Life is Beautiful

主に進化生物学の理論のブログです。不定期更新予定。

何月に論文を投稿すると掲載されやすいのか?

クリスマスホリデーのシーズンになると、ふと考える。

いま投稿してもエディターは対応してくれないのではないか…

いま投稿してもレビュアーは対応してくれないのではないか…

投稿数が少ない時期を狙ったほうが、チャンスなのではないか…

こんなごく自然な葛藤に、Cell Pressの編集員が答えていました。

When Are the Best and Worst Times to Submit Your Paper?:Emilie, Can I Ask You? http://www.cell.com/crosstalk/when-are-the-best-and-worst-times-to-submit-your-paper

As the year comes to a close, I am prompted to answer a frequently asked question related to annual "seasons" at a journal—when are the best and worst times to submit a paper? I think there are two assumptions behind this question: first, that there are times of the year when submissions are significantly higher or lower than average; and second, that success rates will vary accordingly. The first assumption is correct. The number of submissions at Cell is generally representative of submissions at other Cell Press journals, and there are times of the year when submissions pick up. Submissions tend to be highest in the summer (June, July, and August) and around the late fall (October and November) and are relatively lower in February and March. The summer boom is likely fueled by graduate students wrapping up projects for a spring thesis defense, faculty teaching responsibilities and classes coming to a close, and inspiration/competitive angst on the rise, with all the exciting science presented on the summer meeting circuit. Bursts of activity late in the calendar year likely reflect attempts to ensure a publication date in that year. And there are smaller but predictable surges in submission: hundreds of papers are submitted just before the end-of-year holidays.

  • 年の瀬も近づいてきたことだし、FAQに答えようではないか。それはジャーナルの「シーズン」に関するものである -- 投稿のタイミングの良し悪しはあるのか。あるとしたら、いつだろう?

  • この疑問の背景には、2つの仮定が潜んでいる:(1) 平均的な投稿数に比べて、投稿数が多い時期と少ない時期が、一年の間にある; (2) それに応じて、成功率*1が変動する。

  • ひとつめの仮定は妥当である。Cell誌における投稿数は他のCell Pressのジャーナルにおける投稿数のよい代表値になっていて、 投稿数が高まる時期というのが確かにある。

  • 夏(6-8月)と秋(10, 11月)は投稿数が最も多くなる傾向にあり、2, 3月は低い傾向にある。
  • 夏における投稿ブームは、春のPhDディフェンス(学位公聴会)に向けてプロジェクトをまとめあげるPhD学生、講義を終えた教員たち、そして高まる不安・インスピレーションにあいまって、夏の楽しい学会シーズン開始…といった事情に加速されるのであろう。
  • 年末に近づくにつれて投稿数が増えるというのは、年内の業績を高めようという試みを反映しているのだろう。
  • そして、投稿数の僅かながら予測される増加にいたる:年末のホリデー直前には数百本の投稿がある。

But the second assumption is wrong. Our editorial criteria are not influenced by submission volumes or by publication rates. We send important and interesting papers for review because they're important and interesting. If your paper is important and interesting, we'll get excited about it regardless of how many other important and interesting papers are submitted that week.

  • しかし二つ目の仮定は妥当でない。
  • Cell誌編集員の掲載基準に対しては、投稿数も出版率も影響しない。
  • 編集員が重要で面白い論文をレビューに回すのは重要で面白いからである。
  • あなたの論文が重要で面白いのであれば、同じ週にどれだけ重要で面白い論文が投稿されようとも、編集員の興味はくすぐられる。

この最後の言葉には励まされるしとてもフェアだと思います。 ちなみに個人的に一度、とある伝統あるジャーナルに「同じ週に、似たトピックを扱った論文が投稿されたので相対評価している」と言われて、査読にまわるまで4ヶ月待たされたことがあります。 しかも後にその論文はリジェクトされて他のジャーナルに掲載されていたのですが、全然似ていなかったのです。

Still, there may be one seasonal impact—not on the outcome, but on the speed of decisions. In early August and mid-December we frequently receive cover letters to the effect of, "Here is a beautiful piece of work from my lab. I will be on vacation for the next 2 weeks. It would be great to have the reviews when I get back." And in response to our reviewer requests in those same time periods, we similarly hear, "Looks like a really interesting paper. Would love to review it, but I am on vacation for the next 2 weeks so I couldn’t get back to you till ..."

  • それでも、ひとつだけ「時期」のもたらす効果があるだろう。それは結果に対してではなく、決定のスピードに対するものである。
  • 8月初頭や12月半ばには、カバーレターにこんなことが書かれている投稿を頻繁に受け取る:「私のラボからの美しい研究をここにお見せします。次の二週間はバケーションに出ますので、戻るころに査読結果をいただけると有り難いです」
  • そしてその時期にレビュアー・リクエストを送ると決まって「面白そうな研究だし査読できればどれだけ幸せかわからない、しかし次の2週間はバケーションに出ますので、○○までお返事はできません」という返事を受け取る。

So, happy holidays from me and the rest of the Cell Press crew! By all means, submit your paper anytime you want. But if you send it on New Year's Eve, don't be surprised if it takes just a few days longer to get news.

  • それじゃ、私と、Cell誌の関係者から、"Happy holidays"と申し上げたい。よいでしょう、好きな時に投稿して下さい。しかし大晦日に投稿されても、我々からの返事にすこしばかり時間が必要でも、驚きはしないでくださいね。

投稿する自由はあります。すっきりした気分で紅白歌合戦を観て、「行く年くる年」を観るのも悪くないでしょう。

ただ、師走は大晦日に駆け込みで投稿するよりも、原稿と共に新年を迎えて推敲を深めてから投稿してもよいかも。どうせどの編集員も査読者も、大晦日に投稿があってもハンドルできないのですから

ということで結論:好きな時に投稿すべし。

*1:アクセプト率と思えばいい

知っておきたい誤謬7: homunculus fallacy(ホムンクルスの誤謬)

定義

原理上、無限に後退させることが可能な推論。

分類

形式的誤謬。

論理形式

Phenomenon X needs to be explained. Reason Y is given. Reason Y depends on phenomenon X.

