Life is Beautiful

主に進化生物学の理論のブログです。不定期更新予定。

入店直後の「お勉強はお断り頂いております」

先日、といっても夏前のことだが、京都駅近くの喫茶店に足を運んだ。そのお店はチェーン店だが、電源タップとWifiをどの店舗でも置いているところで、たいへんお世話になっている。

そのお店に到着して席を確保して注文後、論文を書き始めた。

すると店員にすぐさま、「当店は、お勉強でのご利用はお断り頂いております」と言われてしまった。そうか、そういうルールだったのか、とすぐには納得できなかった。

問題点

予備校近くの喫茶店では、熱心に勉強する学生で座席が埋め尽くされ、客の回転が低下してしまうことがよくある。それが原因で、「お勉強はお断り頂いていおります」という張り紙がなされている。

若い頃は、「それはルールなのだ」と納得していた。店側には、ルールを決める権利が(多かれ少なかれ)あるのは間違いない。たとえば「喫煙可能かどうか」などはそうであろう。

しかし、以下の点を問題提起したい。

1. 「勉強」の定義

そもそも、どこからが勉強なのだろう。予備校のテキストを開くのは勉強だろう。しかし、論文を書くのは勉強か?

あるいは、店側がルールを作るのだとしたらどこからが勉強と判断されるのだろう。“なんとなく、そう”見えたら勉強?

駄々をこねたいわけではない。本を読むのはOKで、予備校のテキストを開くのはアウト?簿記試験問題集は?TOEFLのスピーキング練習をかねて、留学生とおしゃべりすることは?人生そのものの課題を頭の中で考え込むことは?

2. 時間の使い方も店が決めてよいのか

僕なら唇がカラカラになるが、スモールサイズのコーヒー一杯で、おしゃべりを三時間も四時間もできる人はいると思う。そういう人たちにも、店側は注意するのだろうか。

人の時間の使い方は、人次第である。おしゃべり。本を読む。ぼーっとする。良い。いろんな二時間三時間があって、人はそれを求めて、喫茶店へ足を運ぶ。

勉強もきっとそうだろう。好きだからする。ヤバいからする。いろんな理由があっても、二時間三時間は平等に与えられている。

たとえば僕は、二時間以上居座った場合、必ずおかわりをする。店への感謝の意も込めて、である。JR六甲道駅タリーズは僕の行きつけだが、その電源タップ利用可能席には、「二時間以上居座った場合、必ずおかわりをしていただけると…」というルールが明文化されている。

僕はこちらのほうが正当に感じると思うし、僕は店の持続性のためにも、このルールを守るようにしている。もちろん、義務ではないのである。

第一、こうすることによってお互いに気持ちよく関われるではないか。コーヒーは美味しいし、最近はレシートをおかわり割引チケットにできる店も多い。

店には、客の時間の使い方を規定する権利まではないのではないか。もちろん、周りの客に迷惑がかかる行為は論外であるが。

そんなにめんどくさい客なら来なくていい、とお考えかもしれないが、僕には「勉強お断りルール」よりも「二時間経ったらおかわりしてくれると嬉しいなの気持ち」のほうを、尊重したい気持ちにならざるを得ないのである。

格差の助長原理:正のフィードバック構造

※本記事は、FBでの投稿をうけて、すこし違う形で文字起こしを行なったものです。コメントをくださった方々から少なからぬ影響を受けてはいますが、文責はすべて私の負うところにあります。

Naomi Pierce博士が国際生物学賞受賞!

第35回国際生物学賞記念シンポジウム「昆虫の社会性と共生をめぐる生物科学」Commemorative Symposium for the 35th International Prize for Biology「Biological sciences related to insect sociality and symbiosis」 -国立科学博物館

月末は、これに参加します。Naomi Pierce博士は、長いキャリアを通じて進化生態学において顕著な業績を残した研究者です。心の底からお祝い申し上げます。

このシンポジウムは二日間の構成です。テーマは、昆虫・共生生物学。一日目は「研究者向け」、二日目は「一般向け」ということで、日本中から老若男女が発表を聞きに集うことが予想されます。

僕自身、聴講をとっても楽しみにしています。

老若男女

今回ハイライトしたいのは、その二日目のシンポジウム。豪華たる面々の招待講演者たち。全員、男性。

仮に、日本の昆虫・共生の研究者の男女比が9:1かつ無限集団であるとすると、ランダムに招待された講演者たちが全員男になる確率は、  \left( \dfrac{9}{10} \right) ^{10} \approx 34.87 \%です。これだけ見ると、ランダムから期待される数値的には、たまたま起こったとも考えられます。

そう、ほんのたまたま。確率30パーですから。ほなしゃーない。…のか?

