Life is Beautiful

主に進化生物学の理論のブログです。不定期更新予定。

勉強したいこと、研究したいこと

勉強と研究は異なる活動です。でも勉強なくして研究はできません。「研究とは違って、勉強は創造的でない」という主張は、個人の価値観を否定し得るものであり、たとえ勉強が嫌いで苦手で祖先の仇であったとしても、行うべきではないでしょう。

 

勉強せずに研究ができるというのは、果たして唯一の創造的な活動でしょうか?他者の価値観を否定することは創造的でしょうか?人生は研究だけなのでしょうか?

 

さて、そんな私は、情報理論という分野にドハマりしています。情報理論とは何かと言われるととても難しいのですが、集合(ものの集まり)の組成を測定するための手法である、という特徴付けは可能なように思います。でも、なかなかそれを実感する機会とか、そういう研究者と交流する機会が限られていて、悩ましいものです。

 

来年は、その情報理論を友人達と勉強し、新しい研究を進めていきたいと思っています。簡単なことではありません。任期も限られているし、論文は書かねばなりません。でも、楽しく勉強することを通じて身につける素養は、研究に直結しなかったとしてもとても価値あることだと思うし、私の人生を輝かしいものにしてくれると思います。

 

学友、ともに学ぶ仲間いてこそのものですが、楽しみながら、勉強も研究も続けていきます。心身の健康を保ちながら。

 

 

 

2つの整数が互いに素である確率

ランダムに2つの正の整数をイメージしてください。$ (a,b) $としましょう。それらで分数を作ってください。$ a/b $ですね。それがもう約分できない確率はいくらでしょうか?

0.5より大きい?小さい?

答えと証明を載せます。

命題として答えるならこうです。

「ランダムに選ばれた整数2つ $ (a,b)$ が、互いに素である確率は、$ 6/\pi^{2}$(約61% )である」。

(証明) まず$ (a,b) $が互いに素であることと、分数$ a/b $が既約分数(もう約分できない)であることは同値です。

そもそも「もう約分できない」とは、どういうことでしょう。たとえば、221/26は、13で約分できます。578/68は、34で約分できます。

前者の例と後者の例の大きな違いは、13が素数で34は合成数素数ではない)であることです。「34(=2×17)で約分できる」ということは、「"2で1回約分できる"かつ"17で1回約分できる"」ですので、約分できるかどうかで重要なのは「そもそも素数で約分できない」ということなのでしょう。

「ある整数$X$が2で約分できないならば、$X$は34でも約分できない」という命題は真ですので、最初から2で割れるかどうかを調べれば、34を含むすべての偶数に関して約分できないことについては十分なのです。

同じように、3で約分できるかどうかを調べれば、6, 9, 12といった全ての3の倍数に関して約分できないことはわかります。

4で約分できるかどうかはどうでしょう?これはすでに、2で約分できるかどうかでカバー済みですので、調べる必要がありません。

これを一般化すると、ある数$X$で約分できないことを調べるためには、その数$X$の約数について約分できないことを調べれば十分ということになります。

2以上のどんな整数も、一通りに素因数分解が可能なので、結局「所与の分数が既約である、つまり所与の分数がどんな数でも約分できないことを調べるためには、どんな素数でも約分できないことを調べれば十分である」ということになります。

ということは。

$ a/b $ が既約である確率を調べるためには、 「2で約分できない」 かつ 「3で約分できない」 かつ 「5で約分できない」 かつ …

という(互いに独立な)命題を調べ、その確率を、

「2で約分できない確率 $ Q_2 $」・・・(eq2)

× 「3で約分できない確率 $ Q_{3} $」・・・(eq3)

× 「5で約分できない確率 $ Q_{5} $」・・・(eq5)

× …

素数 $ p $ で約分できない確率 $Q_{p} $」・・・(eq.$ p $)

×…

というふうに計算すればよいでしょう。

さて、まず前提として次のよく知られた補題を示しておきます。

補題1)

素数は無限個、存在する。

 (∵)有限個しか存在しないと仮定します。このとき、最も大きな素数を$ P $と書くと、この$ P $より大きい数である \begin{align} P!+1 \end{align} は、$ P $を含むそれ以下のあらゆる素数について、割り切れません(全否定)。なぜなら、2で割っても、3で割っても、5で割っても、1余りますが、 $ P$以下の全ての素数で割ろうとしたときについて、おなじことが言えるからです。$P!+1$は、$P$以下の全ての整数$k$について、$k$で割ると1余る数ですから、素数です。この結論は、$ P $が最大の素数であるという仮定に反しますので、矛盾。したがって無限に素数は存在します。■

さて、我々は、$Q:= Q_{2} \times Q_{3} \times Q_{5} \times Q_{7} \times \dots $(あらゆる素数$p$に関する$Q_{p} $の積)を知りたいのでした。 「$a/b$ が $ p $で約分できる」とは、「$a$ も $b $ も $ p $ で割り切れる」ということです。 全て正の整数を並べてみたとき、$p$の倍数は$p$ごとに現れます($p,2p,3p,\dots$)から、 $ a $ が $ p $ で割り切れる確率は$ \frac{1}{p} $ですし、これは$b$についても同様です。よって、$ a/b $が素数 $p$で約分できる確率は、 $a$も$b$も$p$で割り切れる確率ですので、$1/p^{2}$です。

したがって、$a/b$が素数$p$で約分できない確率は \begin{align} Q_p=\left( 1-\frac{1}{p^{2}} \right) \end{align} と判ります。ということは、求めるのは

\begin{align} Q:=\prod_{p: \textrm{ prime}} \left( 1-\frac{1}{p^{2}} \right) \end{align}

ですね($\prod$は積を表し、$p: \textrm{prime}$は$p$が素数(prime number)ということを示しています)。こんな積は求められるのか…と思われるかもしれませんが、次の有名な公式があります。