Homunculus Fallacy

説明

論理形式がやや分かりにくいが、終わりのないループによって、命題を示すこと。Infinite regressとも。

この終わりのない推論はただのトートロジーと同じというわけではない。 現象Xを、原理Yによって示した結果、原理Yが現象Xを内包してしまっていた、というパタンである。 この誤謬は、いくらでもスケールを広げたり、レベルを大きくできるようなメカニズムを用いて、命題を示してしまった時に起こる。

用例

  • 自我の起源を考える。「どこか別の世界の誰かが自分を操っている」という原理で自我の起源を説明すると、「操っている誰か」の自我の起源は非自明である(これをさらに操っている者はいない、という可能性は常に否定できないため、永遠にこの推論は終わらない)
  • よくできた生物の世界は、「デザイナー」によって作られたものだ(創造説)。これで地球上の生物の起源や多様性が説明される。(すると、この「デザイナー」をデザインした存在の可能性を否定することは出来ない)
  • ホムンクルスの誤謬:感情の起源を考える。感情というのは、それを操作している小人(ホムンクルス)によって生ずる感情の反映なのである。(ではそのホムンクルスを操るのは誰?メタ・ホムンクルス?)

分析

一般に、無限を(無垢な)推論で扱うときには、最深の注意を払わねばならないことが知られている。脚注にふたつほど例を挙げる*1。だが、この誤謬の本質は、プロセスの原理を、同じプロセスを用いて説明するという点にあるのであって、 「無限の推論」が常に許されないというわけではないことには、注意をせねばならない。

派生的誤謬:悪魔の証明

悪魔が存在することを証明することはできないし、悪魔が存在しないことを証明することもできない。 これはAppeal to ignoranceと呼ばれる。

用例

  • 「悪魔は存在すると思う。だってさ、存在しないなんて証明はないし、できないでしょ?」(「証明が存在しないこと」が、「存在しないこと」の根拠として用いられてしまっている)
  • 所有権証明の困難性:ローマ法以来の古い歴史を持つ。ある(財的価値のある)物の所有権を積極的に証明しようとすると、困難に陥る。たとえば、「父から継承した」ことを示したとしても、「父が祖父から継承した」ことを示さねばならないのである。こうしたプロセスをずっと繰り返すうちに必ずほころびは出てくる。これにより、所有権を証明することは実質的に不可能なのである。
  • 痴漢あかん:「きゃー!この人、痴漢です!」「お、俺はやってない!!!」「じゃあ証拠を見せろよ!」(痴漢で「冤罪であること」を証明するのは、非常に困難である)

教訓

僕の中にいるリトル本田の中にいるリトル・リトル本田の中にいるリトル・リトルリトル本田の中にいるリト

*1:

  • ヒルベルトパラドックス:無限の部屋数(1号室、2号室、3号室、…)をもつホテルに、たくさんの客(ただし簡単のため有限人数)がやってきた。フロントによると、部屋は満室らしい。これでもどうしようもない。しかし客の1人が、「それでは、それぞれ自室を二倍した部屋に移るように、いまのお客さんにお願いをしてください」とフロントに提案した。1号室の客は2号室に。2号室の客が4号室に。3号室の客は6号室に…という塩梅である。すると、(無限にある)奇数の部屋は全て空室になり、やってきた客は全員、泊まることができた。めでたしめでたし…

このヒルベルトパラドックスは論理的に誤った推論ではない。しかし、実は現代数学には「無限に必要な操作」に関して厳密である:

  • 選択公理:さきほどのホテルにある無限の客室はすべて「ダブル」で、どの部屋にも2人が宿泊しているとしよう。簡単のためその2人を「ペア」と呼ぶと、ペアもまた無限にあるということになる。ホテル側は朝食券を用意し、ペアのうちどちらかにだけ(代表として)渡すことをするという。ホテル側は、無限にあるペアから代表を選抜し、朝食券を渡せるのだろうか?

一見すると「できないわけがない」ように思えるが、実はこの操作を保証するには、定義や定理、命題ではなく公理(axiom)を課す必要があるのである。一種の前提でありルールのようなものである。このルールがあると、色々と都合がよい…し、それどころか、このルールがないと、論理上の困難が現れ、数学の体系の根幹自体が危うくなってしまうのである。

だがこのルールを採用するとまた、不思議なことが起こることもまた、知られている。詳しくはバナッハ・タルスキのパラドクスを参照してほしい:

バナッハ=タルスキーのパラドックス - Wikipedia

現代の数学にはいまでも、このような公理の問題が残されているし、この問題が解決されることはない。このように、数学の根幹を支える「無限」という概念には、文字通りの無限の深淵さがあるのである。

ではなぜ数学的帰納法は許されるか?ということを考えると、どつぼにはまる。「超限帰納法」「整列可能定理」について調べられるとよい。選択公理も関わってくる。

知っておきたい誤謬6: Masked man fallacy(覆面男の誤謬)

最初のおことわり

今回のポストはとても中途半端で散文的になってしまいました。査読をうけていないのがその一因です。 それでも公開するのに踏み切ったのは、意見や議論を受け付けたいという目的からです。 従って、このポストの内容を科学的弁論に採用することはおすすめしません。 しかし、意見を仰いで少しでも改善していきたいと考えております。 もちろん「生半可な知識でブログをすることの罪深さ」を自身で弾劾することは、決してしません(ブログを綴ることには、科学におさまらぬ自由が保証されている)が、 1人の科学者として恥ずかしく思うと同時に、読んでくださる方には感謝しきりです。ありがとうございます。

定義

ある対象Aが特性Pを満たす一方で、別の対象Bは特性Pを満たさない、という仮定から、AはBではない、と結論付けること。

分類

形式的誤謬

論理形式

A is P, but B is not. Hence, A is not B.

