターは、的確なカバーレターを重要視する。
  • 論文の重要性、どういう意味でジャーナルに適切か、そしてメッセージは何か。これらをエディターには伝えること。
  • Tip: 最高のカバーレターはシンプルで、謙虚なものである。

推奨されたファイルサイズは、目安でしか無い?

File size is important. When processing manuscripts, the first thing a Journal Associate looks for is the submission size. If it's too large, the process is halted. As a convenience to authors and reviewers, we require the combined submission PDF be under 20 MB. If not, the paper is returned to the author for changes. Often times, the trouble is in the figure files. It's important that both reviewers and editors can easily download the submission without clogging up their bandwidth.

  • ファイルサイズは重要。原稿のマネジャー達はこれをまずチェックする。大きすぎると処理は滞る。全部あわせて、PDFにして20MB以下でないといけない。
  • 20MBを越えると、著者に原稿は返される。
  • だいたいは、サイズオーバーは図のせいである。
  • 査読者や編集者が容易にダウンロードできることが大事。

ファイルがたくさんあるとプロセスが速くなる?

It can be confusing to know which files should be uploaded during initial submission. One of the most common questions I get is do the highlights and eTOC blurb file, graphical abstract, conflict of interest form, STAR Methods section, and Key Resources Table need to be provided?

  • どのファイルを投稿すればいいのかはよくわからないことがある。最もよくある質問は、ハイライト、eTOC blurb、graphical abstract、利害相反ステートメント、… なども投稿する必要があるのか、というものである。

The answer is no. The only required materials for editorial consideration are a manuscript and a cover letter. Whether provided as a combined manuscript or separate files, it doesn't matter. The important part is that the submission includes information the editors will need to make a decision.

  • 回答はNOである。エディターに必要なのは、原稿とカバーレターのみである。投稿されたものが単一のファイルだろうが、複数のファイルだろうが、問題にならない。重要なのは、エディターが判断を下せるだけの情報が、投稿ファイルに含まれていることである。

*1:埋葬する、つまり殺してしまう、というのは言い過ぎか

海外研究者と日本で交流しよう

以前のエントリで、日本の公募システムに対する意見を述べたのは、当然ながらそこへの不満があったからなのですが、日本の(少なくとも進化生態学の)学会などが、国外からの研究者を学会に積極的に呼ぼうとしていることについては、本当に素晴らしいと思います。

もちろん、僕は日本国籍を持ってはいても、アメリカに住んでいるので理論上は「海外研究者」なわけですが、ここでは「日本国籍を持たない海外研究者」を考えます。現に、いくつかの科学研究費などは、日本国籍を持つ研究者の招聘については、除外していることが多いです(し、それで良いと思っています)。

僕は、修士や博士のころに、積極的にヨーロッパでの*1国際学会へ出かける習慣がありました。特に、たとえばラボ全員が行くような国際学会は、極力避けていました。みんなで同じ宿に泊まったりするのも楽しいでしょうが、学会に行ってまでラボの人とずっとつるんでいても仕方ないし、単騎で乗り込むほうが、社交性も英会話も鍛えられると思ったからです。*2

それでも、国外に行くのはとても高い。そこで目をつけたのが、国内で「海外研究者を招聘する学会」です。これは非常に良い。日本で安い旅をして、海外の研究者と交流できる。最高です。

ということで、いくつもの、日本での国際学会に行きました。東北・京都・滋賀・などなど。そこであえて国外の研究者たちと交流することには、いくつものメリットがあります。すこし打算的な表現ですが、メリットです。

日本人だけの環境において、英語で話しかけられると嬉しいだろう

日本語を話せる人口はそう多くありません。日本語を話さない彼ら彼女らが日本へきて戸惑うのは間違いなく言葉の問題です。そんな環境において、彼らに英語で積極的に話しかけるのは、間違いなく好印象をもたらします。

打算的でしょうか?でも、自分が国外へ行って同じようにしてもらえたら、嬉しいですよね?お互い様ではないですか?*3

僕は、学部の頃には、「英語で日本語を教えるボランティア」を一年だけしていました。キャンパスで、道に迷っている人を見つけたら、一緒にそこに連れて行ってあげたりしていました。今思えばそうした経験は、非常に貴重です。いまでも町中で外国人にはいろいろ教えます。