補題2:オイラー積、指数2の場合)

次の公式が成立する: \begin{align} \zeta (2) :=\sum_{n=1}^\infty \frac{1}{n^{2}}=\frac{1}{Q}. \end{align}

 (∵)$ \zeta(2) $の定義式の両辺を$ 1/2^{2}$倍すると、 \begin{align} \frac{1}{2^{2}}\zeta (2) =\sum_{n=1}^\infty \frac{1}{(2n)^{2}} \end{align} が成立します。右辺は、2の倍数の平方数の逆数の和ですので、これをもとの$ \zeta (2)$から引くと、2の倍数でない数(つまり奇数)の二乗の逆数の和だけが残り、

\begin{align} \left( 1-\frac{1}{2^{2}} \right) \zeta (2) =\sum_{n: \text{odd}}^\infty \frac{1}{n^{2}} \end{align}

が得られます(oddは、奇数のこと)。同じように、更にこの両辺に$ 1-\frac{1}{3^{2}}$を掛けると、 奇数のうち3の倍数でないもの(つまり2の倍数でも3の倍数でもないもの)だけが、被和項(和をとられる項)としてのこります。 更に更に、$ 1-\frac{1}{5^{2}}$をかけると、2の倍数でも3の倍数でも5の倍数でもないものだけが残り… ということが分かります*1。 これを帰納的に繰り返すことで、「どんな素数でも割り切れない$ n $」番目の項、すなわち$ n=1$の項 $=\frac{1}{1^{2}} $だけが残り、

\begin{align} \underbrace{ \left( \prod_{p: \text{prime}} \left( 1-\frac{1}{p^{2}} \right) \right) }_{=Q} \zeta (2) =\frac{1}{1^{2}}=1 \end{align}

となります。つまり$ \zeta(2)=1/Q $です。■

では、$ Q $を知るには$ \zeta(2)$を知ればよい。そのためには…

補題3:バーゼル問題)

\begin{align} \sum_{n=1}^{\infty} \frac{1}{n^{2}}=\frac{\pi^{2}}{6} \end{align}

 (∵)$ \sin{x}$のテイラー展開は \begin{align} \sin{x}=\frac{x^{1}}{1!}-\frac{x^{3}}{3!}+\frac{x^{5}}{5!}-\dots \end{align} であるが、これを$ x \neq 0 $で割ると \begin{align} \frac{\sin{x}}{x}=1-\frac{x^{2}}{3!}+\frac{x^{4}}{5!}-\dots \end{align} が得られます。左辺は、全ての正の整数$ n $に対して、$ x= +n\pi$ と $ x= - n\pi$で0になるはずなので、$ \left( 1- \frac{x^2}{(n \pi)^2} \right) $で割り切れるはずです。よって、 \begin{align} \frac{\sin{x}}{x}= \prod_{n=1} ^{+\infty} \left( 1- \frac{x^2}{(n \pi)^2} \right)
\equiv 1-\frac{x^{2}}{3!}+\frac{x^{4}}{5!}-\dots \end{align} が成立するはずです。≡の記号は、恒等式を意味しています。よって係数比較で$ x^{2}$の項を比較すると、 \begin{align} -\frac{1}{3!}=-\sum_{n=1}^{+\infty}\left(\frac{1}{n\pi}\right) ^{2} \end{align}

が取り出せるので、両辺に$-\pi^{2}$を乗ずると結局

\begin{align} \sum_{n=1}^{\infty} \frac{1}{n^{2}}=\frac{\pi^{2}}{6} \end{align}

が得られます。■

ということで、補題1〜3より、既約分数である確率は$ Q=6/\pi^{2}$であることがわかりましたね。

なお、分母が1である場合 $ a/1 $ を既約と見なすかどうかは、問題ありません。なぜなら、分母が1であるという事情が起こる確率は0だからです。が、$b>1$に対しては $ 1/b $ を既約と見なすのは自然ですから、対称性を考慮して、$ a/1 $は既約と約束するのが美しいでしょう。1から100までの$ a,b $について、既約=青、約分可能=赤でプロットした図を乗せておきます。最終的には、青の領域の割合が$ 6/\pi^{2}$(約61%)になるということですね。

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*1:本当は極限操作を行なっているので、厳密にはデリケートな扱いが要求される

中学生から始める適応進化理論2:よくある誤解

2. 自然淘汰による適応進化にまつわる よくある質問・誤解

ここで、リフレッシュのためにも、よくある誤解をいくつか取りあげてみます。

2.1「順応」は人生の一部。だが言葉は変化(進化)する

「社会に適応する」という言葉も既に確立されているので微妙かつ複雑なのですが、私は、人生の一部において、人の性質(や行動・心理)が変化することを表現するならば「順応」という言葉のほうがふさわしいと思います。 なぜなら、適応進化は、遺伝子が、親から子へ伝わって(つまり世代をまたいで)初めて起こる現象だからです。

自然淘汰は、遺伝子・個体レベルで基本的に作用します。つまり、遺伝子が、あるいは個体が、たくさん子どもを残せたかどうかが注目する点です。

そして、適応進化によって、集団の平均的な性質(たとえば首の長さ)が変化していく。つまり、集団の時間変化が注目する点です。

これが自然淘汰による適応進化の原則です。

なお同様に、医療の文脈でも「適応」という言葉が用いられることがあります。この問題はあまりに複雑なので、脚注に委ねます。 *1

ちなみに、面白いことに、「言葉」というのは、使われていくうちにエラー(突然変異)が入り、そのエラーが使われるようになって広まっていくわけで、進化プロセスそのもののわけです*2。 どんな単語にも、使用頻度の差があることで、その伝わり方に差がうまれ、「よく使われる言葉」は時間を経てよりポピュラーになることもあるし、流行りが一瞬で去ることもある。 つまり遺伝子のように、残せた子供の数ではなく、言葉や単語はその使用頻度によって、淘汰がかかる、というわけです。 時間を経て、集団の性質が変化していくシステム、つまり力学系には、常に、(生物学とはまた少し別の、しかし非常によく似た)「進化」が起こりうるのです。 ややこしいですね!