説明

覆面男の誤謬、あるいはEpistemic fallacy(認識論的誤謬)。 この覆面男というのは次のような例のアナロジーである:

I know/recognize who Bob is. I do not know who the masked man is. Therefore, Bob is not the masked man.

(Masked-man fallacy - Wikipediaを一部改変)*1

認識を事実とすり替えて推論してしまうことである。 そう、これは科学における実在主義(科学的実在主義)に対して非常に批判的な矛になり得る。

用例

そもそも覆面男自体が比喩的なものであるが、この誤謬の適用される命題は非常に幅広いことを示したい。

  • 「神が存在することを示す確たる根拠のひとつは、私の中に存在することである」(前者は事実的問題、後者は認識的問題)

  • 「なぜ、◯◯理論は間違っている、とあなたは主張できるのですか?」「なぜなら、実験して測定するとそういう結果になったためです」 (測定結果が事実に一致するという誤謬に陥っている。そうではなく、その測定条件や誤差について言及し、その測定がいかに「悪くないものか」を論ずるべきであろう) *2

分析

上の例を見るとわかるが、そうなると「実験してデータをとった研究や、現象の観察的研究はすべて、誤謬である」というヤバい結論に至りかねない。 だから科学(あるいは、科学的実在主義)の根幹には、「現象」から「データ」への「観察写像」がよい近似になっているのであれば問題はない、というドグマがあるはずである。 その意味で、観察行為はすべて現象の近似であり、モデリングなのである。

このように、「認識≠事実」は超越論的実在主義と呼ばれる立場をよりはっきりとさせる誤謬であると言える。 「社会科学に対して、自然科学のように未発見・未認識の存在を模索するアプローチを適用するのには問題がある」 という立場と 「社会科学に対して、自然科学のように未発見・未認識の存在を模索するアプローチを適用するのに問題はない」 という立場との対立が顕著であるようだ *3

すこし話がそれたので端的に言えば、「認識が事実と一致するとは限らない」ということ。認識と事実の不一致は、たとえば確証バイアス(自身の仮説や考え方にマッチするような証拠ばかりが優先的に認識され、結果として集まった状況証拠に、認識に伴うバイアスが生じてしまうこと)などによって容易に起こる。 僕の考えでは、世界が秩序をもって*4存在するのだとしても、それを観察・認識できないのであれば、存在しないと仮定するのが妥当であるかどうかは、真剣に吟味される価値がある。 たとえば「確率ゼロで起こる事象」については我々は普段、ナイーブに「存在しない事象」と見なしてしまいがちである。 だが、飛行機に乗っている時に「隣の人が大きなくしゃみをしたせいで機体が揺れ、最終的に飛行機が墜落してしまう確率」をどう理解すればいいのか分からない。このジョークのような確率は事実上ゼロであろうが、これを我々は(頭の中で)仮想することは可能である。

ちなみに僕は理論研究家として「全てのモデルは不完全である」という認識だが、「全ての観察も不完全である」と考えている。だが「全ての事実は完全である」という主張は全知全能のパラドクスを導く*5ので、ここでは強く主張はしないでおく。

なお余談だが僕は仮面やピエロのような、表情を隠すためのものに対して並々ならぬ恐怖感を抱いてしまう。これはピエロ恐怖症と呼ばれる、(いちおう)精神疾患のひとつと認定されるものである。 なぜ怖いのかも僕は自身で理解している*6

雑感

僕は自分で軽度のアスペルガーであるという認識である*7が、このことを友人に打ち明けるとたいてい (いや、嬉しいんですよ、ありがとうございます。むしろ重い話をしてすみません)、 「そういう自覚があるなら、そんなことないんだと思うよ」という言葉を頂く。 この解釈には、非常なる慎重さが要求される。自己言及のパラドクス*8と覆面男の誤謬とが交絡している。 ここは素直に、論理を突き詰めるのではなく、自身と仲良くしてくれる友人を大切にするのが良さそうだ。 *9

教訓

Seeing is believing, independently of the truth

*1:Wikipediaには、ライプニッツの法則の誤った適用、とある。この観点には非常に感心した。

*2:なお、ここには複数の誤謬があるが特に、「測定して認識にいたった」から「事実がそうである」という論理にはギャップがある、というのがここでのミソである

*3:具体的にはたとえば以前に取り扱った、規範的命題と、事実的命題とのギャップが議論の的になるのではないか、と私は推察しています。しかし、不勉強につき、理解しきれていません。どういった論点があげられるのかをご教示願いたいです! なおランシマンによると「自然諸科学と人間の諸科学との間に は,本質的に基本的な相違があるということを肯定する人々と否定する人々との間の論争は, 二百年以上も決着のつかないまま続いている」

*4:平和に、という意味ではない

*5:「なんでも行える全知全能の神が存在すると仮定すると、その神は「自分で出来ないこと」を見つけられるか?」という問題。できないなら全知全能であることに矛盾する。できるのであれば、自分で出来ないことが見つかってしまい、また矛盾する。パラドクスである。