たまたま?

ではもうすこし考えてみましょう。例えば、その「たまたま」を引き起こす要素は何でしょうか。

上の推論では男女比が9:1という仮定から出発しているのですが、よくよく考えてみると、そもそも現時点で9:1に偏っている事自体が問題でしょう。もちろん、問題にしたいのは、9:1という仮定ではないのです。そもそも現実として、5:5からは大きく外れていることです。

ちなみに、9:1から8:2、7:3、と、5:5に近づけるにつれて、上の%数値(確率)は小さくなります(下図)。ランダムサンプルされた10人の講演者たちが全員男性である確率は、5:5の場合には、1/1024、すなわち0.1%まで低下します。

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図1: 横軸「男女比(男が占める割合)」に対し、縦軸に「ランダムにサンプルされた10人が全員男である確率」をプロットしたもの。オレンジ線:34.87%線。男の占める割合が低くなるにつれ、急激に確率値は小さくなる。男女比0.7以下だと、「ほとんど有り得ない」確率でしか起こらないことがわかる。

ここまで来れば、ああそうか、9:1というのは、「たまたまだ」という結論を引き出す上での甘めの評価だったのだなと気づきます。

「せやかて工藤、おらん人は呼べへんやろ?」

でも実際問題として、「特定の分野Xの女性研究者」が存在しない場合もあります。

その場合は男性しか呼べない。そりゃそうです。

でもこの問題は、次のように仮想的な状況を考えるだけで、簡単に「おかしい」と気づくことができます。

太郎君は、ある学会で、シンポジウムを企画することにしました。テーマは『開花植物における、種子散布と花粉散布が、空間構造に与える影響を理解するための数理モデル』!いいですね。最近それに関する論文を出したばかりだし、意気込んでいます。 しかし、いざ講演者を探すとなると、…あれ、女性研究者がいない?じゃあ、呼べないな。仕方ない、男性陣で固めよう。

ちなみに『開花植物における、種子散布と花粉散布が、空間構造に与える影響を理解するための数理モデル』の研究をしているのは、きっと太郎君だけですから、女性演者を呼ぶことは当然、できません。

この問題から示唆されるのは、太郎君のスコープの狭さ。企画したはいいが、あれ、、、女性研究者が見つからないな?それはきっと、多様性を持ち込めるだけの何かが足りないということかも。

深刻なまでの正のフィードバック

9:1は仮想的で極端な値ですが、将来はそうなってもおかしくない。それだけの理由があります。アカデミアの競争的構造による、正のフィードバックです。

国際生物学賞のシンポジウムに招待されるというのは、彼らの活躍から考えたら、妥当なことですし、素晴らしい栄誉だと思います。これが、将来のさらなる活躍に繋がるはずです。

つまり、アカデミアは、活躍すればするほど、活躍しやすくなるシステムになっている。

しかし逆に言えば、活躍の機会を与えられなかった場合は、将来の活躍の機会が損なわれる可能性があるということです。資本主義ですから、常に相対的な意味です。そう。損なわれるのです。

女性の機会が損なわれることは、将来的に、さらに女性の機会の損失につながる。これが続くとどうなるでしょう?