2.2 種のための進化は起こりません。

適応進化は「種」のレベルでは起こりません(なぜなら、種は、あくまでヒトが定義する概念だからです)。よって、種の存続のために自然淘汰が作用するわけではありません自然淘汰によってたくさん子どもを残せた個体からなる種が、「うまく」存続しているかのように見かけ上、観察されるだけです。進化は、遺伝子レベルと個体レベルで(少なくとも)起こります。

2.3 集団レベルで自然淘汰が作用することはあります。

自然淘汰は遺伝子、あるいはそれを持つ個体に作用する。これは何度も言いましたね。

でも実は、集団レベルで適応進化が起こる可能性もあります(複数の個体たちのあつまりを、生物学では集団あるいは個体群と言います)。 すなわち、「たくさん子どもを残せた集団が、自然淘汰によって進化する(つまり進化によって出現し、観測される)」可能性があります。

それはたとえば、自分の形質が、集団中の、同じ遺伝子を共有している(確率の高い)血縁個体の繁殖成功度にも影響する場合です。深入りはしませんが、集団レベルでの自然淘汰を、血縁淘汰と呼びます。

たとえば、タンポポの種には綿毛があります。複雑な綿毛などつけず、文字通りに根本に種を落とすと、種同士は「きょうだい」同士ですから、光や資源をめぐって、競争が起こってしまいます。きょうだいたちは同じ遺伝子を持っているので、競争すると、遺伝子(のコピー)を次世代に伝える確率が低下してしまいます。しかし種が綿毛をつけて飛ぶと、種子ひとつひとつの個体レベルでは、移動中に死んでしまったりするので、自然淘汰上は不利なのですが、血縁個体との競争から逃れるうえでは有利であるのではないか、と考えられています。*3つまり、遺伝子の観点からいえば、それが乗っている個体にとっては、生存率の低下してしまう形質であっても、遺伝子が乗っている個体たちの集まり(つまり集団)レベルでは、残せるこどもの数が増えることがあるのです。これが血縁淘汰のキモです。

2.4 適応進化以外にも、進化は起こりうる

進化の原理は、自然淘汰だけではありません。「突然変異による、遺伝子の違い」が「遺伝形質の違い」に直接関与しない、あるいは「遺伝形質の違い」が「たくさん子どもを残せるか」に関与しない、といったことも考えられるからです。このように、「中立的な」突然変異は、集団に確率的な過程を経て広まります。これを中立進化と言います(ただし、中立的な遺伝形質が集団中のすべての個体に広まるには、途方も無い時間がかかります)。中立進化の理論は、日本人の遺伝学者である木村資生博士によって考案された理論です。

より一般に、進化を起こす要因には

  • 自然淘汰
  • 突然変異
  • 遺伝的な浮動(個体数が小さいことで、確率的な変化の効果が、相対的に大きくなる)
  • 移動分散  (集団間で、個体の行き来があることで、集団の平均的な性質の観測値が変化する)

があり、どれも適応進化と中立進化にとって重要な要素です。

2.6 退化も進化の一部

退化現象は進化の一部です。たとえば、ヒトのしっぽは、退化しました。羽根のない昆虫や鳥もいます。 これらは進化現象の一部です。ややこしいのですが、遺伝的な基盤のある形質の、世代をまたいだ変化は、すべて「進化」です。 「進化」とは、ときが進んで変化した、という意味だと理解して下さい。

2.7 大事なこと:「良い」、「優れている」、は自然には存在しない。

大事なことですが、進化現象は「良し悪し」と無関係です。良し悪しは人間の頭にしか存在しない概念です。たとえば、花に「きれいな」言葉をかけても、花は育ちません(同様に、生き物ではありませんが、雪の結晶に「きれいな」言葉をかけても、結晶の形は変わりません)。「進化」は、人間による「価値判断」(良し悪し、優劣、など)の観点では、中立的な意味しか持ちません。「遺伝子が多く子どもを残せた。だからその遺伝子は広まった」という論理だけです。

進化の結果として獲得された形質を賛美や嫌悪の対象とすることは個人の自由ですが、それは科学の一部ではないのです。

同様に、適応進化を「弱肉強食の原理」と呼ぶのは、僕は不適切だと思います。例えばライオンがシマウマを捕まえて食べる現象は、「強弱」かのように目には移りますが、ライオンはシマウマのように草を食べて消化することはできません。その意味ではシマウマのほうが「優れている」と判断できなくもないですよね。また、我々は植物を栄養源にもしていますが、それでは我々は植物より優れているのでしょうか。強いのでしょうか。でも、植物がいなくなったらヒトは間違いなく絶滅してしまいます。では我々は「弱い」のでしょうか。こうした「優劣」を考え始めると、キリがありません。また、これらはすべて、主観的な形容と切り離すことが困難です。そうなるともはや「科学」ではありません。*4

したがって、人間がもっとも「優れている」とか「ピラミッドの頂上にいる」という結論も、適応進化理論からは導かれません(優れている、とは何でしょう?我々は鳥のように空を飛べません。犬のように鋭い嗅覚も持っていません。では我々は「劣っている」のでしょうか。 そもそも、優れている・劣っているとは、どういう意味でしょう?誰が決めるのでしょう?)。