*6:道化師は歴史的に、たとえばサーカスで「薄給でこき使われる、まるで奴隷のような存在」であった。その中の人が笑顔で客に接するためには、あのような化粧をし表情を誤魔化すしかなかったのだろう。 よってあの仮面や化粧で作られた笑顔の下に、笑顔はない。「内心なにを考えているのか分からない人」に対する心理的不信感が自然選択によって進化してきたのではないか…とまで言うと、これはover-discussionか。

だが、「恐怖症」が「予測不能性に基づいている」というのが僕の理解である。これは、高所恐怖症の友人による私信そして、「先端恐怖症」のせいで「傘を横向きに保持しながら歩行する人へのフラストレーション」を抱くようになったぼく個人の経験に基づく。あれ、身長を考えると子どもたちに対して非常に危険な持ち方であるから、絶対にやめてください

*7:時々、笑うタイミングやジョークが分からない、相手がどういうニュアンスで言っているのか分からない、相手の気持ちが分からない、という気分になることがあるためである

*8:「私はうそつきです」のパラドクス。

*9:ある友人は、ぼくの「俺ってアスペルガーやと思う?」という(絡みづらい)質問に対して、「もしそうだとしても個性だとしか思わない」という返答をくれた。僕はこの友人を一生大切にする。

知っておきたい誤謬5: Ecological fallacy(シンプソンの誤謬・生態学的誤謬)

定義

部分的な集団同士を比較した時の平均的な傾向と、全体集団同士を比較したときの平均的な傾向とが、一致しないがために、 集団間の比較による(統計的な)推論が機能しないこと

分類

非形式的誤謬

背景・説明

Simpson’s paradox。名前は、「発見者」にちなむ。*1

The Interpretation of Interaction in Contingency Tables on JSTOR

ことの発端は、我らがカリフォルニア大学バークレー校にて実際に起こった「事件」である。1975年のScience論文が驚きをもって迎えられた。

Sex Bias in Graduate Admissions: Data from Berkeley | Science

学部への入学生の男女比(男:女 の割合)を調べた所、大学全体の男女比は、著しく男に偏っており、性差別嫌疑をかけられる。 しかし学部ごとの入学者における男女比を調べたところ、この傾向は逆転し、女バイアスの入学傾向にあった。 さらに調べてみると、女受験生には、合格率の低い学部にチャレンジするという統計的な傾向が見受けられた。

つまり、競争率が高い学部で男受験者がおおくの割合で振り落とされていたが、 そうした学部は合格者数自体が非常に低いために「女性合格者数」も(当然)少なく、他の、競争がゆるい学部(大きな学部)での男受験生・合格者数の多さに引っ張られ、全体の男女比が見かけ上は男にバイアスしてしまったのである。

こうした分析により、バークレーは「社会的お咎めなし」ということになった。

この誤謬*2 はおもに、次のような原因を持つ(網羅的ではない):

  • 部分集合内における分散を考慮しないこと

  • ではなく割合で議論してしまうこと

重要なのは(いつもどおり)、 推論がうまく機能しないということ。何かを過大評価している?過小評価している?それとも公正に評価している? こうしたことが何も分からないのである。

用例

おそらく数値例を出したほうが分かりやすい。

例. 平均値合戦

数学のテストの点数を高校Aと高校Bで比較する。

  • 高校Aは理系90人(平均80点),文系10人(平均60点)

  • 高校Bは理系10人(平均90点),文系90人(平均70点)

どちらの学校が数学に関して好成績と言えるか?

(シンプソンのパラドックス | 高校数学の美しい物語 を一部改変)

高校A全体での平均値を計算すると78点で、高校Bのそれは72点なので、どうやら高校Aのほうが好成績か…? しかしよく見ると、理系平均でも文系平均でも、高校Bが、高校Aを上回っているのである。これでは、どちらのほうが「好成績か」を比較することができない。

これは、サンプル内における分散の無視が原因である。 こうした比較は、実証研究の核とも言えるものであるが、「比較する意義・目的」を考えるべきである。

  • そもそも、高校全体間で点数を比較する意義はあるのか?
  • 逆に、どのような時に専攻別で点数を比較すると、何がわかるのか?

つまり「高校○○のほうが高校✕✕よりも優秀であった」と論ずるのであれば、その前提をはっきりさせるべきなのであろう。詭弁によく見られる、前提を曖昧にする論調の一つとも言える。

なおこの誤謬、2015年にPNASで出版された論文にも見られるのである:

Gender contributes to personal research funding success in The Netherlands

オランダでは女性のほうが男性に比べて競争的獲得資金(grant)のアクセプト率が低い…というもの。 おや?どこかで聞いた話だな?ということで反論論文。

No evidence that gender contributes to personal research funding success in The Netherlands: A reaction to van der Lee and Ellemers

当該の論文がシンプソンの誤謬に陥っていることを明確にしている。 いやぁ…………これは、題材が題材だけに、むちゃくちゃ恥ずかしいですよ。 レビュアーは出てきなさい。 これは掲載取り下げしてもいいレベルだと思います、PNAS。タイトルがキャッチーなだけに。

分析と雑感:包括適応度理論

以下は長くなるので、進化生態学者むけ。

さて、これを進化生態学的なシチュエーションに置き換えてみよう。その論文が、最近(また!)PNASに出た論文。*3

The general form of Hamilton’s rule makes no predictions and cannot be tested empirically

2013年にも同様の論文。*4

Limitations of inclusive fitness

詳しくは説明しないが、クラス構造を明確にせずに遺伝子頻度の変化を計算しているミスを犯している。 ただ、「実証研究においてHamilton’s ruleを適用するのは一般には難しい」ことは意識せねばならない。 また、直感的な正しさに訴えかけすぎたという功罪も僕は認める。 というかそういう論文はすでに出ている(Akçay and van Cleve 2016):

