Life is Beautiful

主に進化生物学の理論のブログです。不定期更新予定。

人格と議論の非可分性

白熱した議論になると、ついつい言い合いのようになってしまうことがあります。*1その結果、落ち込んだ気持ちになることが、科学者の世界では悲しいかな、ままあると思います。

 

僕は誰にもそんな思いはして欲しくないし、できれば言い合いではなく話し合いできればいいなと思っています。

 

そんな落ち込んでる人たちに対して、どういう言葉をかけるべきでしょうか。私なら、十分よくできてましたよ、面白かったよ、これから面白い方向がきっと見つかるよ、とか声をかけたいし、そうしたことがあります。

 

一方、「議論と人格を分けるといいよ」と助言する人もいるかもしれません。でも、私はこれはとても問題がある助言だと思いますし、これが暗黙の前提ルールかのように話すこと、そのルールがそうであるべくして成立しているモノ、と考えるのは、危険であるとすら思います。

 

まずそもそも、研究はもちろん、仕事は人間の精神が関わる所業ですから、むしろ、人格(これは良し悪しだけではなく、個人総体です)あっての議論だと思うのです。私の場合は非可分です。よって、議論と人格が非可分である、という「例外」がここにいる私ですから、可分であるという主張は一般には成立しないことになります。

 

次に、もしも可分であるなら、その方法を、筋の通った方法で示す議論すべきです。あたかも「誰にでもできること」かのように仮定することはできません。私は、そんな方法はないと思います。もしあるなら、議論してその方法を示してほしいです(ほんとうにあるならほんとうに知りたい)。

 

さらに、もし可分であるとして、それを他者に求めることは論理的にできません。他人に「議論と人格をわけろ」と求めることは、他の人格に働きかける議論になっていますこれは自己言及にともなうパラドクスにも見えますが、実のところ、自己矛盾です。

 

そしてさらに、人格攻撃と捉えられてもおかしくない議論をする人にとって、「議論と人格を分けろ」は、都合の良い免罪符になってしまうという問題があります。人格攻撃は、ad hominemという誤謬として知られていますが、議論と人格が分かれているという思想の定着は、容易にad hominemを生み出します。だって、助言に従えば、人格を無視し合ってもいいんですから。

 

なるほどたしかに、「分野」次第では、強めの表現で議論をする風潮があるのかもしれません。でも、風潮があることと、その風潮が良いことかどうかはまた別です(自然主義の誤謬)し、風潮を利用して主張を正当化するのは、appeal to majorityという形式的誤謬です。あるいは、既存集団への自己帰属意識から自己の主張を正当化することは、appeal to authorityという形式的誤謬です。

 

そして。

 

以上のように、私が誤謬を提示する時は、攻撃の意識ではなく、論理的なところだけ援用したつもりです。しかし該当する言明をしたことのある人にとっては、攻撃的に感じられたかもしれません。もしそうならすみません。でも、議論に人格の伴わない方には、人格に関わらぬ論理的非整合性の指摘という手段でしか、伝えられないのです。私には感情があるんですよ、だから議論と人格を分けろなんて言わないでほしい、という言葉が届かないからです。それは、すこし悲しいことにも思えます。

 

 

議論相手は常に人間、受け止め方は千差万別十人十色。「お気持ちを害さないことを目指せ」と言っているのではありません。人格のある人間であり、信頼あっての人間関係ですから、信頼を築きあえる手段を、敬意ある態度で相互検討するメリットはあるのではないかと思うのです。

 

また、「議論と人格は同じもの」と主張したいわけではまったくありません。ただ、アリストテレスの『弁論術』にもあるように、説得は人となりによるもの、という部分があって、議論からは人としての尊厳や人格を除去するのは不可能、と言いたいだけです。

 

そして、ほかならぬ私自身が、人格のない議論をしないように気をつけよう、と思います。

*1:僕はないです。話を最後まで聞く習慣があることと、それで憔悴したり自己嫌悪するのがイヤだからです。