一旦、女性の活躍が難しい社会が確立して安定化してしまうと、男女が公正に機会を与えられる社会へとシフトすることは、とても難しくなる

現在は7:3だとしましょう。ランダムサンプルで男性バイアスに機会を提供することは、将来の8:2、9:1を本当に招いてしまうかもしれない。最悪のシナリオでは、女性ゼロ。

これこそが正のフィードバック構造の本質で、2つの安定な状態のうち、片方の(社会的に望ましくない)安定な状態が実現し、存続してしまう(双安定という)のです。

このような双安定性を崩すためにはズバリ、大きな力を加えるしか無い。そのために、「ランダムにサンプル」するのではなく、男女に「平等」に「是正」した機会を提供すること。それは僕たちの役割です。

社会マイノリティへの機会の提供は、常に頭に置かないといけない。

シンポジウム企画:演者探しにエフォートを惜しまない

学会でシンポジウムを企画するのは素晴らしいことです。初対面の研究者たちと交流し意見を公開する場を提供する。科学への重大な貢献です。僕もそういう場を持ってきました。

たとえば僕は2016年以降*1、4度(数理生物学会JSMB2016・ヨーロッパ進化学会ESEB2018・日本進化学会SESJ2019・個体群生態学会POP2019)のシンポジウムを企画しました。

その際の男女比は下記の通りです。

  • 2016, JSMB:2:2
  • 2018, ESEB:4:4
  • 2019, SESJ:3:2
  • 2019, POP:2:2

バランス良いですね(自画自賛)。ちなみにESEBでは、学生・ポスドク・ファカルティ等のバランスも考慮しましたよ!!!…というのも、2018ESEBは、査読形式(投稿されてきたアブストラクトを審査し、企画者が演者を選定する)だったからですが。

で、僕が演者を探すためにどうするか?

ひたすら、関連の女性研究者にメールを送った。そのために、web上を這いずり回る

そう、必死こいて探すのです。見つけるためには、探さなきゃだめです。企画者には、その責任があります。

多様性

「多様性重視」。社会は少しずつ、そうした意識を持ち始めています(僕自身もです)。マイノリティの機会損失は、正のフィードバックによって、簡単に最大限格差を導きかねません。これは、社会にとっても大きな損失だし、社会で生きる人たちには、それと向き合う責任があります。

日本に生きる僕たちにとって、まだまだ意識しにくいことかもしれません。しかし、地球や社会に大きな変動が起こり、人々の価値観がガラッと変わることは、有り得ます。そのようなときにも、十分な多様性を確保しておくことで、科学は変動についていける。対応していける。社会での価値を持つことができる。

多様性を確保することは、持続的なシステムのための、目的かつ手段です。ただの、綺麗事の大義名分ではないのです。

研究者の方々へ…

研究者の皆様は、電子メールアドレスをweb上に載せておきましょう。じゃないと、招待メールすら送ることができません!

*1:2015年以前は、いまほどの意識はなかった

言葉の構造:なぜ英語での会話に飛び込むのは困難か?

僕は英語を話す環境に生きています。人と話すのは好きですが、英語は得意ではありません。いまでも、英語で発表する直前は異常なまでに緊張します。

実はむしろ、日本で多くの留学生と接していた僕は*1、英語にちょっとした自信すらありました。

まずそうした自信が脆くも崩れ去ったはじめての経験は、スイスのローザンヌに住んでいた頃です。ローザンヌは、フランス語圏の地域です。毎日、学科の友達と12時に建物の一階で待ち合わせてランチに行くという習慣があったのですが、そのメンバーが、スイス・イギリス・フランス・ブラジル・イタリア・コスタリカといった様々なバックグラウンドの人々で構成されていたため、ランチでは英語が“公用語”として用いられていたのです。そのランチでの英語での会話には、ほとんど全く、入り込むことができませんでした。時々助け舟を出してくれる友人や、「ついてこれた?」と直接的に聞いてくれる友人も居て、本当に救われました。

しかし言い訳の仕様もない英語での会話の困難さが、ここアメリカでは僕にとって、更に顕著です。初めてアメリカに住み始めた頃には、ローザンヌ同様、聞き取りさえままならず、とても苦労しました。しかし、その後の努力(というか、ドラマ F.R.I.E.N.D.S 鑑賞)によってかよらずか、会話の内容を把握して、新しい話題の枝葉を提供できるようにはなりました。それでも、会話に完全に入り込んでいくのはとても難しいと感じた(し、今でも感じる)のです。

その理由を自分なりに考えてみました。

そもそもの言語としての違い

これは言うまでもないことだとは思いますが、我々はローマ字アルファベットとは全く異なるアルファベット(ひらがな)を使います。また、ドイツ語・オランダ語といったゲルマン系の言語はもちろん、フランス語・イタリア語・ポルトガル語スペイン語といったロマン系の言語とも共通点の多い英語は、そうした言語を母語*2として話す人たちには、発音はまだしも、文法などが比較的容易であることが想像されます*3