The lineage's eye view of fitness | Philosophical Transactions of the Royal Society B: Biological Sciences

よりモダンな理論では、lineage fitnessが意味を持つ量である。そしてそれが数学的に包括適応度と等価であることが示されているのが

Invasion fitness, inclusive fitness, and reproductive numbers in heterogeneous populations - Lehmann - 2016 - Evolution - Wiley Online Library

で、Peter Taylorはグラフ理論と包括適応度理論との融合的研究を試みている:

Inclusive fitness in finite populations—effects of heterogeneity and synergy - Taylor - 2017 - Evolution - Wiley Online Library

より具体的に、次のようなシチュエーションを考えてみよう:

残した子供の数を、アリルAとアリルBで比較する。簡単のためハプロイドとする。

  • アリルAは、環境Xで9個体(平均8個の卵)、環境Yで1個体(平均6個の卵)を残した。

  • アリルBは、環境Xで1個体(平均9個の卵)、環境Yで9個体(平均7個の卵)を残した。

どちらのアリルのほうが進化的に有利か(たくさん卵を残せるか)?

全体を比較すると、アリルAは、1個体あたり7.8個の卵を残し、アリルBは1個体あたり7.2個の卵を残している。先ほどの数学テストの例と同じである。 しかし環境X,Yごとにみると傾向は逆転するのである。 よってこの「平均だけを見る」推論は機能しない。

ここでの理論的解決策は、各環境を経験する確率に関して平均をとり、そこで初めてPrice方程式を適用してHamilton’s ruleを導くこと (Açkay & van Cleve 2015, Lehmann et al. 2016)。 そう、繁殖価を考えること。Fisher (1930), Grafen (2006), Barton (2011)

The Genetical Theory Of Natural Selection : Fisher, R. A : Free Download & Streaming : Internet Archive

A theory of Fisher's reproductive value | SpringerLink

The Relation Between Reproductive Value and Genetic Contribution | Genetics

ちなみにこうした繁殖価は、Next-generation theoremを用いれば一発で導出可能。

Next-generation tools for evolutionary invasion analyses | Journal of The Royal Society Interface

もっと参考文献を挙げたいが、理論武装っぽくなるのでこのへんで。

重要なのは、「異なる環境にさらされると、同じ遺伝子コピーでも、違った子供の数を残すことがある」という点である。 実証研究でこれが難しいのは事実であろう。 しかしこれは理論の失敗ではなく、実務的な困難さなのである。

こうした論争によって、不幸せが生み出されている。

教訓

でも幸せならOKです!👍…幸せならね。

*1:ecological fallacyの"ecological"は、生態学者が犯しやすい、という揶揄の意味ではなく、群(集団)と個別(個体)との傾向の不一致に関する誤謬であるからである。

*2:Simpson’s paradox、というふうに「パラドックス」として扱う流儀もあるが、ここでは推論として機能しないという理由で、誤謬とした

*3:これはあくまでE.O.WilsonがNAS会員だから出版された論文なのである。いわゆるNAS会員による「権威論文」でしかない。要注意!!

*4:これもNAS会員論文。

知っておきたい誤謬4: Circular reasoning(トートロジー・循環論法)

定義

仮定Xから結論Xを導くこと。

論理形式

X now holds true. Therefore, X holds true.

命題Aが成立すると仮定する。このとき仮定より、命題Aが成立する。

分類

形式的誤謬。

説明

Tautology、トートロジー。 推論の価値というのは、仮定Xとは別の結論Yを導くことにある。 よって仮定から出発してそれを導いても、何も新しいことは分からない。 推測される結論Yを、仮定Xから示そうとした場合に、人はなぜか、Yから議論をスタートしてしまうことがある。 これは典型的で模範的なトートロジーである。だいたいは人の混乱からやってくる。

例を挙げるために特別に、セクションを設けて詳しく説明する。

例: 循環定義

次のような定義は循環定義と呼ばれる:

実数値の数列\( \{ a_{n}\} \)が \( n \to +\infty \)で発散するとは、\( \{ a_{n}\} \)が収束しないことと定義する。

また、\( \{ a_{n}\} \)が \( n \to +\infty \)で収束するとは、 \( \{ a_{n}\} \)が発散しないことと定義する。

これは数学的な文脈*1だけではなく、言葉にしにくい(抽象的な)概念を定義しようとするときに、容易に起こりうる。

明るいというのは、暗くない状態を指す。暗いとは、明るくない状態を指す。

具体的であるとは、抽象的でないことである。また、抽象的であるとは、具体的でないことである。

これは卑近な例であるが、ゼロから出発して何かに定義を与えるというのはとてもむずかしい作業なのである。 たとえば、テーブル:

テーブルとは、平な板…いや、平でなくてもよいか。板に足が4つついて…いや、3つ、1つ、いろんな足の数がある。木製…いや鉄製もある。。えーと、ということは何かを載せられて…いや、載せられないものもあるか…

少なくとも平易に「テーブルを網羅的に定義する術」が見当たらない。 こうした時、循環定義は悪魔の笑みを浮かべ、あなたのことを見守っているのである。

余談だが、テーブルを定義できない僕でも、英語のTableと日本語の「テーブル」とをconsistentな概念と一致させ、テーブルを見たときにそれをそう認識することができるは、自明な認識論で説明できそうにない。しかし、テーブル/Tableと、名前を獲得した概念がたしかに、僕らの認知を許すのは、興味深いことではないだろうか。こうした(観点に徹する)立場は唯名論と呼ばれる*2。名前がついていないものを僕らは認識できない、という考え方である。いかが思われるであろうか?