以上のように、あくまで科学では、事実判断として「自然淘汰で生き残ったタイプは適応的である」と結論づけるに留めるのです。一般に、自然淘汰の概念を人間社会に持ち出して、自然淘汰を「規範」扱いすることも科学は正当化しません(「ヒュームのギロチン」*5と言います)。

たとえば、

  • “質の低い”人や集団は、“淘汰”で排除されていく;
  • よってそれは自然な帰結であるし、そうであるべき

という論理の言説を目にすることもあります。しかし社会の仕組みを(自然)淘汰の原理に任せてはいけません。人には脳があり、個人には人権があり、集団には(たとえば)民主主義制度があるのだから、自然淘汰のなすままこそ善というのは、何も考えていないのと同じです。*6 自然淘汰に似た原理が作用することがあるけども、それで困る人のためにも、みんなが頭で考えて、話し合って、みんなで問題を解決することが大切だ、と僕は考えています。

私は、咳喘息を患っています。ひょっとすると、咳喘息は遺伝するかもしれませんし、有史以前は、咳喘息を患っていた個体が、さまざまな理由で、子どもを残しにくい社会だったかもしれません。しかし人間社会には基本的人権がありますし、医療がカバーできる部分も大きいはずです。よって、咳喘息という症状を持っている私(や他の誰か)に「優劣」「強弱」という価値判断を貼ること、すなわち優生学的思想に基づく差別は、絶対に行なってはならないのです。私自身は、私自身のその性質を「劣っている」とも思いません。それは色んな人の尊厳を侵す思想でしょう。

自然淘汰が起こるという自然原理は、ヒント/参考にすることはできても、規範、すなわち社会のルールそのものには、決してできないのです。

[2020年6月20日 追記] ゆえに、政治の文脈で、自然淘汰や適応進化のことを持ち出すのは、詭弁です。

*1:適応外使用関連フォーラム(PDF注意) https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjdi/13/2/13_2_67/_pdf

*2:言葉は、集団的文化形質であると考えるのがよいでしょう

*3:もちろん、綿毛がついて飛ぶことで、空き地に侵入しやすいなどの意義もあったはずで、この血縁淘汰による説明は、あくまでも部分的なものです。

*4:むしろ、こうした自然の生態系のさまざまな相互作用のバランスがあって初めて、どの生物も生きていくことができる、という捉え方のほうが、科学的ではないかと私は思います。

*5:ヒュームのギロチンについては、lambtani.hatenablog.jp

*6:この観点を疑問に思うのであれば、以下のような問答を行ってみましょう。

  • 霊長類など多くの動物では子殺し現象が起こることがあります。それは自然淘汰で有利になった遺伝形質(行動)です。あなたは人間社会でもそうであるべきと主張しますか?
  • 動物は自然では裸です。ヒトも、生まれた時は服を着ていません。よって、あなたは服を着ずに社会生活を送るべきと主張しますか?
  • 動物は火を使って料理をしたりしません。よって鶏肉なども生で食べます。あなたは鶏肉を生で食べるべきと主張しますか?

中学生から始める適応進化理論

これから何週間かにかけて、適応進化という考え方、それにまつわる誤解、集団遺伝学初歩、そしてゲーム理論について、やや長めですが、できるだけわかりやすく解説していきます。

本エントリーは、academist社ご協力のもと開催された、下記、講演会『数理で読み解く科学の世界』のフォローアップ記事です。

lambtani.hatenablog.jp

文責はすべて私の負うところにあります。論理的に不正確な箇所や、わかりにくいところがあったら、どんどんご指摘ください。

1. 生物の適応進化の考え方

1.1 遺伝する性質が進化する原理

キリンの首は長く、タンポポには綿毛があります。図鑑を眺めてみると、どの生物も異なる姿かたちをしているし、動物園に行けば、動物たちはさまざまな行動を私達に見せてくれます。野山に足を運んでふと見渡すと、草木や動物たちは、かくも素晴らしい多様性を私達に見せてくれます。

こうしたあたりまえの事実、ないし生物現象に、目を向けることは、普段はないかも知れません。素朴な疑問として、地球上の多様な生物は、どうやってこの世に誕生し、現世まで残っているのでしょうか。

話をわかりやすくするため、シンプルに「生物」といったら目に見えるものに限るとします*1。 地球の誕生から果てしない年月が経過した現在でも、観測された生物の性質が「残っている」(あるいは、それを我々人間が、「パタン」すなわち、多様ではあってもある程度の「まとまり」*2のあるモノとして観測できる)という事実に着目してみましょう。 生物たちが生きていく中で、その生物の行動・性質が、環境的な理由で少しずつ変化していくことも勿論あります(後天的である)。 しかし多かれ少なかれ、生物の行動や性質は、祖先から遺伝子を通じて受け継がれてきたものです。 つまり、生まれてきた時点で、行動や性質がある程度は決まっている(先天的である)のです。 なので、性質や行動には、環境で決まる部分はもちろん、遺伝で決まる部分があるのです (個体の性質が、どの程度の遺伝要因で決定されているのか、を測る指標には、遺伝率 heritability という量があります)。

たとえば平均よりも長い首をもつキリンの個体に注目したとき、その子どもも、生まれたときから、別の親から生まれたこどもの平均よりも、長い首をもつ場合、首の長さの決定には、 遺伝子が関与しているだろう、と推論できます(逆に、首の長いキリンの親の首の長さを確認することで、遺伝子の関与を推理することも可能ですね)。 性質に遺伝子が関与するということを、その性質には遺伝的な基盤があると言います。 また、行動にも遺伝的な基盤がある(たとえば、ウミガメが、孵化後すぐに海へと向かってまっしぐらに進む行動には、遺伝的な基盤があると考えるのが自然でしょう)可能性も踏まえ、遺伝的な基盤を持つ行動・性質(姿かたちなどの、静的な状態)を、まとめて、遺伝形質と呼ぶことにします。*3