しかしこれを完全な「理由」として挙げるとなると、同じようにローマ字アルファベットをアルファベットとして用いない人たちはどうか、という自然な疑問が浮かびます。たとえば僕の経験では、中国や韓国出身の留学生や研究者たちは、僕よりは少なくとも「流暢」に、英語を話しているように聞こえます。そうなると、アルファベットという根本的な理由以外のファクターがあるような気がします。

文化の違い

これは、日本語を母語とする人たちを一括りにするかのような言論にはなってしまうかもしれませんが、ご容赦ください。

僕の認識している限り、日本人の会話には、ひとつの強い規範があります。それは、「他者が喋っているときにはそれに重ねない」というものです。実際、僕がそれをされると、少し…いやかなり、迷惑な気持ちがします。そしてその感情は、多かれ少なかれ、共有して頂けるのではないでしょうか…。

こうした美徳的価値観から形成される感情そのものも面白いのですが(「期待されないこと」というネガが規範を形成するのでしょう)、焦点は、そもそも我々には「会話を行なうときは、しゃべるのは“順番”に」という習慣があることです。それはturn-taking conversationと言われます:

Turn-taking - Wikipedia

ここは、少なくともアメリカでの会話とはだいぶん異なるという印象を受けます。

ではなぜそもそも、こうした文化の違いが生じたのでしょう?それは言葉の構造が密接に関連しているのではないか、というのが僕の今回の(科学的には、いかにもアヤシイ)考えです。

言葉の構造の違い

もう少し踏み込んで考えてみます。僕たちの用いる日本語はどのような構造をしているでしょうか。次の例文を考えてみます。

「私は昨日、トムがスーパーでりんごを買うのを見かけましたよ」

主題は、私がトムを目撃したということかあるいは、その目撃の瞬間にトムが何をしていたか、の2つだと思います。が、もしも後者が主眼であれば、日本語では

「昨日トムが、スーパーでりんごを買っていましたよ」

という表現のほうが自然だと思います。そこでここでは、目撃したということを主張していると仮定します。2つの文章は、主眼こそ違えど、構造(つまり見た目)は同じで、いずれも結論を導く動詞である、「見かける、買う」が最後に来ています。ということは、聞き手は、話を最後まで聞かなくては、相手の伝えたいことが、分かりません。

このことが、日本人を、言語によらぬ「聞き上手」たらしめているのではないかと考えられるのです。ちなみにこの文法構造はSOV型と言われ、目的語(Objective;動作の対象となるモノ)が動詞(Verb)の前に現れる傾向にあるのがその特徴です。

一方でみなさんもご存知の通り、英語の構造はSVO型であり、結論・主眼となる動詞が、主語の直後に置かれます。すなわち、(動詞の後の展開はさておき)結論・オチが早い段階で、文の中で明らかになるのです。

たとえば、先程の例を英語に直すと、

I saw Tom buying an apple at a supermarket yesterday.

Tom was buying an apple at a supermarket yesterday.

an appleまで聞けば、あとはどうでもいい情報が並びます(もちろん、「昨日」を強調したいなら、Yesterdayを最初に持ってくるなりすればよいでしょう)。そこまで聞いた段階で、聞き手は口をはさむことが可能です。

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SVOとSOV型

Wikipediaによると、SOV型・SVO型の頻度は次のようであることが知られているようです。

Subject–verb–object - Wikipedia

この2つのタイプが言語のほぼ90%を占めるようです*4。韓国語と日本語はサンスクリット語から影響を受けているのは知っていましたが、文法の観点においても共通点があったとは。

ちなみに同頁には、他の構造を持つ言語も紹介されています。まったく知りませんでしたが、ドイツ語・オランダ語はすこし特殊な構造を持っているのですね。

11/6追記:以下は韓国語との比較であり、論旨が散漫です。

韓国語との比較

言語構造上は似ているにもかかわらず、僕個人的な経験に基づけば、韓国出身の方々や、韓国在住の方々は、日本人に比べると、平均的には、英語をそつなく話す印象があります(旅行や交流などに基づく、僕自身の印象です)。

なにが違うのか。韓国における英語教育の状況を調べてみました。

Education in South Korea - Wikipedia

English is taught as a required subject from the third year of elementary school up to high school, as well as in most universities, with the goal of performing well on the TOEIC and TOEFL, which are tests of reading, listening and grammar-based English. For students who achieve high scores, there is also a speaking evaluation.