用例

  • 「ようこそ我が村へ!ここではまず、銀行口座を開設するためには、居住証明書が必要です。あ、あと居住を得るためには、銀行口座を開設せねばなりませんので、よろしくお願いしますね」(双方が互いの必要条件になっている)

  • 「この部屋にネコはないとする。ということはこの部屋にいるネコは全て真っ黒であると仮定してもよい。同じ理由で、この部屋にいるネコは全て真っ白であると仮定することもできる。つまり、この部屋にいるネコは全て真っ黒かつ真っ白である。これは不合理であるから背理法により、この部屋にネコはいると言える。しかし明らかにネコは見当たらない。故にこの部屋にネコはいない

後者は、思い返してみると実は非常によくある論理であるが、ベターな例が思いつかない。

ジョークもいくつか挙げておこう。

  • 「知っている人は知っている」

これはレトリックへの揚げ足取りか。

  • 「オレはオレや!!他の人とちゃうんや!」

騙されるな。オレを定義しろ。

分析と雑感:Is Darwinism tautological?

Neo-Darwinismはvacuous tautology*3 であるという批判をC. H. Waddingtonは果敢に展開している

Natural selection is that some things leave more offspring than others; and you ask, which leave more offspring than others; and it is those that leave more offspring; and there is nothing more to it than that.

Darwin's Enigma: Mr Fred Harding: 9781512003970: Amazon.com: Books

Darwin Retried: an Appeal to Reason: Norman Macbeth: 9780876451052: Amazon.com: Books

これを堂々と認める立場もある。例えば

ゼロからの論証 | 三浦 俊彦 |本 | 通販 | Amazon

なお、この言説は容易に、Price方程式がトートロジーかどうかという批判に換言され得る:

Talk:Price equation - Wikipedia *4

これに対しては

Why do people still use Price's Equation even though it is not a model but a mathematical identity? - Quora

Natural selection. IV. The Price equation (S. A. Frank, 2012)

Natural selection. IV. The Price equation - FRANK - 2012 - Journal of Evolutionary Biology - Wiley Online Library

などで詳しく説明されている。進化生態学者は必読。

余談: Vacuous Truth(空虚的事実)

上のネコの例に戻ろう。 同例において、発言者は、存在しないネコについて主張を行なっている。 これはいかなる命題も正当化する(偽の仮定から導かれた主張は常に真である、という論理学における基本的な事実に基づく)。 そこから導かれる結論は意味がない。論理的には正しくても、である。

より正確には、主張をもっと論理的に詰めることが可能である。 「この部屋のネコの色」について言及するのであれば、「この部屋にネコが存在する」ことを仮定せねばならないのである。 これを怠っているがために、ちんぷんかんぷんな議論になってしまっている。

これは非常に重要な推論の性質であると言える。現に、次の命題の真偽を判定できる人は思った以上に少ないだろう:

二項関係「〜」*5 において、

「反射律」とは、「A〜Aである」ことである。

「推移律」とは、「A〜BかつB〜Cならば、A〜Cである」ことである。

「対称律」とは、「A〜Bならば、B〜Aである」ことである。

今、対称律と推移律を満たす二項関係「〜」があったとする。 対称律より「A〜BならばB〜A」なので推移律における「A〜BかつB〜Cならば、A〜C」のCをAに置き換えることができて、「A〜A」が導かれる。よって、推移律と対称律から反射律「A〜A」が得られる。

この論証は、vacuous truthによる誤った論証である。

教訓

脳内でひよこがcirculateしているぞ!落ち着け!

*1:なお実数列が収束するという挙動に定義を与えるのは、知っていれば難しくない。

*2:おそらく、人が「名前をつけ」、「分類する」のは、認識することが目的にあるのだろう

*3:vacuous tautology、あるいはvacuous truthについては、下で詳しく説明する

*4:現にそのような論文も出版されているほどだ…

*5:ややこしければ、等号(=)をイメージして頂けると具体的で分かりやすい

知っておきたい誤謬3: Naturalistic Fallacy(自然主義の誤謬)

定義

事実命題(X is Y)が真であることから、規範命題(X should be Y)が真である、と結論づけること。 あるいは事実判断から、価値判断を引き出すこと。

論理形式

X is (or is not) Y. Hence, X should (or should not) be Y.

XはYである(ではない)。ゆえに、XはYであるべきなのである(べきではないのである)

分類

形式的誤謬。

説明

みんな大好き自然主義の誤謬*1。Is-ought fallacy、Hume’s guillotine(ヒュームのギロチン)とも。 姿形をかえて、この誤謬はそこかしこに姿を現わす。 形式的には、命題はXとYのみからなるものだが、より一般的には、X is Y. Hence, Z should be Wと表される。

具体的に、次のような主張を検討してみよう。

実はこうした「性別役割分担」は、哺乳動物の一員である人間にとって、きわめて自然なものなのです。妊娠、出産、育児は圧倒的に女性の方に負担がかかりますから、生活の糧をかせぐ仕事は男性が主役となるのが合理的です。ことに人間の女性は出産可能期間が限られていますから、その時期の女性を家庭外の仕事にかり出してしまうと、出生率は激減するのが当然です。そして、昭和47年のいわゆる「男女雇用機会均等法」以来、政府、行政は一貫してその方向へと「個人の生き方」に干渉してきたのです。政府も行政も今こそ、その誤りを反省して方向を転ずべきでしょう。それなしには日本は確実にほろぶのです。

news.yahoo.co.jp

ヒュームのギロチンにかかる恰好の例文だ。 「自然なもの」がいつのまにか「べき」文にすり替えられている。 「方向を転ずべき」という根拠が「自然だから」になっている。*2