生物の遺伝形質に違いがあることで、どのようなことが起こるのでしょうか。たとえば、キリンの首の長さ(キリンの首の長さは遺伝形質であるとします)に違いがあると、何が起こるでしょうか。キリンの首が長いと、他の個体の首が届かないようなところに生えている枝や葉(資源)を食べることができます。首の長いキリンほど大型かつ高い所の枝や葉を食べられる生物もいませんから、そうした首の長さゆえにたくさん資源を獲得でき、さらにそのせいで生存率があがり、子どもを(ちょっとだけではあっても、他の個体に比べて)たくさん残せる可能性が高まります。ちょっと多く生まれた子どもには、首の長さを決定する遺伝子が受け継がれていますから、平均的にちょっと首が長い集団が生まれてきたことになります。

これが繰り返されると、どうなるでしょう?同じように、首の長いキリン個体たちはたくさん子どもを残せますから、 集団平均上、どんどん首が長くなるような「変化」が起こると期待されます。まとめると、

  1. キリンの首の長さは、(たくさんの)遺伝子(ここでは、「くびなが遺伝子」とよぶ)によって決まり、
  2. キリンの首の長さ次第で、獲得できる資源の量が決まり、
  3. 獲得した資源の量次第で、残せる子供の数が決まり、
  4. 多く残せた子供には、くびなが遺伝子が受け継がれ、
  5. したがって、くびなが遺伝子は結果的に、時間が経つにつれ、キリン集団で増えていき、
  6. 最終的にどのキリンも首が長い、という状態に至る。

このプロセスを、自然淘汰による進化と呼びます(適応進化、とも呼びます)。 自然淘汰の法則による、適応進化という考え方は、数え切れぬほどにいる生物が現在みられるような姿かたちをしている理由を、「たくさん子どもを残せたから」という基準に基づいて説明するための理論なのです。以下、自然淘汰の法則による進化という考え方を、適応進化理論と呼びます。

1.2 遺伝子はどこからくるのか:突然変異

しかしそもそも「首の長い遺伝子」はどこからきたのでしょう?

首の長さなどの遺伝形質が親から子に受け継がれるためには、親の遺伝子を複製(コピー)して渡す(ペースト)プロセス、 いわば「コピペ」が必要になります(親の体内にある「遺伝子という物質」そのものを受け継がせるわけではないのです)。 そのコピペの様々な段階で、ランダムな(つまり確率的な)エラーが起こることがあり、そのランダムなエラーを突然変異と呼びます。 現代生物学では、既存の遺伝子が、突然変異によって違う遺伝子になり、遺伝形質の個体差が生み出される、という考え方が概ね受け入れられています。

突然変異の効果がとても大きい場合は別ですが、首の(ちょっと)長いキリンは、首が(そこまで)長くないキリンが子どもを生んだ時に起こる、ランダムな突然変異によって現世に生まれる、と考えられます。 そして突然変異によって違いが生まれ、突然変異によって生まれた遺伝子が、首の長さを決め、たくさん子どもを残せるかどうかが、自然淘汰によって決まるということです。

1.3 適応という考え方が「生物を理解する営み」を学問たらしめた

適応進化理論はCharles Dawinによって1859年に『種の起源』で初めて提唱されて以来、生物学における人類の知見に、決定的な変革(パラダイム・シフト)をもたらしました。この理論による重要な帰結のひとつが、生きている生物の起源を理解するための営みを「科学化」したこと、そしてより哲学的に、我々人間の存在の由来を考えることも可能にしたこと、にあります(これらに限りません)。

もちろん、すべての生物を、神の作り出した所以である、と考える立場もあります。その立場をとるのは、個人の自由です。 しかし、私たち科学者には、「それでは、その神を作り出したものは何なのか」という疑問が生じ、神の神、神の神の神、を考える必要が生じ、まったく同じ推論が、永遠に終わりません (別のエントリで解説した「ホムンクルスの誤謬」と言います。ドラゴンボールに、武天老師様(亀仙人)→カリン様→神様→閻魔大王様→界王神様→大界王神様…という永遠に終わらぬ「師弟」あるいは「創造主」関係が生じるのは、この原理です)。 つまり、「創造主が生き物をかくも作り出した」という出発地点(仮定)からは、論理的に、(別の)結論を導けないのです。いっぽう、適応進化理論によって生物の性質を理解する営みには、以下に見るように、さまざまな推論が展開可能です。

1.4 いろいろな「なぜ」があっていい

さて、自然淘汰の法則は、遺伝形質の違いが残せた子供の数の多さの違いをもたらし、そして親から子に伝わる遺伝子の数の違いをもたらす(進化)という、「遺伝子のもたらす性質の有利不利」を決定する原理でした。 この仕組み(論理)は、生物の性質を観測した時に、「自然淘汰が遺伝形質の進化を引き起こした、究極的な要因は何か」についてのものです。 しかしもちろん、キリンの例だと、首の長さが一体どのような複雑な「くびなが遺伝子」によって実現しているのかを、一旦は「無視」しています *4。 このギャップはどのように埋められるのでしょうか?