小学校三年生から、義務教育課程における英語学習がスタート。日本では中学1年生からですから、3年早い段階で、英語に触れる機会が訪れるということになります。

その3年でどこまで差がつくのかは不明ですが、英語教育への投資は家庭レベルで一般的らしく、

Because of large class sizes and other factors in public schools, many parents pay to send their children to private English-language schools in the afternoon or evening.

英語塾に子供を行かせているということや、

There are more than 100,000 Korean students in the U.S. The increase of 10 percent every year helped Korea remain the top student-sending country in the U.S. for a second year, ahead of India and China. Korean students at Harvard University are the third most after Canadian and Chinese. In 2012, 154,000 South Korean students were pursuing degrees at overseas universities, with countries such as Japan, Canada, the United States, and Australia as top destinations.

そもそも米国には10万人もの韓国からの学生が住んでおり、毎年10%増えているのだとか。一般的に見て、国外への留学はかなり行き渡った文化・戦略のようです。

ちなみに日本は、この資料によると、2016年度時点では96,641人の学生が留学に出ているとのことです。年度が異なるので単純な比較はできないのですが、人口比になおすと、韓国は(2012年データによると http://ecodb.net/exec/trans_country.php?d=LP&c1=KR&c2=JP)5020,0000人のうち 154,000人が留学ということですから、総人口に対して0.3%に相当する留学生が国外に出ているのに対し、日本では0.076%に相当する留学生が国外に出ているようです。それだけ、留学に対する積極性の差があるようです。

在留邦人総数

ちなみに外務省によると、125万8263人が在留邦人総数として2013年にはカウントされているようです。 そして韓国からアメリカ(その他の国での状況は分かりません)への移民者数は、2015年段階では106万人と推定されているようです。 https://www.migrationpolicy.org/article/korean-immigrants-united-states これだけ、国外移住への意識がある中で、国内人口も増加していて、それだけ日本との根本的な状況が異なり、言語的な構造のみでは、英語学習に関して結論を直接的に導くというのは無理があるということがわかります。

つまり、教育状況とか、留学にに対するハードルの低さ(精神的・規範的なもの?)などの様々な要因が絡んでいるということです。単一要因ですべてが決まることはないですからね。

それでも

こうした言葉の構造の違いを理解し、それに基づく英会話のペースを理解するだけでも、英会話への参入はグッと簡単になります。 もし他人が喋っているときに遮るのがひじょうに気後れするのであれば、会話の終焉あたりで飛び込めばよいのです。僕は最近ようやく、それができるようになってきた気がします。話を聞いて、タイミングよくjump-inすればよいのだと思うようになりました。

まあ、そんな難しいことを考えず、主張したことを正当に主張する。そのうえでコミュニケーションがうまくいかないのであれば、それはそれで改めて考える。それでいいのだと思います。

*1:日本でのラボには国外からの研究者がたくさん訪れてきていたというのと、学部生のころには留学生に日本語を英語で教えるというチュータ・ボランティアをしていたため

*2:ここで僕の立場をはっきりさせていただければと思うのですが、僕は決して、「母国語」という言葉を用いません。もちろん、国の「公用語」は存在します。個人には「母語」も存在します。しかし、(個人が第一言語で話す)言葉というのは、その人が国に対して持っている関係性 — 国籍等 — とは無関係に定義されるものであるはずです。たとえば、日本語での教育を受けた後にアメリカに移住した方々の「母国語」はどう定義すべきでしょう?