用例

  • 「誰しもいつ死ぬのだから、重罪を犯した者に対する死刑は正当化されるべきだ」(ヒトがいつしかは亡くなるという事実は、死刑を規範として正当化する根拠にはなり得ない)

  • 「ライオンではオスが子殺し*3をすることがある。ゆえに、ヒトも子殺しをすべきだ」

  • 「動物園にきた。ああ、ゴリラは可愛いな…おや、メスが子育てをしてそれに専念しているようだね。ほら、ヒトもメスが子育てに専念すべきなのだ」 *4

  • 「オスが浮気するのは本能。ゆえにこれは仕方ない…法で認めるべきだ(法で規制すべきではない)」:オスは、多くのメスと交尾することで繁殖成功を高めることができる。これが前者の主張。いっぽう後者では、法という規範的な命題に言及している。前者は後者の主張を正当化するための根拠になり得ない。

  • 「日本には多くの外来種が侵入して分布を拡大させているが、これは自然の性だ。よって、それらを法で以って制限し、拡大するのを防ごうとするのは、自然の理に逆らっていることに他ならない。やめるべきだ」

  • 体外受精は、本来ならば(高度医療が発達する前は)有り得なかった。よって、そのような治療をすべきではない(法で規制すべきである)」

分析

これを簡単に見抜く方法がある。「どうして前者の主張が、後者をサポートする根拠になりうるのですか?」と問うてみることである。 これは一見すると単純なようで、非常に強力で(詭弁に対して)汎用的な、分析手段である。

ヒュームのギロチンといういささか物騒な暗喩表現は、『人間本性論』で彼が展開した、isからoughtへのjumpが困難であるという主張に由来しているらしい(ギロチンでは首が落ちますからね…)…が、あまり直感的によく理解できない暗喩である。 ヒュームは、道徳は理性から導かれないが「道徳は感情に由来する」と述べているとのことだ(要出典…Wikipediaさん…。)

ヒュームの法則 - Wikipedia

ここではっきり断っておきたいが、導かれる結論が誤りとは限らない、ということだ(誤謬の定義参照)。そうではなく、仮定した命題(X is Y)を、得られる命題(X should be Y)の根拠とすることができないので、得られた命題の真偽は不明なままということである。 ゆえに、"is"命題から"ought"命題が導かれることがあるからといってヒュームのギロチンを批判するのは、「誤った一般化」という別の誤謬に相当する*5

なお、Ought-is fallacyという、規範から事実を引き出そうとする、さらにヤバい誤謬も存在する。

雑感:怠慢である

非常に多くの例では、野外の動物での現象をヒトの社会問題に当てはめようとすることで誤謬が生ずる。 ヒトの社会問題は人間のやりかたで解決すべきであって、これを自然がどうだと言及することで解決案とするのは、怠慢である。

サッカーをしている人たちへのアドバイスボールは疲れない。よってパスをしてボールを動かすべきである。(ヨハン・クライフの名言)

派生的誤謬:「誤った類推、誤った比喩」

定義

命題Aを根拠に、それとは関係ない命題Bを主張すること。

説明

「具体例をあげる」ことと「アナロジーを述べる」こととを混同しているのが理由のように思う。 これまた、多くの文脈で見受けられる。

  • 太郎と次郎は、別々の車で、スピード違反を犯した。警察は(たまたま)太郎だけを検挙することに成功した。そこで太郎は「次郎も違反してたのにあいつを検挙せずに俺だけ検挙するのは不公平だ」と主張した。

太郎が違反したことと次郎が違反したことが、同一の基準で裁かれるべきではあるのは、真っ当である。 しかし、次郎が免れたからといって、太郎がそれによって制裁を喰らうべきではない、と主張するのは、詭弁である。 次郎の事例から太郎の事例を「類推」していることが誤謬である。 「次郎は検挙されなかった。よって、太郎も検挙されるべきではなかった」と書き換えると、Is-ought fallacyになる。

教訓

根拠に対する批判的精神がないのならば、 それを養うべきである。

*1:ちなみにムーアはその著書"Principia Ethica"の中で、「自然主義的誤謬」という言葉で自然主義を(より一般的に)批判している。

*2:ちなみに、進化生態学者の細将貴さんのご指摘:

なるほど。僕はいずれしかし、群淘汰を全面的に否定するのではなく、群淘汰がいつ誤りか・いつ誤りでないか、を考察してここにまとめたいと思う。

*3:オスは、繁殖中のメスの子どもを殺すことで、そのメスを繁殖可能・交尾可能な状態にしてしまうことがある。これは利己的な遺伝子の観点でいえば、異常な行動ではなく、「子殺しを司る遺伝子」がいかに繁殖成功を高めて広まり得たか、を説明する好例である

*4:友人が実際に、元カレに言われた実例だそうな。ぼくならそれを聞いたら「ならテメーもゴリラのオスのように真っ裸になればええやん」と言ってしまいかねないが、それはセクハラである

*5:一般的にoughtをisから導こうとする論文もあるようだ…

http://www.collier.sts.vt.edu/5424/pdfs/searle_1964.pdf

ここでbrute factという、「説明のない事実」という概念を提唱している Brute fact - Wikipedia

知っておきたい誤謬2:Amphibology (曖昧さに基づく論証)

定義

曖昧な定義に基づいた概念に基づいた推論のこと。Fallacy of ambiguityやamphibolyといった言い方もある。

分類

形式的誤謬の一つ。

論理形式

Claim X is made. Y is concluded based on an ambiguous understanding of X.

https://www.logicallyfallacious.com/tools/lp/Bo/LogicalFallacies/17/Ambiguity_Fallacy