ある意味で「四面楚歌」な彼らに救いの手を差し伸べる勇気がありさえすれば、簡単に友達になれるわけですね。

英会話へのスウィッチ

みんなでご飯へ行くときに1人だけ外国人。そんなときは思い切って、英会話にスウィッチしましょう。それはふたつのメリットがあります。ひとつはもちろん、自身の英会話感覚の向上に関する部分。はっきり言って、みんな「へたくそ」なわけです。でもそれでいいんです。下手か上手かよりも、日本人としての英会話を行なって、意思疎通がとれたらそれでよいのです。

もうひとつは、そこにいる非日本語話者に、日本人の英会話ペースを理解してもらえることです。みんながみんなペラペラ話せないことを分かってもらえるだけでも、日本の状況への正しい理解につながっているわけです(悲しいかな)。

大事なのは、間違いを恐れないこと。僕の経験では、他者の英語を笑う人は英語の向上が遅いです。理由はシンプルで、「うまく話さないといけない」という誤解をしているから。

「日本で会いましたね」

上にも関連しますが、日本で共有した経験は、自分が異国へ足を踏み入れた時に巡り巡って返ってくることがあります。僕はいままで何度、国外で「日本で会ったね!」という挨拶をしたか分かりません。外国人と簡単に経験を共有できる環境が、日本にも提供されているわけです。彼らもそうそう薄情ではないわけで、まわりのひと達にも「彼とは日本で会ってね…」といった紹介をしてもらえるわけです。

ま、これもちょっと打算かも知れませんが、「日本で会った」という経験の共有は、ただ単に再会する以上の気持ちを呼び起こすわけです。学会の目的が人と話すことである以上、僕にとってはそうしたシンパシーがとても自分の研究の原動力になっている気がするのです。

日本まで来てくれてありがとう!とメールする。

学会が終わったらこうしたメールを一通送るだけで、相手は相当喜ぶはず。自分も気持ちいいし、一石二鳥。内容なんて、雑談のはしっこの「この論文面白いよ」とかでもいいわけです。それに、あなたの日本語の名前、思った以上に覚えてもらえていませんよ。日本人の名前って難しいんです。でも、メールを書いて覚えてもらったり、送付先リストに加えてもらうだけでも、まったく違いますよね。

ただし…!

挨拶メールの書き方。これはともかく経験しないと上達しません。失礼のないように気をつけた方が良いでしょう。

友達になろう

日本人は年齢次第で態度を変えることが美徳とされていますが、アメリカやエウロパではそうではないと思います。フランクに、友達になっちゃいましょう。FBでもTwitterでも何でもよいんです。SNSは友情を表すとは限らないし、握手やハグするだけで、その結束は変わってくる。でも相手の出方を見ましょう。フランスだとほっぺ同士をぶつけあいますが、下手すると顔がぶつかりそうになります。まるで、廊下ですれ違いそうな相手をよけて右に歩んだら相手も同じ方向によけてくるパタン。気をつけて。

自己紹介をしっかりと!

「何研究してるの?」

は相手の最も大きな引き出しに手を伸ばせる、魔法の言葉です。そして自分の研究は英語で話せるようにしておきましょう。僕は、外国人のいる懇親会では、研究スライドを紙芝居のように持ち歩いたりしていました。

でまあ、我ながらこう書いてみると、僕の日本での行動は、常に国外を目指したものだったことに気づきます。指導教官からの影響は多大ですが、こういう行動は着実に、経験値となっていきます。こうした思いから綴った、長めのエントリでした。

*1:なぜかアメリカには行ったことがなかった。理由はご飯のせいかなあ?自分でもわからない。

*2:初めて単身で乗り込んだ学会は、ネイティブの知り合いが1人だけいる学会で、日本人がゼロ。これは本当に精神的に相当に鍛えられました。いまでもそこで知り合った研究者とは交流があります。当時、論文の出版もなくただただ自分の結果を引っさげて、イギリスはYorkまで乗り込んだわけです。今思えばむっちゃ楽しかったです。

*3:個人的経験では、いまんところ、アメリカ人と友人になるのは僕にはとてもむずかしい反面、別の国…たとえばカナダ、中南米、ヨーロッパ、アジアなどの国々からの人と仲良くなるのはむっちゃ簡単です。彼らも英語は非常に達者なのが普通ですけど、アメリカ文化への順応という困難を共有しているのはやはり大きい。同じ理由で、フランスでは別の国からの人たちと友達になるのは比較的簡単です。