*3:もちろんこれは、「充分」な教育を受けた者による思想かつ、そうした人たちと知り合う機会のほうが多いという、明らかなバイアスの結果であって、一般的な傾向ではありません。なので「比較的」という言葉を用いました。

*4:11月4日、追記:この分布の単純計算は、系統的相関を無視しているので、本当はあまり意味がありません。言語は(文化的に)進化していくものですから、系統樹から論ずるべきことだろうと思います。

ZOZO Town 研究者の人材公募がすごい

ZOZO Townに(とくに数理)科学研究者の人材公募が出ていました。

求人公募情報検索 : 研究者人材データベース JREC-IN Portal

ZOZOは、FBとまではいかないものの、凄まじい数のユーザーを持っているので、そうしたビッグデータを活かしたいというのは、自然なことでしょう。

しかし驚くべきはその内容。

  • 通勤費・家賃補助・育休産休。
  • 社会保障完備。
  • [歓迎スキル・経験]:メジャーな国際学会や学術雑誌でのパブリケーション
  • [求める人物像]:基礎研究に理解がある方。探究心の強い方。問題設定を定式化できる方。
  • 任期なし。
  • 採用予定人数:100名
  • [機関の説明]:私たちは、ファッションの「美しい、カッコいい、かわいい」といったものには黄金比のような数値化できるバランスが存在しており、個々の個性(体型、骨格や肌の色や髪型)やライフスタイル、状況などとも密接に関係していると考えています。

これは…!

むちゃくちゃ具体的かつ面白そうである。

これは日本の若手研究者のキャリアにとって、ゲームチャンジャーになるかもしれません。自由度はどうなんだろう?研究費は?といったことは気になるのですが、ヒトの心理、行動・経済、ゲーム理論、最適化、文化、などなど数えきれないアプローチで切り込んでいけるはず。

そしてなにより

メール応募 可

lambtani.hatenablog.jp

カクテルパーティー効果は万人共通ではない

少し個人的な話になってしまいます。そして、これを書くのにもまたエネルギーが必要でした。

僕は大学に入学してからソーシャルな場が増え、そこで初めて気づいたのですが、他の音や、人の話し声等があると、会話内容が全然、頭に入ってこないようです。そしてこれは万人に共通というわけではない、ということを知ったのも、実は最近です。

いやどうやら、むしろ、人々はこうした「雑音」によらず、聴き取りが出来ていることもあるようなのです。騒音の中からも選択的に情報を取れる現象のことを、カクテルパーティー効果と言います。

でもこれ、万人に可能と思ってはいけない。典型的な難聴のひとつとして認識されてほしいと思います。

どこまで、ウェブ上の情報が信頼に足るものかと言われると、今回のケースは特にわかりませんが、読売オンラインで、似たような方々が投稿してあるのは見つけました。

少なくとも僕はこれ、ドンピシャです。

実は飲み会とかパーティでの、僕にとってのとんでもない悩みのタネです。たとえばバーに行って、友人と話すのは、かなり難しいんです。日本語でもそうなのに、英語ではもう、絶望的です。

いいえ、飲み会だけではありません。議論でもそうです。複数人が話すと、一気に内容が頭に入ってこなくなるのです。聖徳太子はすごかったのです。

自覚と事実のギャップ

自覚したことが事実とは限りません。たとえば占いでは当たったことばかり印象に残りますね。典型的には、"血液型取扱書"のようなものが世間で流行したことがありますが、あてはまるものに対して、選択的な記憶のバイアス(確証バイアスの一つ)がかかることを利用して、分厚い本をわざわざ別冊で刊行したビジネスは、うまくやったものだと感心します。

さて心理学では、こういう、選択的な記憶をバーナム効果といいます。

自分の特徴をたとえば他人と比べたうえで相対化しないと、自分の個性というのは本当には認識・理解できないということですね。己を知るということは、他人を知るということなのです。

しかるに自分の性質が“異常”か“通常”かというのは、極めて主観的な問題です。そのためには、必然的に他人と比較する必要がでてきます。 かといって、他人と比較することが「よいこと」かというと、それはまた別の問題です。

話をもとに戻そう

こういう、「いっぺんに話しかけられると困る」現象によって、昔から、自分や他人が話している最中に、他の人が話すことには、多大なる不快感を覚えてきました。これは日本語の文法上の理由もあるとは思うのですが、あれ、実は僕には決定的な悩みのタネになりますので、ぜひやめてほしい。

同じように、雑音や同時に話されることによって、コミュニケーションが困難になる人もいるという事実の、認知・理解がすこしでも広がればいいなあと思います。

だから僕はせめて、相手の言うことには最後まで耳を傾けるようにしています。これはきっと多くの方にできるのではないでしょうか。

JAMSTEC国際研究員応募が 電子化!