説明

曖昧に定義された概念に基いて推論を行なうこと…というと抽象的であるが、実は日常的に非常に多く散見されるものである。具体例を見てみると早い。なお、抽象的であること(具体性を欠くこと)と、曖昧であること(明確性を欠くこと)とは、全く異なる概念である。

用法・具体例

  • 「この盾を貫ける矛は存在しない。この矛で貫けない盾は存在しない」(「貫く」という現象が明確に定義されていない*1
  • 「砂山から砂粒を一つ取り去っても、砂山のままである。よって、すべての砂粒を一つずつ取り去っても、砂山のままである」(砂山の何たるか、が明確に定義されていない)
  • 「頭が禿げ上がった人に一本の髪の毛を付け加えたところで、禿げ上がったままである。故に、1000億本の髪の毛を付け加えても、禿げたままである」(禿げ上がっている、という状態が明確に定義されていない)
  • 「1次会に僕は参加した。 \( n \)次会に参加したと仮定する。このとき、そのノリで\(n+1\)次会にも参加できる。よって数学的帰納法により、飲み会を永遠にはしごすることが出来る」(アルコールに対するキャパシティや時間が有限であるという前提を曖昧にしてしまっている)

分析

曖昧な仮定や結論に基づいた推論をすること自体が無茶であり、多くの誤謬やパラドックスを派生的に導く。

  1. 「多義性の誤謬」: 単一の言葉が複数の意味で用いて推論する(派生的誤謬も参照)
  2. 「誤った二値化」: たとえば量的な概念を、質的な概念とすり替えて推論することもこれにあたる*2
  3. 「誤った類推」: 誤った類推を導く(おおむね類推の過程で、曖昧さが発生する)
  4. 「誤った多元主義: 両立するが異なる複数のメカニズムを、その共通部分を明確にせずに、排他的なものとして扱ってしまうこと*3
  5. テセウスの船」: ロボットAがある。それを構成するあらゆるパーツを別の(同じ機能の)パーツに置き換えられて、メジャー・チェンジを遂げたロボットBは、その同一性*4をAに有するか(BはAとは別物と言えるか)?(同一であるという概念が明確に定義されていない) より卑近な例では、「脳みそを交換されたヒト2個体は、誰が誰なのか?」。

といった誤謬やパラドックスはその代表であると言える。

雑感:Among the commonest fallacies?

  • こうして書いていると、「自由な考え方」がもたらす功罪の一つであるような気がしてくる。 様々な考え方が両立してしかるべきであるが、 考え方(価値観)を共有しようとするのであれば、概念の定義も共有せねばならない。 これはむしろ議論の出発点だ。議論の前に、前提の設定が必要ということである。

  • 科学者としても非常に身につまされる思いである。 明確な定義を与えられていない概念について、ジャーナル上で論争が起こるのは、誌面・資源・時間の無駄である。 だからきちんと定義して、論理的に議論を展開せねばならない。 だが定義を明確にしたら、定義そのものにイチャモンをつける研究者がいるのも事実である。実に悲しい限りではないであろうか?

  • Plularism という概念がある。多元主義と呼ばれる(上にも書きましたが)。「単一の現象を複数のメカニズムで説明することを受け入れる立場のこと」である。これは、理論的研究の根幹を担う立場である。 具体的には、ある現象を説明するための2つの理論があった時、どちらかのみを採用するか、両方を採用するか、という問題である。このPlularismのProsとCons(いいところと、わるいところ)がある。まず良いところは、多様な価値観を受容する体系は、科学の意義を全うしている。なぜなら科学の意義の一つは価値観の創出であるからだ。ただこれは諸刃の剣だ。いろいろな人が、単一の現象を説明する理論に対して、「車輪の再発見的」に名前をつけ、そうした「理論」が乱立することは、誤解やそれに基づく無駄な論争を容易に招くからである。 最もフェアな方法は、「理論」に名前をつけることではない。根本的な理論(たとえばNewtonの法則、自然選択の法則、etc)に立ち返ってみるという、レトロスペクティブ(懐古主義的)な立場である。

派生的誤謬: 多義性の誤謬

定義

単一の文脈で、1つの言葉を多義的に用いて、推論を行なうこと。

分類・性質

形式的誤謬。曖昧さ(明確に特定されていない仮定や結論)に起因する。これは「同じ漢字」「同じ音」が用いられている、異なる2つの言葉を混同することで起こる。

説明

明確な定義を、ひとつの議論に関する文脈で与えないことは、 二枚舌な結論をもたらす。 詐欺師がよく用いる手の一つと言えよう。

具体例

  • 叙述的な例:「四川料理は辛い。辛いというのは、心の傷を負うことである。従って、四川料理を食べると、心の傷を負うことになる」
  • 概念的な例:「(生物)進化とは、遺伝子頻度が、世代を経て変化することである。宇宙の形成過程というのは、(宇宙)進化である。ゆえに、宇宙の形成過程は、遺伝子頻度が世代を経て変化することである」

*1:貫くという現象を具体的に定義したところで、おそらくこの文字通りの矛盾は解消されない。

*2:ただ、2つの非網羅的な選択肢に基いて推論をおこなうこと、というのがより一般的な定義だろう

*3:宗教における信仰が一般的に「誤った多元主義」であるとする、厳格な立場もあるようだ: http://www.marketfaith.org/2016/02/the-five-fallacies-of-religious-pluralism/

*4:AとBとが「同一である」というのを、A~Bと書くとすると、関係「~」が同値関係であるための必要十分条件は、(1)反射律:A~Aである;(2) 対称律:A~BならばB~Aである;(3)推移律:A~BかつB~Cならば、A~Cである、と定義される。ロボット間に同値関係を導入するためには、「同一であること」を表現するためのルールを定義せねばならない。これがここでは明確ではない、ということである