適応進化によって、くびながの進化が起こったとして、その要因(首が長いことで、たくさんの餌資源を獲得できたから)を「究極要因」と呼ぶとすると、くびながに至るまでの進化的な要因は他にも、

  • 系統的な要因(キリンに近い種やその祖先も首が長いかどうか)
  • 生理的な要因(首を長くするような遺伝子がどのような転写制御機構系に関わっているか、そうやって身長の発育とともに首も長くなり骨も発達するか)
  • 発達的な要因(首を長くするような行動を後天的に行っているのかどうか)

などが考えられます(他にもあるでしょうか?)。このように多様な観点から、くびながの理由を解明することが、生物学という科学的枠組みでは、可能です。 この、究極要因も含めた、進化的要因の分類法は、「ティンバーゲンの4つのなぜ」と言われています。 こうした多角的な要因を解明することへの研究者の興味こそが、生物学の分野を多様なものにした原因のひとつです。 つまり生物学が多岐にわたる分野をもつのは、これが理由理由のひとつなのです。

私自身は、Nothing in Biology Makes Sense Except in the Light of Evolution -- 直訳すると、「生物学においては、進化を考慮してこそ、その意義がある」-- という言葉が大好きです。 私は、究極要因を常に念頭に置いて、生物学の研究を続けたいと考えています。

1.5 おことわり

うえでは、ヒューリスティックな例としてキリンを用いました。しかし、キリンの長い首の進化は「首が長いとたくさんエサを食べられた」という究極要因のみで説明できるわけではないことをお断りしたいと思います。たとえばこの動画を観ると、武器としての意義も(首が長くなった結果として)ある気がします*5

www.youtube.com

壮絶。

*1:ウイルスは除いてもいいし含めてもいいけど、話をシンプルにするため、ここでは一旦かんがえない

*2:たとえば、哺乳類等の四肢動物には、頭・胸・腹・腰・脚があるといった事実。これらには共通性があり、「パタン」があると判断される。

*3:英語では、単にtraitと呼ぶことが多いです。しかし、例えばtraitが文化的な所以で獲得されていることもあります。その際は、遺伝と文化の違いを強調するために、genetic traitと、cultural traitと、区別して表現します。

*4:なお、生物の性質の究極要因を解明する理論は、表現型ギャンビットと呼ばれます。

*5:このように、ある一つの機能を持っていた一つの遺伝形質が、別の機能を持つようになった(つまり別の自然淘汰が作用するようになった)ことを、前適応といいます。英語ではpreadaptation。

新型コロナ時代における持続可能性:「食べて応援!」への杞憂

自粛期間にあって外出することを控えている我々の行動規範は、感染症拡大を抑制するうえでは大きな効果があります。

同時に、経済的にはダメージも当然あって、それは、政府が補償すべきだという姿勢は揺るがないのですが、ただでさえ資源の枯渇した日本にあって、生産者の方々の担う役割は計り知れません。

それだけに、いかに生産者の方々を支えるか、というのも重要な課題です。*1

www.tabechoku.com

現にSNSでは、野菜・乳製品・牛肉・鶏肉・豚肉・魚介類を積極的に摂取することを促すポストも散見されます。そうです。経済を、大挙してまわさねばならない。

ひとつの心配事

上のものはすべて食べ物に関するものでした。食べ物は(多かれ少なかれ)他の生物由来です。 どんな生物をどんな形で利用するにあって、忘れてはいけない観点は、生態系の恩恵として持続可能性を保つことです。 ざっくり言うと、家畜などの動物、魚介類を、「すなわちいくら消費しても問題なく、お金さえ払えばベルトコンベア式に獲得できる食べ物」かのように見なすことはとても危険だということです。

そうした誤った信念は、必ずいつか破綻します。持続できる形で利用する。これは、利用するうえでの前提です。そのために社会ができることは、適正価格で取引すること。個人ができることは、適正価格で購入すること*2

その点で、「食べて応援」というスローガンには重大な観点が欠如しています。これはもともと、ニホンウナギの漁獲量の低下において掲げられた標語です。 冷静な解説がここに↓

zalgo-official.com

上のエントリはフェアな意見ですが、問題は、「食べて応援」は完全に、持続性の観点が欠如したものであること。乱獲浪費を招きかねない。

もっとも重要なのは適正価格で取引すること。

肉類を食べる行為には、もっと大きな、個人へのコストがともなって然るべきだし、密猟や密漁で財を成す人々の懐へのフローをいかに断ち切りつつ罰則を重くするか(これが、密猟密漁へのインセンティブをへらすことにつながる)という制度設計の観点からも議論されるべき問題です。

できれば、100年後の子孫に、「うなぎは滅びた生き物」という(将来の)史実ではなく、「うなぎは高いけど、時々は口に運べるかもね」という価値観が根付いていて欲しいものです。

*1:繰り返しますが、これは本来は政府による補償で達成されるべきことです。

*2:もちろん、高額で購入することは、個人のインセンティブとしては低いのですが、自身の消費インセンティブを低下させるという意味で、そういう個人の思想には価値があります

Zoomで始める公開講演(感謝!)

www.ithems.academist-cf.com

既にご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、上記のように、web上での公開講演を実施しました。

もともとは、オフライン、すなわち研究所の中で、“オープンキャンパス”よろしく、40人程度の聴衆の前で話をするという会になるはずだったのですが、ご存知のとおり、COVID-19の影響もあり、会は中止。

しかしacademistの方々のご協力と、私含める演者、プログラムのディレクター達の意志もあり、Zoomを用いたオンラインでの開催となりました。

  • 事前登録制(今回はなんと1500人も!)
  • コメント欄で自由に交流してもらう
  • 発表一人あたり、コメンテーターひとりと、ファシリテーター(academist社の方)を立てる
  • Q-A機能を用いて、質問を受け付ける
  • 内容は、ベーシックな部分。研究のコアな部分には深入りしなかった(←僕は、ですが)
  • 事前に希望した者に、Zoom上で“登壇”してもらう(テレフォンショッキング的な)

そこで得た経験をシェアすることは、今後のアカデミア全体においても有意義なものになることかと思いますので、端的に雑感・印象、そして事前に心配していたことと現実の対比をまとめます。

0. 全体の感想

とにかく、楽しかった!