この記事を書いてから、4ヶ月近くが経過しました。いまでも反響があることが、耳に入ってきます。

lambtani.hatenablog.jp

しかし僕はブロガーではないので、現在の研究員としての任期の都合で、次の仕事を探さねばなりません。

そんなとき、JAMSTECが国際フェローシップの公募を出したとの情報を耳にして、朝からiPhoneでアクセスしました。

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(※スクリーンショットですみません)

すばらしい条件なのですが、電子応募不可っぽい。しかも、その記述が強調されている。交渉すら難しそう…あああ…出したいがこれはダメか…と諦めていました…

JAMSTECの研究者の方々

ところで、ギボシムシという動物をご存知でしょうか。半索動物という動物門(分類群)に属する、すこし見た目の“珍妙”な生物です。そのギボシムシを研究されているJAMSTEC研究員である友人や、その他(お会いしたことはないが) 海洋性ゴリラの 深海底自然科学の研究をされている方がなんと、JAMSTECの人事の方々に、この公募の件について、働きかけてくださったのです。

しかも、ご本人いわく、僕のブログ・エントリーのリンクを添えて

結果

募集要項<採用情報<海洋研究開発機構

電子化されました。

祝!

しかし

これで、国外からの応募は増えて、競争は激しくなるでしょう。そうなるとこれは僕個人にとっては非常に不利ですね。つまり僕個人にとっての“メリット”はないわけです。

それでも科学は進む

それでも僕は、この件に関してはこれでよいと思います。いわば、競争がフェアな状態(ベースライン)に戻った、と思うからです。

意見を「うまく述べる」ことの重要性

いまや、インターネットされあれば誰でも、真偽とわず情報を発信できる時代です。それはつまり、情報の受信も簡単であり、自分の発した情報が、数えられぬほどの人たちの目に触れる可能性があるということです。

若手の立場でいろいろな提言をおこなうことは、ひょっとすると眉をひそめられるかも知れないし、リスキーかも知れません。それでも、自分が論理的に考え抜いた意見を、他の人が理解できる形で、述べることは、何にも代えがたい重要なことです。声を発さないと、耳には入らないのです*1

それは、ただ何かを批判するだけではありません。問題点があるのであれば、それを呈示し、(できれば)改善点を述べ、それが実現するように動く。そして、なにかを主張したいのであれば、伝えたいのであれば、最終的にどんな意見や言葉も、他人の感情という部分に訴えかける効果があるので、決して攻撃をしない。攻撃は破壊しか生み出さない。

若い内はきっとフットワークも軽いし、保守的な姿勢で守らねばならないことも少ないと思います。それに、若い人が事態を改善していく努力を怠っていたら、いったい誰が、世の中を「よく」していくのでしょう?

この件に関しては、実際に動いてくださった、上記のお二方には頭が上がりません。本当にありがとう。そして、ブログを読んでくださり、条件の改善に動いてくださった方には、御礼を申し上げても申し上げすぎることが叶いません。ありがとうございます。

このブログを始めて早6年になりますが、この場であっても、これほどまでに、しっかりと意見を綴ってよかった、と感じたことはありませんでした。

*1:これはあくまで「書かないと読まれない」ことを言うための比喩表現です

靴下はなぜ片方だけ失くなるか

靴下はなぜ片方だけ失くなるのか?

この問いかけは非常に深いです。どのように問題を捉えるかによって答えは全く変わってくるでしょう。

  • 両方なくなる確率は、片方だけなくなる確率よりも十分に低いから。
  • マーフィーの法則によるもの。典型的に起こった事象が連関的に記憶に残る。「◯◯な時・場合に限って△△」というやつ。たとえば、バタートーストを床に落とす時はいつも、バターの載った面から床に落ちてしまう。寝坊した時に限って、探していた何かが見つからない。失くなるときはいつも、片方だけ。
  • 両方なくなった靴下は、認識すらされなくなる。つまり、両方なくなったという事象の起こる確率は、認識上つねに過小評価されている。

他にもあるでしょうか。こうしたアプローチを比較していくことで、哲学的思考の深さを垣間見ることができるかも知れません。