女子力。
思考力。
判断力。
想像力。
世間は「チカラ」で溢れています。孫悟空がフリーザを倒せたのもこのおかげです。でも僕は、何にでも「チカラ」を添える言葉遣いは、あまり好きではありません。
「◯◯力」は、曖昧で、乱暴たりうる。
たとえば「思考力」という言葉を拾ってみましょう。思考+力です。「思考」とは、スーパー大辞林によると:
意志・感覚・感情・直観などと区別される人間の知的作用の総称。物事の表象を分析して整理し,あるいはこれを結合して新たな表象を得ること。狭義には概念判断推理の作用による合理的抽象的な形式の把握をさす。思惟。〔明治期につくられた語〕
さもありなん。しかし、この"知的作用の総称"の「力」とは一体、何を指すのでしょうか。定義できますか。
もちろん、他者の個性に定義が必ず要求されるとは思いませんが、こうした曖昧な概念の言葉を、あたかも具体的で共通認識があるかのごとく社会的に用いるのは、果たしてどれほど意義があることでしょうか。
そして、個人に力を、外から付随させることって、実は危険で乱暴なことではありませんか?
多義的で誤解を生む可能性がある
曖昧さに基づく詭弁は、多義性に基づく詭弁と切っても切り離せない関係にあります。たとえば「判断力」という言葉。判断する力とはどういうこと?即決する傾向のこと?合理的な判断をする傾向のこと?
こうした正確な定義なしに、その言葉を用いてなにかを理解することは、真の理解へは繋がりません。
力がないわけではない
もちろん人にはそれぞれ、得意不得意があります。それは個性の一部です。その意味では、力の存在を否定することはできません。たとえば人によって筋力や体力は違います。病気になったときの治癒力も違います。アルコール分解力、とかもそう。
しかしそれらは、原理的には定量評価できるものです。抽象性がありません。我々はしっかり認識できます。
また、「馬力」や「馬鹿力」は比喩表現です。筋力や体力の瞬間的な増幅を表す言葉、と理解すればよいでしょうか。
権力
政治力。統率力。こうした概念のチカラは、権力によって決まります。つまり、肩書き抜きにした個人・個性から生まれる力ではありません。Powerです。
他の言葉で置き換える
力という言葉に支配されていた我々を解放し得るのは、その言葉を別の言葉に置き換えてみるという、批判的な作業です。
たとえば例によって「判断力」という言葉。これを定義する言葉はどんなもの?あるいは、どういう性質が、判断力を形作るのか?
これは、判断力という言葉にマスクされていた部分をより深く理解するための、思考トレーニングになります。
安易にチカラを受け入れてはならない
「想像力の欠如」という言葉はよく耳にします。たとえば、誰かとのコミュニケーションがうまくいかないときに、その相手を形容するときに用いられたりします。
しかし相手の「チカラ」のせいにすることは、進歩を助けるでしょうか。生産的なのは、なぜ想像力などという(ぼくからすれば、空虚な)ものが要求される状況になったのかを批判的に検討し、反省することなのではないか。
あるいは、相手の想像できる範囲を察して、ビジョンを共有するというオープンな営みを、無理やり閉じさせてしまいやしないでしょうか。
別の例。「女子力」というと、料理をよそったり、作ったり、編み物をする人たちを形容するときに用いられるわけですが、それはつまり、「女子」というラベルやカテゴリから、「女子らしさ」を勝手に定義して、相手をそこに嵌め込むということです。
女子らしさってなに?
相手をなぜ、カテゴリにはめこんで形容したりするの?
そしてそれは、あなたは本当にその人と向き合うことになっているのか?
チカラフリー
以上のように、曖昧な「力」という言葉から自らを解放することは、文字通りに、柔軟な思考や分析を助けることが多いので、とてもオススメです。力に囚われたままに世界を見ることよりも、あなたの人生を豊かにする可能性があります。
………はて、豊かな人生とは、いったい何か?
そんな疑問も即座に、そして自然に頭に浮かぶようになれば、少しずつ世界の見え方が変わってくると思います。
もちろん、考える葦を目指さない自由もありますが、僕は世界をどう見るか、世界がどう見えるか、周りはどう見ているか、を突き詰めたい。そういう気質なのだと思います。