チャットサービスも、QAサービスも、いままでに全くおこなったことがない試みでしたけど、ライブ感があってとってもよかったです! なんなら普段の学会やアウトリーチ会の発表後よりも、とてつもない達成感を感じます。

1. コメント欄、荒らしが出ないかなぁ

結果的に、素晴らしい、本当に素晴らしいチャットルームでした。盛り上げてくださって本当に感謝します。

  • 8888... :拍手です。
  • www... :草。笑ってることを表す記号です。

そしてみなさんの質問が的確であり、食いつきの素晴らしいことよ…。本当にありがとうございました。

2. えっ、1500人もいるの?めっちゃ緊張するんちゃう…?

結果的に、まったく緊張しませんでした。市井の顔が見えないというだけで緊張しないのですが、反面、ファシリテーターやコメンテーターの方々(つまり味方ですね!)の顔が見えるのは、安心できました。

3. スムーズに進むの?

Zoomの機能を駆使して、academistの方々が大変すばらしい運営をしてくださいました。これは、オンラインでもできた!Zoomだからできた!という、演者である私のちからではなく、academistの方々のおかげです。ありがとうございました。

4. Q-A難しそう…質疑応答、成立するの?

今回は、ZoomのQ-A欄に寄せられた質問を、ファシリテーターとコメンテーターが拾い上げて読み上げ、演者が答える、というスタイルになりました。 すばらしい質問がたくさんきていて答えられなかったのは残念ですけど、

  • 学会でやってしまいがちな、なが〜く冗長な質問、がない。
  • みんな、普段の挙手よりも積極的に質問をしてきてくれる。匿名・顔の見えないことのメリット!!

とはいえ、学会とはちょっと性質が違う(個人の研究のコアには触れない)ので、一概に比較はできないんですけどね。

5. スライドの準備のtipsは?

  • 著作権には、最大限の注意を払いました。いらすとやバンザイ。それ以外は、Macのビルドインの図形、絵文字、自分で作った画像、を多様しました。
  • それ以上に大変なのが、普段と違って自分のトークのなかのリズムがつかみにくい、ということを覚悟することです。無難な構成としては、ポインタを用いずに説明できるスライドを(オンラインでなくても)作るべきです。
  • 配色にも注意が必要です。
  • 時間配分が難しいです。けっこう、早口になってしまう可能性が高いです。意識して、ゆっくり、身振り手振りを使いながら、話すべきだと思いました。

6. ジョークは?

滑っても大丈夫。盛り上げ番長がいるかぎり。

7. Any advice?

Have fun!

インパクトファクターは科学者の業績を[必ずしも]測らない

語り尽くされた話題かもしれませんが。

科学における論文出版は研究者にとっても最も重要かつ楽しいものだと思います。その出版論文リストは時として「業績」と呼ばれます。その業績に基づいて、科学者はその「運命」が決まります。いわば就職しやすいかどうか、大きな研究費獲得は、その業績に大きく依存することは疑いようがありません。それはフェアなことだと思います。うん、疑う余地もありませんね?

そもそも業績とは

業績とは成し遂げたことです。つまり科学者科学者として何をしたかを表すのが業績。でも論文って(あるいは学会発表ってのは)、何かを世間に公表するための手段ですから、何を成し遂げたかを説明したことにはならないはずです。

そうではなく、どういう研究をして、どのように、何を解明したのか、が業績です。

ユートピアでしょうか。いや、そんなことはないはずです。論文を出版したことではなく、論文の中身が業績です。

評価の指標:インパクトファクター

業績は他者に評価される運命にあります。それは当然だし、それでもって採用の可否が決まるのは、いまの社会では当然のこと(正確には、当然として受け入れられていること)です。

たとえば我々が人事職に就いていて、“優秀な人材”を採用したかったら、業績を評価する。そりゃそうです。

でも、その人材の候補者がたくさんいて、そのなかから採用者を選ばねばならない場合、彼ら彼女らの業績を、相対評価せねばなりません。その場合、候補者全員の論文をひとつひとつ読むかと言われると、そんな時間はないでしょう。

また、「論文」とひとくちに言っても、たくさんの種類の論文が数多のジャーナルに掲載されています。漫画でいうと、ジャンプ、マガジン、サンデーのようなものです。Nature, Science, Cell, Lancet, などの“Top Journal”から、専門ジャーナルや、ハゲタカジャーナルなど、“玉石混交”多種多様です。

ということで、一部の科学業界では、ジャーナルの「科学的貢献」を測る指標として、インパクトファクター(IF)というのが導入されています。

正確な定義は他に譲りますが、端的に言えば、そのジャーナルに前年と前々年の二年間掲載された論文一本あたり、本年に何回(のべ)引用されたかを測っています。

たとえば、2010年/11年の二年で100本の論文を掲載したジャーナルが、2012年に合計400回引用されたら、2012年のIFは400/100=4.0ということになります。

ジャーナルのIFが高いということは、平均的に見て、過去の二年間、研究界隈で「話題に」なって、他の論文でも取りざたされた論文が多いということであり、ジャーナルが科学的議論の発展に貢献していると判断されます。

そういうことで、直感的には、IF=15.0のジャーナルに論文が載った!と聞くと、ああすげえな、という気分にはなるかもしれません。

この直感が問題。

IFは論文の指標ではない

IFは、ジャーナルの指標であって、論文の指標ではないので、昨日掲載されたあなたのわたしの論文は、IFとは無関係です。 IFはいわば、他者が*1そのジャーナルに出版した論文の被引用回数を示すものです。

IFは過去の指標

さらに、IFは、二年遡った過去の論文が引用された回数によって社会へのインパクトを測っている。掲載されたホヤホヤの論文たち(だけ)ではないのです。

「なので“IF=15.0”のジャーナルに論文が掲載されました!」という公表は、ジャーナル(における過去の論文たちがどれだけ引用されたか)という威を借る狐ということだし、過去の論文の引用された回数の平均を述べているという、自身とは関係ないことを宣言しているに過ぎません。そういう態度は、科学者として、すこーし不誠実、かも?

IFは査読の公正さ・厳密さとは関係ない

さらには、IFはジャーナルの指標ではあっても、査読の厳密さの指標でもありません。もし査読の厳密さを論ずるなら、すべての査読コメント・リプライを公開すべきです。査読は採用の可否に多大なる影響を及ぼすのは事実ですが、これまで40回以上の査読に携わった身としては、査読よりもエディター(査読者と著者のやりとりを媒介する、“中立的な”立場の人;もちろんジャーナル関係者)のほうが重要だと考えます。査読者がジャーナルのカラーや方向性・スコープに与する側面は限られているので、それは自然なことでしょう。

IFは足せないので加算平均がとれない

IF合計値を気にする研究者がいるという話はよく見聞きします。しかし、次のような問題を考えてみましょう。

太郎くんは、動く点Pよろしく、地点AからBまで、3kmの旅をしました。行きには1時間かかりました(つまり平均時速は3km/hでした)。帰りは30分でした(よって平均時速は6km/hでした)。さて、平均時速はいくらでしょう?

 (3+6)/2 = 4.5と答えたくなるのが人情ですが、実際は、 3×2 =6kmの距離を、 1+0.5=1.5時間かけて旅したので、 6/1.5=4ということになります。小学校でやりましたね。これは、大学以降で習う、調和平均というものです。

このことから、割り算された値には注意が必要なのは自然なことです。

IFも定義からして、ジャーナルごとに、掲載された論文一本あたりの引用数から算出されているので、足しても意味がありません。よって加算平均をとることは意味がなくて、もしやるならせめて調和平均をとらないといけません。

もちろんそもそも、先述の通り、IFは「いまの・その論文」の重要性を測ることはしませんから、業績の評価に用いること自体が論理的におかしいですけど。

研究人口に大きく依存する

引用されるためには、論文で言及されることが必要(かつ十分)で、論文を書くためには人が必要です。よって、単純計算からも分かるように、研究人口が多い分野ではIFが高くなる傾向にあります。

年変動する

IFは一年ごとに更新されますので、年変動します。しかも主に他者の研究の影響を受けて。

人事では用いられている悲惨さ

自身の身を案じていることから多くは言いませんが、「インパクトファクター 合計」などでGoogle検索すると、大量の情報が見つかります。人事決定権のある科学者が、上のような誤りを犯し続けているのは、非常に問題です。

例を下記に付します。

http://www.saga-u.ac.jp/houmu/kisoku/igakupdf/1-04-14-02.pdf

発表論文実績の規定

基礎医学助教

pact factor の合計数が3以上(算出係数1st,Corresponding, last,指導教員は×1として,2ndは×0.5として,それ以外は×0.2として計算)又は欧文原著数2編以上

(簡易な書き方をすれば、) IF= 引用された数 ÷ 出版数 に、(引用と関係ない)著者の順序に基づいた重みをつけている。これで最後に和をとるのですから、一体何を表す数値なのか、まったくわかりません。

こうした風潮は、若い研究者に“IF主義”が根付く前に(もう遅い…?)、撤廃すべきです。発表内容を聞いて、その価値を(最終的には主観的であっても)判断すべきです。

論文のIF(の合計値)だけから研究者の「優秀さ」を評価することは、どんなことがあっても不可能です。

最低限の目安としては機能するかも?

IFはその定量的な意味合いの解釈は難しいですが、たとえば、3年以上運営しているにも関わらずIFが付与されていないジャーナルや、IFが極端に低いジャーナルの「怪しさ」を見極めるには役に立つかもしれません。*2

結論:IFを「その論文の質」と直ちには考えない。論文は読むべし!

↑このツイートには同意できる部分はありますが、

↑この後半は、決定的な誤りです。こういう情報を研究者が(正しい定義や解釈を与えることなく)流布するのは問題です。また、研究だけでなく研究者自体の評価などに用いるのも不適切です。

だめ、絶対。…は言い過ぎました。謹んで訂正します。

が、IFを、加法尺度として鵜呑みにすることが危険なのは事実です。たとえば、理論系の論文、特に数式の多い論文は、生物系では引用されない傾向にあります。 {出典追記予定}

また、IFの従う分布は裾が重い(平均値から大きく逸脱した例外が多い)ことは周知の事実、よって分散(ばらつき)が大きく、IFを用いて、当該の論文の将来の被引用回数を予測することは困難です。

高IFの雑誌は、読まれやすい

これを書かないのは、アンフェアでした。高IFのジャーナルは、たくさんの読者の目に届くところとなりますので、自然にたくさんの方々に読んでもらえる機会が大きい。

これは、高IFジャーナルに出版する大きなメリットです。また、分野全体を盛り上げることにも繋がります。なので、そういうジャーナルへの投稿をディスカレッジする意図はいっさいありません。

しかし一方で、IFのうえでマイナーな雑誌を中心に論文発表している研究者は、分布上は大多数にも関わらず、「目立ち具合」でいうとマイノリティということになります。この原則は、被引用件数の伸びた論文は、引用されやすくもあります(目立つし、他の人が引用しているし)。つまりやはり、正のフィードバックがあるわけです。

科学者の貢献を、過度のバイアスなく正当に評価するための方法は、常日頃から、私含め科学者が真摯に考えるべきことだと思います。

*1:当該の著者が、そのジャーナルに出版した論文数がとても多い場合は別であるが、ほとんどそういうことは起こらないし、もしそうなっていたら、それはジャーナルとして問題だろう

*2:とはいえ、そういうことを調べるより前に、ジャーナルにアクセスして論文を開いて、その体裁やアブストラクト、図、数式、結果、表などをチェックする方が速いと思いますが。